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     虚実はあざなえる縄        ------殉死者たちの墓碑から-----

                   『日本歴史』600、98-106頁

        服部英雄

 森鴎外の小説のなかに「歴史其儘」とよばれる一連の作品があり、その代表と されるのが『阿部一族』(大正二年<一九一三>)である。 寛永十八年(一六四一)肥後熊本藩主細川忠利の死に際し、阿部弥一右衛門は 殉死を願い出るが許されない。生き延びた彼に対して家中より起きる卑怯ものと の声。堪えかねて弥一右衛門は独断で切腹する。このことを発端として残された 阿部一族が中傷され、遂には武力抵抗を試み、滅亡に追いやられる。  この作品のもとになった史料が『阿部茶事談』(明和二<一七六五>年以前の 成立)である。鴎外は文学者であるから小説には当然に創作部分が含まれている。 しかしその部分は極々わずかで、『阿部一族』と『阿部茶事談』を読み比べてみ れば両者はほとんど一致する。「歴史其儘」というよりは「史料其儘」に近い。 鴎外自身もこの作品を、「歴史其儘」として位置づけているようだ。史料に反せ ず、かつ史料にない部分のみを推察でつなげていく方法は、歴史学の方法そのも のといえる。だから『阿部一族』は歴史学者にも高く評価され、殉死と武士道の あり方を考える場合の好素材となっていた。そのことは各種の歴史学事典の「殉 死」の項を読めば明瞭だ。 細川忠利の墓所はJR熊本駅に近く、妙解寺跡にある。鹿児島本線の車窓から も門やクスの森を見ることができるが、いま寺そのものはなく、北岡公園と呼ば れ、丘の中腹に忠利夫妻と光尚の、つまり親子三人のおたまや(霊屋)三棟が残 されている。その建物を囲むのが殉死者たちの墓だ。忠利の霊廟には十九名、光 尚の霊廟には十一名の殉死者の墓がある。  そして前者には阿部弥一右衛門の墓もある。殉死者たちの墓はどれも同じ大き さで、特に彼の墓が目立つわけではないが、墓域の隅の多くの人が足を運ぶ位置 にあり、よく注目される。私がこの墓碑をみたのは十年ほど前、文化庁勤務時の 史跡指定の事前調査のときだったが、そのとき、ささやかな疑問を感じた記憶が ある。ここに墓碑のある十九名の死は藩公認のものだ。阿部弥一右衛門も含めて。 だが勝手に追腹を切った人物までが霊廟に合葬されるのだろうか。そこで『熊本 市史』(旧版、一九三二年刊)をみたが、忠利の殉死者十九名のうちの一人とし て阿部弥一右衛門の名があがっていた。格別、彼の殉死が不許可であったとは書 いてはなかった。以来わたしは弥一右衛門の死については疑問をもつようになっ た。 しかし実はその段階で既に阿部弥一右衛門の死の虚構性について論究した研究 が発表されていた。藤本千鶴子氏の一連の研究*がそれで、氏は家譜などのちの 史料(二次史料)に引用された書状(一次史料)をもとに、彼らの殉死を許可す る立場にあったのが、死去した旧主ではなく新当主であったことを明らかにし、 さらに旧主から殉死の許可をもらうことは参勤交代などのあり方からいっても不 可能であった、などの状況証拠を挙げ、くわえて弥一右衛門の出自(豊前国宇佐 郡山村の惣庄屋山村弥一右衛門)もつきとめて、鴎外の『阿部一族』と史実との 乖離を指摘した。鮮やかな論証であり、国文学における史料分析も、歴史学と何 ら変わらないことが分かる。 *・歴史上の「阿部一族事件」(『日本文学』二二、一九七三-二)  ・『阿部一族』殉死事件の真相と『阿部茶事談』の史料的性格(『熊本史学』 四四、一九七四)  ・鴎外『阿部一族』の発想(『近代文学史論』一四、一九七五)  ・「阿部一族」事件の発掘----阿部弥一右衛門の出自・経歴・殉死----(『文 学』四三、一九七五-一一)  ・阿部一族の反乱と鴎外の『阿部一族』(『武庫川国文』一四・一五、一九七 九)  さらにこの視点を徹底的に押し進めたのが、山本博文『殉死の構造』(弘文堂 ・平成六年)だった。