補注
以下の文章執筆段階で、ふれることのできなかった
中根家文書『姫路城図』には詳細な馬屋の記載があるので、姫路城絵図展図録、復原シリーズ姫路城などを参照されたい(後日このホームページにて紹介します)。

歴史的空間の解釈

『空間のパースペクティブ』(九州大学出版会)

        服部英雄

 あらゆる遺跡は最終までの姿の総合であり、過去から現代に至る全時代の複合遺跡である。遺跡 を構成する部分であるそれぞれの遺構は、一見しての印象とは異なり、それぞれが独自の役割を持 って孤立して機能していた。もちろん同時に存在したものは少ない。ついつい錯視しがちになる事 例を逐一検討し、遺構一つ一つからの語りかけを聞き取っていく。それが溝口論文の主張である。 くわえて従来の学問体系の枠組みにも大きなナタを打ち込み、予断の危険性を説く。緻密な分析に 乗る遠大な構想でもある。氏の構想全体に言及できる力をコメンテーターは持ち合わせていない。 以下では溝口報告の趣旨にも関わり合う「歴史的空間」の解釈に関連して、一つの事例を報告して コメントに代えたい。 縦長型馬屋と横長型馬屋  私は史跡保存の仕事に関わる機会が多い。その場合問題になることのひとつが史跡整備の手法で ある。史跡整備はその史跡の持つ特色を生かしつつ、訪れる人にそれを分かりやすく見せるために 必要なものとされている。未整備の原野のままでは篤志家しか見に来ず、国民全体の遺産にはなり にくいからである。史跡整備では史跡のもつ複合的な歴史空間を一面で切り取ってみせる。歴史空 間の正しい解釈と本質の把握なしには不可能な仕事である。  青森県八戸市の根城では発掘調査の成果に基づき、立体復元による整備を行った。復元は遺構の 解釈を可視的に示すものである。資料が少ない場合には正確な復元はむずかしいし、逆に資料があ る程度あってもむずかしいことがある。情報は全ては揃っていないので、その「ない」部分の推定 が必要になる。  根城は中世にこの地域の支配者であった南部氏の城で、近世初期に廃城になった。国指定史跡で ある。建物復元の最初は馬屋からだった。発掘調査により規格的に柱穴<空間(個室)>が連続す る細長い建物が検出された。平城宮などでも同様の遺構が検出されており(『特別史跡平城宮跡発 掘調査報告書』一二)、馬屋であることは確実で、かつ馬を産出した南部地方の城にはふさわしい。 それが建物復元の積極的理由だった。復元に当たっては現存する中世、ないし近世の馬屋建物、そ して絵画資料が参考にされた。現存の建物というのは重要文化財になっている清水寺馬駐(室町後 期)、彦根城の馬屋(元禄<一六八八〜一七〇四>頃)、東照宮神厩(寛永十三年<一六三六>、 いわゆる三猿の彫刻で有名)、北野天満宮神馬舎など。また絵巻物や屏風絵など、たとえば石山寺 縁起、慕帰絵詞、星光寺縁起(東京国立博物館蔵)、繋馬図屏風(同館蔵)、厩図屏風(山形県上 杉隆憲氏蔵)、洛中洛外図(上杉本)の細川典厩邸などなども参考にされた。これだけ材料があれ ば、発掘調査により平面プランが確定されれば、立体復原はかなり正確にできるだろう。ふつうは そう考える。 私も静岡県沼津市の沼津御用邸で天皇家の馬屋を見学したことがある。これらの馬屋はいずれも馬 が一匹ずつ、幅一間(約六尺)、奥行二間ほどの狭い空間に納まるものである。馬の入れ方は前か ら入れて中で回転させるか、または尻から後退させて入れるという(「馬の博物館」および宮内庁 車馬課への照会による)。ずいぶん狭いように思うが在来種ならば回転は可能であろうとのこと。 馬も首さえ持ち上げれば案外前足と後足の間は短いのだ。以下こうした馬屋を縦長型と仮称する。  ところがこうした縦長型の馬屋とは異なる馬屋も存在する。日本の農家は多く馬を飼っていたが、 そこでの馬屋は、前向きに馬を入れる。