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荘園とは何か

                   『九州歴史大学講座』6-9頁

服部英雄

荘園というと難しいという印象があるようだ。学校では習ったが何のことか忘れたとい う人も多いのだろう。荘園制とは古代・中世に行われた土地制度である。全国の土地が京 都をはじめとする各地の権門(貴族や大社寺)の私有地になった。近世や近代の一元的な 年貢徴収にくらべ中世のそれは多元的である。ある土地から複数の権門(荘園領主)が年 貢を徴収できる。つまりある荘園から本家年貢が本家である権門に出されるが、それとは 別に領家年貢というかたちで、領家になっている別の権門がまた異なる年貢を徴収する。 年貢を払う側にすればあっちにも出し、こっちにも出し、ということになる。なんだか納 入先がいくつもあるみたいだ。大寺院が荘園領主であれば、正月の修正会の費用はある荘 園から、二月の修二会の費用はまた別の荘園から、という具合に年貢を徴収し、一年間の 経営を行う。年貢を払う側にすれば自分のところはあのお寺の三月分のおつとめを負担い たしました、ということになる。複雑な土地制度のようにみえるが、寺などは今でも似た ようなお布施の徴収をしている。それから寺もそうだが、家元制度だって、組合だって、 ヤクザやさんだって自分で集めた金は上の機関に一定部分を上納しなければいけない。上 納を受けたものもさらにその一部を上の機関に上納する。なんでそんなことをするのか。 といえば上納することによって自分の権益を守っているわけだ。荘園制もそうした仕組み にとてもよく似ている。中世の領主たちが守ろうとした権益は年貢を徴収できる権益だろ う。国家的な年貢徴収制度ではなく、私的な、家政的な年貢の徴収システムが無数に作ら れていた時代、そういったら荘園制の時代をうまく説明できるかもしれない。 荘園の研究視角は多角的だ。中には、こうした収取制度のことを一生懸命に研究する人 もいる。また特定の荘園領主に着目して、どのように荘園を集積していったのかを研究す る人もいる。太宰府安楽寺領はどこに所在し、宇佐宮弥勒寺領はどこにあったのか、とい った研究である。またある人は荘園が誰から誰に伝えられていったのかを研究する。伝領 関係の研究である。また荘園内部の構造を解明しようとする人もいる。預所、下司、地頭 らがどのような関係にあったのか、といった点の解明である。いろいろな研究視角がある けれども、こんなことをいっていたら話がずいぶん難しくなってしまう。

荘園とは中世の村

 だからここではあまり難しく考えることはやめておこう。 荘園といったって住んでい たものにとっては、ふつうの村に住むのと同じだ。たまたまその土地が権門の私有地にな っていたからといって、人々の生活が極端に特殊なものになるはずがない。ある荘園の村 の生活が、隣の荘園の村の生活と変わることは、ほとんどなかった。 だから荘園とは中 世の村のことだと考えてもらえればいい。そして考古学が原始や古代の人々の暮らしを解 明しようとするように、僕らも中世の人々の暮らしを解明する。その方法はいくつもある 。研究者が荘園、荘園と騒ぐのは、ある荘園に関する史料が、かつて領主であった寺院や 貴族の家、あるいは地頭であった侍の子孫の家に残されている場合があり、それを使って 具体的な事実が分かることが多いからだ。ある地域の中世の様子、つまり荘園の時代のこ とを知りたいと思った場合、 運が良ければ残された古文書が使えるかもしれない。でも 多分その古文書には僕らが直接知りたいことは書いてはないだろう。そこで現地を歩いて みたらどうなるか。