山本氏は『日帳』、すなわち細川忠利が死去した当時の寛 永十八年(一六四一)の熊本藩の政務日誌の記事に注目し、阿部弥一右衛門が他 の殉死者同様に四月二十六日に殉死したと論証した。  即ち『阿部一族』も、そのもとになった『阿部茶事談』も実は虚構だった。阿 部弥一右衛門が遅れて切腹し、そのことで非難を受けることはなかった。山本氏 の手法は一次史料である同時代の史料を優先させ、後世の史料(二次史料)を排 除する正攻法そのものだった。  そこで『阿部茶事談』も『阿部一族』も排除して、妙解寺墓所と『日帳』のみ を置いてみれば、両者はなんの不自然さもなく繋がった。積年の疑問が氷解する とはこのことだろう。一目瞭然。遺跡は以前から雄弁に真実を語っていたのに、 それを読みとることができなかったのは不明であった。  さて『日帳』(永青文庫・熊本大学図書館寄託)の記事とは以下である。 (四月)廿六日 一、御供衆、達而被成御留との仰渡、御花畠ニ而、何も御揃て被仰渡候、        大塚喜兵衛 ヽ      原田十二郎ヽ 本庄喜介ヽ 太田小十郎ヽ     内藤長七郎 野田喜兵衛 伊藤太左衛門 阿部弥一右衛門 小林理左衛門 宮永少左衛門 橋谷市蔵ヽ 井原十三郎 津崎五介 南郷与左衛門           四月廿七日 右田因幡         四月廿九日 寺本八左衛門 --------------------------------------------------------------------         五月二日  宗像嘉兵衛         宗像吉太夫         六月十九日 田中意徳  ここに連記された人名は殉死者の名簿である。日付のない十四名は二十六日に 切腹したのであり、そのグループに入っている阿部弥一右衛門もこの日に切腹し ている。『日帳』による限り、彼は四月二十六日に他のものと同時に死んだのだ った。藤本氏や山本氏の研究は従来の殉死のイメージを一変させてくれた。鴎外 が強調したのは殉死の許可制である。許可を得た十八人と、許可を得なかった弥 一右衛門を対比する叙述によって、一族の悲劇を予想させる。しかし許可は寵愛 を受けた先君からもらうものではなく、新当主よりもらうものだった。忠利の死 去後、殉死を志願する者は藩に文書で願いを提出する。それに対し新君主光尚の 指示によって、すべての者の願いは却下される。殉死者たちはいずれも無許可で 死んだのだった。阿部一族のみが特別扱いされたことはなく、子の阿部権兵衛た ち兄弟は、弥一右衛門の死とはほとんど無関係に、光尚に従う新勢力との摩擦に より対立し、滅びたのだった。  さてこの『日帳』の記事は実はいくぶん難解である。まず二十六日の記事に二 十七日以降の記事を含む。山本氏の場合は『日帳』は基本的にその日に記される という立場にたつから、二十七日以降の死者の名は追筆ということになる。一方 藤本氏の場合は、この名簿自体が六月十九日以後になって書かれているとした。 山本氏のいうように最後に書かれた六月十九日の田中意徳は同筆ながらも墨が濃 い。その前の五月二日の宗像兄弟は墨が薄い。しかし『日帳』は四月二十六日の 死者(日付のない死者)までで二行を残して紙面の半分が終わっている。二十六 日段階では後は空白のはずだ。『日帳』は料紙の冒頭か、または折られた冒頭か らその日の記事が始まる。普通なら残る半分、製本後は見開きの始めになるとこ ろから翌二十七日の記事に変わっても良さそうであるが、そうはなっていない。 するとこの部分は後に清書されたものかもしれない。墨色の濃淡についてもそこ で一度墨を摺ったという程度とみれば良いのかもしれない。  わたしはどちらかといえば藤本氏に近いイメージを持った。この日の記事は本 文と名簿に直接の脈絡がない。文脈に従えば、日付のない十四名は御供(殉死) の願いを出していたもので、御花畠に呼び出されたものたちと考える方が自然で ある。しかしこの解釈では殉死願いを出していたはずのもの、つまり二十七日以 後に死ぬ五名や殉死しなかった南畝小兵衛たちが網羅されていないなど、不都合 な点が多い。だから本文を受けて名簿が書かれたというよりは両者は別次元で書 かれたと見たい。