この場合は個室は横に広い。幅二〜三間、奥行二間程か。 このような馬屋のほうが実は全体の数からいえば主流で、われわれが見かける馬屋はたいていはこ ちらの方だ。よほどの暴れ馬でない限り、二頭入れても良いという。今でも競馬場近くの厩舎はこ うした構造になっていて、この広い個室がいくつも連続している。また木曾地方のように多くの馬 を飼うところでは、さらに個室が広い。以下こうした馬屋を横長型と仮称する。 二タイプの馬屋の地下遺構  縦長型の馬屋と、横長型の馬屋を柱穴の位置から比較してみよう。異様に長い建物であり、規格 的に等間隔に柱穴が配置されるという点で、いずれにあっても馬屋の遺構は一見しての印象が共通 する。ただし縦長型は仕切が一間ごとに設けられる。壁がある場合と柵だけの場合があろうが、必 ず仕切はある。だから一間ごとに等間隔に柱が並ぶ。各個室の柱も平行になる。横長型は壁になる 後方(壁がない場合もある)では柱がふつう等間隔になる。入口の側も等間隔でも良いのだが、実 際には一間が入口用、二間(ないしは一間)が固定柵用になる。仕切(壁ないし柵)は三間(ない しは二間)ごとに設けられる。馬の出入口になる一間には取り外しの可能な横棒が渡される。横長 型では仕切は二〜三間毎、荷重がかかる柱も二〜三間毎でよいから、柱間はかなり自由になる。開 閉の操作性を重視する場合には手綱を片手に持ったまま操作できるように、一間よりは狭い入り口 にしたか。逆に出入口を一間(六尺)よりも広くする方が出し入れには好都合だったかもしれない。 どちらにしろフリーハンドの部分が多かった。だから二〜三間のうちには壁側の柱とは対応しない ものができる。  すなわち縦長型でも横長型でも柱の配置はほとんど共通するから、地下遺構も非常によく似たも のになって、考古学の調査結果では同じようなものになる。しかし注意深く見れば横長型の場合は、 向かい合った相互の一間毎の柱間の対の部分に対応しないもの、ずれるものが多く検出されること になる。 根城SB三二四の場合  そこでもう一度、根城の発掘報告書を読み直してみた(青森県八戸市教育委員会『根城--本丸の 発掘調査---』<八戸市埋蔵文化財調査報告書五四集・平成五年>)。馬屋は同じ位置に重複して二 棟、つまり二時期のものが各一棟、検出されている。一五期(報告書によれば一六世紀中)に相当 するのがSB三二四、一六期(報告書によれば一六世紀末)に相当するのがSB三四四、前者は縦 三・一八二メートル(一〇尺五寸)、横二九・六九四メートル(九八尺<一九間>)、後者は縦一 ・八一八メートル(六尺)プラス〇・九〇九メートル(三尺)、横二二・八七七メートル(七五尺 五寸、一五間)プラス六・九七メートル(二三尺、四間)というものだ(以下図参照)。前者の図 面をみると、明らかに柱穴がずれている。南面は東から四尺五寸、五尺、六・五尺と不規則になっ ているが、北面(奥面で壁があっただろう)側は東から五尺五寸、五尺五寸、五尺になっている。 これでは柱穴はずれ、対応しない。掘立柱建物ではこの程度のズレは出るという解釈もあるのかも しれない。しかし後方五尺に対し、前面六尺五寸と、最大で一尺五寸(四六センチ)もの差があっ ては、前後の柱を対応させるつもりはなかったとみるほうが自然である。全ての柱穴が壁(仕切) でつながっていたのではなく、何間かおきに仕切があったことは明らかで、実際柱の通りの良いの は東から三間、四間(二間、二間かもしれない)、三間、三間、三間、三間になっている。たぶんこ こに仕切があった。梁もここにあっただろう。根城一五期の馬屋は横長の馬屋ではないか。 根城SB三四四の場合  一六期SB三四四の方は前後の柱に中間の一本が加わって、複雑になる。