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河原ノ者・非人・秀吉:正誤

 

*推敲が不十分であったことをおわび申し上げます。まことに恐れ入りますが、ご訂正下

さい。また誤りではないが、注記を加筆した方がよい箇所も記します。

ほかに増刷に当たり、ルビを加えたり、重複語句の削除など文章を整合させたところが若

干箇所ありますが、表示は省略させていただきます。

 

 

カバーキャプション・38頁上下キャプション・394

(誤)常磐山文庫→(正)常盤山文庫

 6010

(誤)短的(近距離の的)→(正)遠的(遠距離の的)

3149

現在は公園となっている下河原→熊本藩刑場下河原(現在は公園、慰霊碑がある)

 

400610

(誤)その二日前、四月六日(旧暦)は立夏であった。→(正)その四月八日が立夏であった。

(削除)この日~相当した→(補入)『猪隈関白記』建仁二年具注暦によって四月八日が立夏と確認できる。

(誤)三月十七日から四月五日→(正)三月十九日から四月七日

 

4516行わかっている→わかっている(本書314頁参照)

 

456頁うしろから4

(誤)平成四年(一九九二)→(正)平成十二年(二〇〇四)

550頁うしろ2行(誤)西念寺→(正)正念寺

 

5603行目

(誤)世間染みてくる→(正)世帯染みてくる

592頁後から5行目

 

(誤)といって、会おうとしなかった。→(正)といい、冷淡な態度を示した。

 

604 終行~605頁・1

(誤)一六・一七世紀イエズス会日本報告集→(正)十六・七世紀イエズス会日本報告

 

6189行目 前者→信長女子三ノ丸殿

 

6283行目 

(誤)『日用集』によると茶々の弟、蒼玉寅首座(浅井大膳介政重)つまり鶴松

 伯父も白銀千両なる大金と、生絹数十端を送って祝賀した。

 

(正)『日用集』に蒼玉寅首座が白銀千両なる大金と、生絹数十端を送って祝賀したとある(『日

用集』記事だと蒼玉寅首座は大膳介の一族で、『大日本史料稿本』によれば、大膳介は浅井

一族として確認できる新太郎政重の可能性がある。桑田『豊太閤の私的生活』212頁は、蒼玉

寅は淀殿の弟としている)。

 

651頁最終行(加筆)(訳はジルベルト・ナシメント氏による)

 

656頁8行目 

後継者にした→認知した

 

以下は2刷にて修正

 

367行 (誤)勤めた→(正)務めた

 

221頁うしろから5行目、(誤)皇后宮職付属あった→(正)皇后宮職付属であった

 

234頁5行(誤)前者は興福寺配下、後者は延暦寺配下→(正)前者は延暦寺配下、後者は興福寺配下

 

396頁うしろ1行(誤)〇九)、が→(正)〇九)が

 

437頁3行 (誤)つぎなる章→(正)つぎなる節

 

514頁うしろ3行目(誤)三歳ないし四歳ちがいで叔父が若かった。

 

(正)三歳ないし四歳ちがいの叔父だった。

 

693頁うしろ5行目(誤)子種を受けて→(正)子種を授けて

 

694頁4行信仰史の研究』(>(正)信仰史の研究)()宗教史編五三二頁

 

695頁1行清明→(正)晴明*ただし159頁うしろ7行は4版未訂正

 

 

以下は3刷にて修正

 

491頁6行 (誤)生まれたが、→(正)生まれたか、

 

492頁1行 (誤) )ただしともに変遷がある→(正)ただしともに変遷がある)

 

493頁9行および4942行(誤)裁き→(正)裁

 

5017行 (誤)従兄弟→(正)従兄

 

533頁6行目 寧の母・浅野氏→(正)寧の母・杉原定利夫人

 

5662行目浅野又衛門妻妹(朝日)の養女→(正)浅野又衛門と妻である実母妹(七曲)夫婦の養女

 

637頁7行目 (誤)秀吉書状ある。→(正)秀吉書状である。

 

 

以下は4刷にて修正

 

397頁うしろ3行(誤)絵図を荒野→(正)絵図と荒野

 

 

以下は5刷にて修正

 

116頁3行(誤)『奈良県同和事業史』7頁、→(正)『奈良県同和事業史』7頁、『奈良の部落史』375

 

159頁うしろ7行(誤)清明→(正)晴明

 

193頁5行(誤)河原者→(正)河原ノ者

 

225頁6行(誤)中世の町石道は近代には→(正)中世の町石道は、近世には

 

384頁終行(誤)考慮した。→(正)考慮したい。

 

429頁 うしろ6行 (誤)非人小星→(正)非人小屋

 

435頁3行(誤)被差別→(正)被差別民

 

460頁4行 (誤)旧姓竹田中学→(正)旧制竹田中学

 

521頁6行 (誤)『続群書類聚』 一九→(正)『続群書類従』一九

 

 

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以下は増刷にあたって余白に加筆した箇所です。ご参照下さい。

 

▲2刷にて加筆

 

252頁うしろ3行目

昭和三〇年代の奈良悲田院および陰陽町の写真が入江泰吉『古都の暮らし・人』にある

 

2563行目追加

(*清水坂非人は)こののちも悲田と称され、長五人衆を悲田寺と呼んだ(堀一郎『我が

国民間信仰史の研究』(二―四八〇頁)。

 

240頁余白

【補注】

*山城国西岡宿人の塩売買を示す史料として著名な年欠『八坂神社文書』・「北風

文書」にみえる「当坂鎮守大伽藍仏供灯明、同長棟非人湯粥」の坂鎮守と大伽藍につい

ては地主神社と清水寺と解するのがふつうだし(『京都の部落史』1前近代一一二頁)、

『振濯録』(安政三年・一八五六)が引用する『開田耕筆』(享和元年・一八〇一・刊)にも

「犬神人種、預祇園及清水地主神祭儀」とある。清水寺成就院は五条橋勧進僧を支配し、

五条橋通行料徴収の権利を得ていたし、五条晴明塚にあった法成寺は成就院末寺で、橋銭

徴収に当たった五条中島大黒堂も成就院(清水寺)管轄下にあった(『京都市の地名』、

下坂守『描かれた日本の中世』二六二頁)。清水寺が橋勧進に当たり、みたようにその任

の一部に癩者が当たっていたのなら(八坂法観寺参詣曼荼羅絵図)、清水寺は以後も清水

坂非人に強い影響を持ち続けた。

 

▲3刷にて加筆

 

658頁末尾

【補注】

『備前老人物語』(『改訂史籍集覧』一〇、作者未詳)に

一 秀頼公誕生し給ひしかハ、上中下に至まて千秋万歳目出度と賀し申けるに、ある人さゝ

 やきて、関白殿御滅亡の端、あらハれたりといひけり、このことハ又本多のいひしことの

 ことし

とある。本多は佐渡守正信。リアルタイムでかれの発言があったのだろう。徳川家中でも

秀頼誕生の不自然さが危機を呼ぶと見込んでいた。

 

▲4刷にて加筆

 

426 頁末尾

【補注】

初版刊行後に飛騨市神岡町在住、都竹清隆氏より神岡町史記載『飛騨紀行』の出典は、『飛

騨史壇』5巻4号(大正9年)所載の「松浦孫太・松浦弘の伝 付=飛騨紀行」であるとの

ご教示を得たので付記する。孫太は松浦弘すなわち武四郎の孫である。

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おことわり:(ひだ・飛騨のうち、「だ」の正字(馬へん(偏)に單)はテキスト形式にて表示できないため

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