本文はその日のことを記し、名簿は後のことを記している。そ こにはギャップがあった。  さてこの日に家老がうちそろって殉死の禁止命令を通達したのに、ほぼ全員に 近い十四名が、それをきかずにその日の内に死んでしまったというのは、かなり の異常事態と思う。新君主光尚の最初の指令であり、国元の年寄衆の威信がかか っていた。にもかかわらず誰一人制止をきかなかった。家老たちは「お許しは遂 に得られなかった。おまえたちは殿の御下国の日までに切腹せい」とでもいった のか。まさかそんなことは考えられない。家老たちは真剣にとめようとしたと考 えたいし、その「主命」をめぐってかなりの葛藤や混乱もあったはずだ。それが 本文記事と名簿の間のギャップになっているのではないか。そんな気もする。  一人ひとりに通達したのか、いっせいに申渡したのかは分からないが、殉死志 願者を一堂に集めたのは失敗だった。彼らはどうするかをたずねあう。「御家老 の言い分は昨日までとは違う」「江戸の指示をただ伝えただけ、ことなかれ主義 だ」。命を捨ててまでの信念の崇高さと現実との落差。彼らは怒り、ひとりが 「自分は絶対死ぬ」と主張すれば、迷ったものもその意見に引きずられていった。 後のものだが『綿考輯録』(土田将雄編・汲古書院刊)のような別系統の本によ っても、日付のない十四名のうち原田十二郎、大塚喜兵衛、橋谷市蔵、野口喜兵 衛、本庄喜助、南郷与左衛門、宮永少左衛門、伊藤太左衛門の八名が、四月二十 六日に切腹していることが確認できる。このうち四名は『日帳』の記載の下に合 点のある人物だ。  それにしても殉死の禁止を通達しながら、その後何らの手だてもせずに放置し ていたとすると、あまりに無策ではないか。普通なら縁者や上司に当たるものを 使って説得するだろうし、この場合もそうしたはずだ。  『日帳』の追腹の記事は、遅れて死んだ宗像兄弟にかかる五月二日の記事まで ないから、その間に死んだものは一括してこのところに書かれたのだろう。しか し後世の史料では別の日に死んだとされる人物もいる。津崎五助(五介)につい ては『綿考輯録』の編者は三月廿六日、また四月廿六日とも、また「御中陰果の 日」(五月七日)ともある三説を紹介して、後二者のいずれかだろうとしている。 津崎は三月に殉死のことを申し出たが、留められたと『日帳』(三月二十七日条) にある。それ以来一ヶ月にわたって説得され、この日を待っていた。やはりダメ かと絶望したのか。あるいはなにかがあったのか。また『綿考輯録』は阿部弥一 右衛門についても、津崎五助より「跡」だったとする説を紹介して、「月日のこ とか、何のことにや、不分明」と記している。こうした異説は単なる誤伝なのだ ろうか。『日帳』名簿の合点にどういう意味があるのかは分からないが、合点の あるものの大半は二十六日の死が確認できる。津崎も阿部も合点はない。  さて彼らは全員が許可なく死んだのだが、なぜか、いつのまにか許可を得て死 んだことになった。例えば『綿考輯録』は新当主光尚による許可ではなく、先君 忠利から直接許可を得たものたちとして、内藤長十郎元続、橋谷市蔵重次、宮永 勝左衛門の名を挙げている。『綿考輯録』は宝暦二年(一七五二)に編纂が着手 され、安永七年(一七七八)には草稿本が完成している。事実とは異なる所伝が 早くも百年後にはできていて、歴史家であると考えられる細川家の家譜作成者た ちにまで浸透していた。『綿考輯録』は彼らについて「願之通殉死之面々」(三 八六頁)といっている。殉死は届出制ではなく、許可制だった。その事は歴然と している。この表現からは編者たちも願いが許可されたと判断していたことがわ かる。  彼らは藩命に従わなかった。鴎外の表現を借りれば、「抜駆」であり、「犬死」 だった。不忠でもある。にもかかわらず殉死墓碑が建てられ、藩主の墓所に合葬 され、藩によって顕彰された。許可制を採り不許可としながら、黙認し追認し、 くわえて顕彰した。殉死の許可制は何の意味があったのだろう。 『綿考輯録』に関連記事がある寺本八左衛門直次の場合は次のようにある。 