つまりこちらは柱列は 三列、奥と中間の六尺間隔で向かい合う二列は五尺間隔で等間隔に対応する(一二の例外では五尺 五寸ないし六尺幅)>。その前面(南外)の柱穴は西から六尺、次が四尺、次が五尺五寸、次が四 尺五寸となっている。この建物は一五期のSB三二四の後に建てられたもので、構造の変化は前身 建物の改良と見るべきであろう。柱が増えたことは馬繋ぎ柱の設置を意味するか。あるいは農家の 馬屋にもあるような前室が設置されたのか。そこでこの建物が柱を利用した一間五尺〜六尺四方の 馬屋とみて良いのかどうかを考えてみよう。  まず馬繋ぎ柱は絵画にもしばしば描かれているが、手綱で繋留された馬が脚を挙げて動いている ものが多い。ただし手綱や轡を付けたままの繋留は、馬屋におけるふつうの状態ではない。とくに 轡があっては馬は餌も食べられない。絵画は馬の躍動感を出すために、もっとも動きのある情景を 描くこともある。馬は口の中の轡をはずしてもらって休む。主たる馬繋ぎの機能は綱が担ったのか、 柵が担ったのか。  ここでは馬立て場は横五尺、縦六尺になる。これを他の馬屋と比較してみよう。彦根城馬屋では 横七尺(二・一メートル)、縦七尺、前面に一五尺の長さのスペースが付く。大分県竹田市にある 岡城には中川覚左衛門屋敷の絵図があり、その馬屋は発掘の所見と合わせると横一間六尺半(実測 一・九八メートル)、長さ一間半(約十尺)である。同じく竹田市所在の史跡竹田荘では絵図の馬 屋という記載に合わせて復元された馬屋があるが、六尺半(一・九四メートル)と六尺(一・八メ ートル)の一間四方である。これでもかなり狭く、こんな馬屋はないという人もいる。根城の均等 五尺(一・五一五メートル)間隔はこれらと較べるとさらに狭い。 五尺という間隔、くわえてこの建物がほぼ三間横長の馬屋であったことが確実視されるSB三二 四の後身であったこと、また前面の柱と対応しないことからすれば、これも横長タイプであった可 能性は高い。馬繋ぎ柱は設けられたが、それは隣室との壁にも柵にもならず、開放されて馬は自由 に行き来できたと考えたい。  SB三四四の実際の間取り、構造については別図のようにいろいろな可能性も考えられる。 (ア)および(ア’) 前室を経て馬が前進し、三間分(個室)に入る。出入口は一つ。 (イ)上記の構造だが、出入口が複数。 (ウ)三間ではなく二間で一個室だった。出入口は一つか、または二つを互換使用。 (エ)横幅二間、長さ一間半の全体が馬の格納施設。 いずれにしても馬柵・馬繋ぎ柱併用で横幅二間以上の個室での可能性を考えてみた。 復元の問題点  根城の馬屋復元では当初は縦長一間に馬一頭で復元案が設計された。しかし検討の末、二間に一 つの腰壁に修正された。ただし柵は設けず、絵画にあるように馬の人形(模型)が手綱と腹帯で繋 がれているという。手綱がふつうには馬屋の中では外されていたことは述べたとおり。柵は必要で はないのか。外側には柵のある入口を除き壁があったようにも思う。 竹田荘の復元馬屋では、入口(半間)を除き、まわり四方を壁にした。当初材の柱に貫があった ことが根拠というが、窮屈な馬屋になっている。貫があっても柵の横木が渡されただけで、壁でふ さがれたわけではない。馬は隣室(母屋の土間)、また外側に首を出せた。馬にとっては空間は連 続していて、首を出せば隣の土間のえさも食べられた。そう考えれば良かった。貫があればイコー ル壁、あるいは絵画は平常の実景だという予断が歴史的空間の解釈を誤らせることはないのか。  以上報告者にも読者にも適切なコメントにはならなかったことをお詫びするが、溝口報告を読ん で、歴史的空間の解釈に当たっては、まず予断を排除すること、遺構のもつ情報を十二分に検討し て読みとるべきだと考えた。


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