追悼・石井進先生                                     服部英雄
 石井進先生が亡くなられた。フランスでの学会発表を終えて、帰国されたその夜に。
この週末には棚田学会の現地見学に参加されるはずだった。いまだに信じがたい。あん
なに元気でエネルギッシュな先生が、突然、消えていなくなった。
  先生の研究は『日本中世国家史の研究』(岩波書店, 一九七〇)に代表される文献(
古文書・記録など)を駆使する、厳格な実証主義の成果がよく知られている。しかしそ
うした方法に加え、むしろ古文書学を拡げ、さらに文献・文字史料以外の領域にも史料
学を拡げるところに大きな特色があった。
 「柳田国男・最後の弟子」。柳田の私宅での研究会に、高校生だった先生も参加し、
研究発表をされた。柳田は文献のみによって書かれる歴史学を強く批判している。先生
にはその視点が継承された。それは読み書きもできず、文字(文献)を残すことのなか
った一般民衆の歴史にせまり、明らかにするということでもある。先生はそのための手
法として、現地を歩かれることを徹底された。歩くことによってはじめて見えてくるも
のは多い。それをアカデミズムの手法で検証しつつ、明らかにしていく。『中世武士団』
(小学館, 一九七四)、『中世の村を訪ねる』(朝日新聞社, 一九九五)など。全国各地
をフィールドとした著作には、そうした特色がよく表れていた。現地の景観、とりわけ
棚田や荘園故地の水田保存に熱心で、棚田学会を創設し、初代会長になられたのは、そ
の延長上である。
  先生の教えを受けたものは、勤務校、他校の学生のほか、各地の歴史研究者、文化財
担当者をはじめ、全国に多い。みなが先生の広範囲な領域のどこかを継承している。わ
たし自身は現地を歩くことと、地名を歴史資料として使うことを学んだ。わたしはいつ
も先生にほめてもらいたい、そう思っていろいろな文章を書いてきたようだ。叱られる
ことも多かったが、喜んで下さるとうれしかった。いま、改めてそう思う。
 先生には「都市鎌倉における「地獄」の風景」(一九八一、『御家人制の研究』・吉
川弘文館所収)や『中世都市と職能民』(二〇〇一、新人物往来社)に見るように、差
別された人々の歴史につよい関心がある。この夏、久しぶりにご自宅でゆっくりとお話
を聞いた。豊臣秀吉が被差別階層の出身であると主張する小説が話題となっていたが、
先生はそれとは別に、自身の観点から秀吉の出自と周辺の人々にたしかに賤視された環
境のあったこと、それを学問的に明らかにしたいと語られた。秀吉像は一変する。わた
しはこの論文の完成を心より待ち遠しく思った。
 先生は頼まれたら断らない人で、手帳はいつもスケジュールでいっぱいだった。過労
がわれわれから先生を奪った。石井進の世界は無限の可能性を持っていたが、半ばにし
て閉ざされた。等身の高さになる著作があっても、まだまだ書き足りなかった。歴史学
界の受けた損失は、はかり知れなく多い。
                         (九州大学大学院比較社会文化研究院・教授)

信濃毎日新聞


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