「八左衛門は光利君<光尚>の御意に背いて追腹を切ったので、跡目の相続は仰 せつけられないのが本当だが、それではあまりに不憫ということで、嫡子久太郎 自身が拝領していた小姓としての三百石は召し上げ、親の分の千石は久太郎に与 えられた。」  功罪相半ばという理屈らしい。黙認・追認ばかりではあったが、なるほど許可 制は建て前だけではなかった。  殉死が子孫・縁者の経済的特典に結びつくことはなかったことも山本氏が考証 しており、ここでも一つの虚構が崩れた。殉死へのエネルギーを山本氏は性愛 (男色)に象徴される心身の結びつき、主従における従の側からの情感、情誼的 なつながりーーー例えば重いものでは過去に死罪を許された、軽いものでは親し く声をかけてもらったなどーーー、くわえて非合理で衝動に走る「かぶき者」的 心性などをあげている。集団自殺者に見られる自己陶酔もそこにはあっただろう。  十七世紀のみに流行した特異な(集団)自殺行為「殉死」については、太平洋 戦争時の特攻隊兵士の像を重ねる人も多かろう。死が日常であったなか、彼らは 家族や身の回りの人々への愛を骨格とする「愛国心」の高揚によって、みずから 死への道を選んだ。軍神として扱われる名誉を考えた者はいただろうが、残され た者への恩給給付など経済的なことを考えて死んだ人間はたぶんいなかった。 特攻隊兵士のなかに朝鮮人の志願兵がいたことも知られている。江戸時代の殉 死者のなかにも加藤清正に殉じた朝鮮人金宦や鍋島勝茂に殉じた洪浩然、また林 <リン>栄久(帰化朝鮮人)の息子林形左衛門など、文禄慶長の役のおりの被虜 人や、その系譜を引く者がいた。庇護者なきあとに予想される厳しい事態。それ を少しでも和らげるために、彼らは殉死を選択した。そこには民族の屈折した主 張があった。 特攻隊兵士の全員が死を従容として受け入れたわけではない。葛藤があったこ とは当然に過ぎる。殉死者たちも同様ではないか。鴎外『阿部一族』にもみえる 御鷹方の御犬引の津崎五助についてみよう。『綿考輯録』も『阿部茶事談』も、 そして小説も記事内容に変わるところはない。五助は飼い犬に対して「自分はこ れから殉死するが、お前たちは野良犬になってしまう。自分と一緒に死ぬか、そ れとも野良犬になるか。野良犬になるならこの握飯を食え、死ぬなら食うな。」 といったところ、犬は食べなかった。それで犬も殉死のつもりかと感心して刺殺 した。  狩猟用の犬は「御犬」と敬称をつけられた。五助も「御犬引」だった。ふだん 世話をしていたとはいえ、狩用に訓練された犬は、五助の私物ではなかった。鷹 衆が飼っていた鷹が殿様の物であり、鷹匠個人の私物ではなかったように。五助 は犬引という職務として犬を飼っていた。組織で飼育しているのだから野良犬に なるはずはない。五助は平常心を失っていたとしか思えない。しかしそれらはす べて美談に仕立てられている。五助が最後にいった言葉、「御鷹衆は御ざらぬか、 御犬牽は只今参る也」、を高く評価し、カブキものの心を読もうとする山本氏の 見解もあるが、「なぜ御鷹衆は死なないのか、御犬牽きの俺が死ぬのに」ともと れる。五助は忠利の死を聞くや、まもなく殉死の願いを提出している。だが思い とどまるよう説得されていた(『日帳』三月二十七日条)。説得が長く続くなか で、次第に混乱・動揺が起きたのではないか。五助は冷静さを失っていた。錯乱 に近かったかもしれない。『日帳』に従う限りは彼は四月二十六日に死んだこと になる。けれどもこうしたことを考えると、『綿考輯録』にあった「御中陰果の 日」(五月七日)説、つまり彼の死が他のものたちより遅れたという一説もあな がちには捨てられないという気がする。  忠利殉死の一件を記す記録には、潤色・美化と思われる部分がかなり多い。忠 利愛用の鷹は葬儀のあった四月二十八日から数日を経て、井戸に飛び込み死んだ。 このことは『日帳』(五月二日条)に記されている。偶然か人為か分からないが、 これも鳥までが殉死したものとして後世にも大きく取り上げられた。殉死した鳥 の数も次第に増えていった。しかし鳥が自殺するはずはない。 細川家による潤色ばかりではなく、子孫たちによる潤色もあった。