現地を歩く

 現地にはなにがあるか。地形、地名、慣行、遺跡ーーー中世を考えさせてくれる多く の手がかりがそこにはある。現地には多分田圃があるだろう。その田圃はいったいいつ開 かれたのか。目の前の景観はいったいいつできてきたのだろうか。こう問いかけた場合に は古文書の記述は大いに役に立つだろう。古文書には直接この答えは書いてはないが、手 がかりとなる記述は多分見つかるはずだからである。現地には地名もある。地名なんかち ゃんとした史料になんかなるものか。たいていの真面目な研究者はそう考えているはずだ 。しかしそうでもない。当たり前のことだが古文書に記述のある地名が現地に残っていた ら、古文書に記述のある場所がどこなのか、すぐに分かるし、その読みもぐっと深まって くる。また文書に全く記述がなくとも、中世特有の地名があれば、それを手がかりにいろ んなことを考えることができる。またその地で遺跡の発掘がなされて中世の遺跡が検出さ れていれば、中世の状況はより克明に分かってくるだろう。

報告の分担

 今回の報告では、服部が発掘によらない方法での全体的な観察による中世の復原を、ま た宮武、木島の二人が主として発掘の方法による中世の村の復原を行っていくことになろ う。とりあげるフィールドは服部がまず領主直営田の地名であるゆうじゃくをとりあげ、 その例として筑前国宗像郡(現在の玄海町、宗像市、ほか)の一部をとりあげる。つづい て筑後国三瀦庄の故地(現在の久留米市、三瀦町、城島町、大木町など)を説明する。ま た宮武は主として日宋貿易で名高い肥前国神崎庄(現在の神崎町、三田川町、千代田町ほ か)、 木島は主として得宗領(執権北条氏の嫡流の所領)だった肥前国安富領の故地( 現在の佐賀市)を取り扱うことになる。

宗像社の周辺

 宗像社に足を運ばれた人は多いだろう。しかしそのまわりにどんな地名があるのか、関 心をもつ人は少ない。地図一は『宗像神社史』に引用された小字図である。ただしすこし 誤植があるので訂正した。たとえば「夕沢」とあるがこれは「ゆうじゃく(夕尺)」が正 しい 。中世を考える重要なキーワードである。U音とO音の混同により「ようじゃく」 ともなる。本来的な語義は「用作」である。北九州市若松区の用勺町、佐賀県唐津市の用 尺町、千代田町の用作などは地図にも乗っているし、なじみのあるものだろうけれども、 たいていの地名ようじゃくは小字か、それよりも小さい通称地名である。いずれも在地領 主の直営田と考えられる。宗像神社の背後にあるこの地名夕尺は宗像大宮司の直営田だっ たと考えて間違いはない。御幣田という地名もある。神社の祭祀に使われた田だ。前田も ある。村の前にある田。村人たちの重要な田で生産量が高かった。こういった田の配置か ら中世の村の様子を知る第一の手がかりが得られる。

三瀦庄荒木村および田川

 荒木村には「近藤文書」と呼ばれる古文書が残されている。その文書には中世の荒木村 の耕地の状況が克明に記されている。そしてそこに記された田圃の名前が現地に最近まで かなりよく残っていた(地図二)。この耕地を潅漑する用水をあわせ調べていくことによ って、中世に存在したであろう用水の復原もできる。とりわけ「三瀦庄大井手」と呼ばれ た用水の復原が問題になるが、水利慣行の調査ほかにより五箇村井手の前身用水だったと 推定される。そしてその延長上にやはりようじゃく(田川、用作)がある。近世に五箇村 井手は拡張されるが、そのなかでもこの用作は水利上の優位を継承し保っていた。

三瀦庄八院村と白垣村

クリーク地帯にある村々も中世以来の歴史が分かることがある。ここにも用作地名が点 々と残っている。八院村と白垣村には松浦山代文書という中世文書が残っている。その中 の正安二年(1300)の史料に「筑後国白垣郷内両堤東_南新田牟田在家」とある。現 地には「堤」という字名を囲むように北屋敷、東屋敷、西屋敷が並ぶ。在家とは屋敷のこ とであり、堤を中心に屋敷が立地する様が現地の景観にも残っている。「網縄池」といわ れたものは クリークの原型ではなかったか。そんなことを地図、小字図を見ながら考え ていきたい。