細川家の家 譜『綿考輯録』の阿部弥一右衛門に関わる部分については、山本氏により厳しい 史料批判が展開された。しかしその他の者の死の記事に関しても同様の操作が必 要だろう。『綿考輯録』の該当記事は子孫が持つ伝えを指出させたものによって いる。『綿考輯録』には考察部分があり、疑問の箇所については「ーー不審ニも 有之候得共、其家々申伝之まゝ出し置申候」としている。子孫たちによる美化、 粉飾もそこにはある。  殉死者たちの死は徹底的に政治に利用された。あたかも特攻隊兵士の死がそう であったように。妙解寺墓所はその政治性そのものだ。  妙解寺墓所の沿革については、まず忠利の廟が造られた後、慶安二年(一六四 九)、三年と続いて死んだ忠利夫人、光尚の二棟の廟が同じかたち、大きさで同 時に造られたこと、忠利廟の基壇と屋根の出が不整合で忠利廟も二段階に亙って 造られた可能性のあることが分かっている(熊本市『県指定重要文化財 細川家 霊廟及び門保存修理工事報告書』<昭和六三年>)。それでは殉死者たちの墓は いつ今のように整備されたのか。山本氏もいうように三つの廟を、異なるときに 死んだ二代の殉死者たちが全体でとりまいているという配置からすれば、光尚廟 が造られた後ということになる。殉死者墓碑には忠利の殉死者については寛永十 八年三月十七日の、光尚の殉死者については慶安二年十二月念六日と、それぞれ 主君の命日が記されているに過ぎない。忠利殉死者の碑と光尚殉死者の碑は、ま ったく同型で同じ大きさである。同時に作成された可能性を示唆するといえる。 ただし違いもなくはなく、前者が忌日の下段に殉死者の氏名を記すのに対し、後 者は忌日の下に殉死者の法名を、裏面に俗名を記す(熊本市『熊本市中央区南地 区文化財調査報告書』<昭和五〇〜五一年度>)。同形かつ同型であることから は、光尚の死後、つまり慶安二年以降に作られたと考えられる。むろん寛永十八 年(一六四一)の忠利死後に忠利殉死者のものが作られ、光尚死後に従前のもの と同型で、光尚殉死者の碑が建てられた可能性もある。いずれにせよ墓碑が建立 される前には忠利墓の周辺には木の卒塔婆などが建てられていたのではないか。  殉死者の墓碑の大きさは生前の身分には関係なく平等である。西南戦争の陸軍 墓地などは、将校たちの墓は奥に大きく高い墓石で、兵卒たちの墓は前面に小さ く低い墓石で配列されており、死んでも階級差が残るのか、と暗い気持ちになる。 それに比べればこの墓所はまだよいが、それでも配列には身分差が明瞭だ。前面 の忠利廟に一番近い位置に、つまり忠利墓からみて正面左手のま近に、石高の高 かった寺本八左衛門(千石)の碑が、続いて左横に百石クラスの人物が二人、そ して阿部弥一右衛門(千百石)と配置される。忠利墓からみた前面右手には五百 石の大塚喜兵衛、続いて右横に二百石から百石の人物が配置される。そして左側 面には百石から二百石のものが一部前の方に入り、後方には切米取がずらりと並 ぶ。これらのうち阿部弥一右衛門墓碑のみ、石高に比して例外的に低い位置にあ るのは、もちろん阿部騒動の影響であろう。本来ならば、筆頭である寺本か、大 塚の位置に配置されたはずだが、序列七番ほどの降格で、かろうじて前面列の末 席にとどまった。それ以外はおおむね生前の身分秩序に従った配列だった。  なお右側面の光尚の殉死者たちの墓碑の方は、光尚廟に近い方、すなわち墓地 の正面からみて奥側が、石高七百石と高い人物になっている。忠利殉死者が廟 (実際には忠利室の廟)に近い方が軽輩であったのとは逆である。  忠利廟の後ろには「鶴の碑」(广夾土*三文字で一字鶴碑)というものがある。 忠利に殉死したという鷹や鶴や鶏(後二者は鷹が死んだという話のバリエーショ ンであろう)だかの供養碑で、銘文によって忠利二十七回忌の寛文七年(一六六 七)三月十七日に建てられ、それが磨耗したため、百回忌に当たる元文五年(一 七四〇)三月十七日(杪春十有七烏)にその要旨が側面に再刻されたことが分か る。 この墓所にはふだん人が入ることはなかったが、ときおりの藩主に関わる法要 の際には、扉が開かれ、家臣一同が入った。彼らは御廟に目を見張ると同時に、 周囲の殉死した家臣たちの整然たる墓碑に目をやり、またある人は動物の墓にも 目を向け、熊本城主としての細川家初代・忠利がいかに名君で家臣に慕われたか を、その都度認識することになった。殉死に関わるエピソード・説話ばかりでは なく、遺跡であるこの墓所にも、政治に彩られた虚実があった。 真相は一目瞭然だった。とはいえ遺跡も作意の産物だ。我々には沈黙史料とし ての遺跡から、その主張を読みとる力が必要だ。鴎外もまたこの墓所をみている。 小説のなかにも「上(かみ)では弥一右衛門の遺骸を霊屋の側に葬ることを許し たのであるから」、「故殿様のお許を得ずに切腹しても、殉死者の列に加えられ (た)」と述べたり、語らせたりしている。しかし殉死の許可を得たものと得な かったものの対比を強調し、その較差を小説の骨格にしていた鴎外は、殉死者た ちの平等性を過小に評価した。古川哲史の名著『殉死--悲劇の遺蹟』(昭和四十 二年、人物往来社刊)や森田誠一『熊本県の歴史』(山川出版社、昭和四十七年) など多くの研究者がこの遺跡を見学し、論じているが、鴎外自身の意識せざる虚 構の発見までには到らなかった。  妙解寺の墓所は一見史実の忠実な反映を示しているように思えるが、実は十数 年後の藩の政治思想の反映だった。それは忠利が死去したときの状況を示しては いない。殉死者墓も単なる顕彰碑で、彼らは切腹をした寺や檀那寺に葬られた。 鴎外がいうような遺骸が妙解寺にあるわけではない。見方によれば真実だが、少 し観点を変えれば虚像ということになる。虚も実も裏表で、みるものの見方次第 だ。  殉死の許可は旧主からもらうものではなかったが、いつのまにか旧主の許可を 得て殉死したとする考え方が定着した。制度的には新当主から許しを得る決まり であったが、実際には殉死者は先君のために死ぬのである。先君忠利はこれを許 可しない方針で臨んでいたはずだが、近習たちはしきりに許可を得ようと嘆願し た。忠利の臨終の日、意識のない主君に大声で叫び、声の大きさにわずかに反応 した動作を、許可を得たものと解釈し、そう主張した近習もいた。殉死を願った 者の中では一番先に許しを得たと主張したものもいた。殉死者たちのすべてでは ないが、一部は先君から許可を得ていたと認識していた。本当に忠利が許可して いたのかどうかは別だが、まわりもその主張を追認し、新君の不許可に優先する と考えた。制度的にはありえなかったことが、いつしか事実として定着するのは、 それを支持する考え方もあったからだろう。  このようにしてみてくると、虚実はあざなえる縄の如きものではないか、とい う思いにいたる。  弥一右衛門の切腹は、まったく何もないままその日のうちに行われたのか。 『綿考輯録』は細川家の家譜である。そこには鴎外も引用した「瓢箪に油をぬり て切よかし」(滑りやすい瓢箪にさらに油まで塗って切ったらよい)というから かいの言葉まで記録されている。『阿部茶事談』の虚構性は先学ご指摘の通りと しても、全くのでたらめな作り話を家譜編纂者たちは採録していったのだろうか。 彼の死が他のものたちの死と同じように扱われたことに疑いはないが、『茶事談』 の素材になりそうな話は全く何もなかったのか。  弥一右衛門は殉死者たちの中ではもっとも石高も高く、どちらかといえば殉死 をとめる側にまわらねばならなかったはずだ。新君の指令を聞き、さまざまな働 きかけを受けて、一旦は殉死を思いとどまろうとしていた、としても不思議はな い。  同時代に書かれた『日帳』はまちがいなく一次史料であり、最も正確な史料だ から、歴史史料としては百年後に書かれた二次史料に優先する。しかし『日帳』 は藩の公務日誌であった。公的なものであるが故の制約、あるいはその時の情報 源による制約も考えられる。多くの日記にしばしばみられるように、簡単な記事 の時の方が、本当は大変な状況がある。『日帳』四月二十六日条のあまりに簡潔 な本文と、そして続く名簿とのギャップに、少なからぬ違和感を覚えたわたしは、 いまだにそんな思いが消せない。


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