『講座日本荘園史』の完結によせて                服部英雄
 このほど「四国九州地方の荘園・付総索引」が刊行されて、『講座日本荘園史』全10巻が完
結した。長い歳月を要した大事業であった。こころより完成を喜ぶ。巻末には全体68頁におよ
ぶ総索引があって、うち45頁に及ぶ荘園名索引も付されている。荘園の数およそ四〇〇〇。こ
れほどまでに詳しい荘園史の研究書が、かつてあったのだろうか。
 荘園史はなぜ重要なのか。なぜおもしろいのか。そこに生きた中世の人々のくらし、生き方、
顔がもっとも見やすいのが、荘園の世界だからだと考える。
中世日本は荘園と公領(国衙領)から構成され、荘園(公領)は中世の人々の生活空間で、
その単位であった。川を隔てて、峠を隔てて、荘園が異なれば自分たちが納めた年貢の行先
が異なった。下司も地頭も異なっていた。人々は田畠を耕し、在家・脇在家(ないしその周縁の
家)に住む。それらはみな荘園に属する。中世は荘園・公領を前提にしなければ、なにも理解す
ることはできない。
したがって日本中世史の研究は荘園史研究として発展してきた。戦前から清水正健『荘園志
料』(一九三三)があって、西岡虎之助、石母田正、清水三男、竹内理三ら、荘園を素材にした
著述によって、研究史が蓄積されてきた。本講座の編者である稲垣泰彦、網野善彦、石井進、永
原慶二の各先生のしごともまたしかりである。先学もわれわれも荘園史料を通じて中世史像を探
ってきた。荘園にふれずに日本史・中世史を論じることはできない。
 近年の研究が強調するように、荘園に定着せずに漂泊した人々もいた。彼らの目には荘境はほ
とんどないに等しかったかもしれないが、荘園の側では間人、浮浪人といったかたちで彼らを記
録した。漂泊といっても農繁期には荘園に生活基盤を置いて雇用され、農閑期に他の荘園に移動
する人も多かった。荘園は中世史、民衆史の主要な舞台である。
 今回の講座にはそうした視点も大いに取り込まれている。荘園の枠を超えた世界を強調してき
た網野善彦氏、また網野氏の主張を受けとめ、多面的な荘園民衆像を描いた永原慶二氏らが編集
委員であることの特徴は、各巻の構成に明白に現れている。特論として用意された各項目、山野
河海、年貢輸送、和市、都市京都、禅宗寺院荘園などは、その特色を表わす。索引を見るだけで
も楽しい。柿、栗、桑、白布、絹、炭、唐物などの荘園産物はその一例。魅力的な項目に多くの
頁が引用されている。紀伊国阿弖川庄・仮名書き言上状に柿がみえ、検注帳にも多数の柿の本数
が記される。中世の荘園住民にとって、それぞれの雑公事がいかなる意味を持っていたのか。ひ
とつひとつの項目に吟味が必要で、こうした索引は大いに役立とう。
 また現地重視も特色で、企画の趣意に
「一九六〇年代以降の国土の開発、圃場整備などによって、われわれの身近に意外に多く残って
いた荘園時代の遺構や痕跡が、根こそぎ失われようとしています。そのような現状をふまえて、
各地で調査研究が行われつつあります。そうした成果を現段階で集大成して今後に残す---」
とある。最終巻にも禰寝院の名の分布など、小字ほか地名を記した詳細な図が掲載されている。
現地の情報を多く網羅した本講座は、当初の目的を達したのではないかと考える。
 個別荘園についても、たとえば最終巻冒頭阿波国からは海の荘園、山の荘園像がみえてくる。
四至に離島を記す荘園がある( )。山の荘園の倉敷が河口に設定されて、兵庫関入船納帳にも
登場する(平賀村)。種野山には草手、馬の秣、漆かき、川流しのような、山独特の世界がみえ
るいっぽう、兵庫送り、海上牢籠など海の世界も見えている。不思議な魅力で、こうした世界に
たくましく生きてきた人々の像が髣髴とする。
 地域史研究においても、卒業論文執筆においても、中世史を学ぼうとすれば荘園研究から入る
ことが早道だという実感がある。本講座はその手助けとなる。必読文献であろう。
 わたしは福岡沖地震で研究室の書架が倒壊する被害を受けた。大量に散乱した本を整理してい
て、たまたま本講座の企画書をみつけた。当初に構想された目次項目は、ほとんど落ちていない。
皆無だったとはいわないし、予定の巻から異動したものもあるけれど、ほとんどが網羅されたこ
とに今さらながらおどろいた。
 この企画書には編集協力者として山田渉氏とわたしの名前が挙がっている。編集会議に氏とも
に呼ばれたことを回想した。筆者には個別荘園記述の見本原稿を作る仕事が課せられた。国別原
稿の見本(相模国)は石井先生が書かれた。筆者の原稿(備後国地毘荘)とともに、それらが企
画書として執筆者に配布された。わたしは東京大学文学部で、石井先生の指導のもと、文学部所
蔵・長福寺文書の整理に参加したことがあり、長福寺文書に地毘荘の記述が含まれていたことが
記憶にあった。そこで、石井先生に長福寺文書の閲覧を申し出たが、許されなかった。細部を調
べ回るより、一刻も早く見本原稿を提出せよという暗黙の指示であった。見本原稿提出後、わた
しは『広島県史資料編』を素材に「質入れ担保となった備後国地毘荘」なる小文を『日本歴史』
に投稿し、いっぽう石井先生は『長福寺文書の研究』(山川出版社)を刊行され、文学部所蔵文
書以外にも散在していた長福寺文書を博捜、悉皆網羅された。そこには知らなかった地毘荘文書
も含まれており、うち一点は後欠であった文学部所蔵文書の後半に該当するものであった。荘園
史講座の刊行時にはそうした新収集史料も活用することができた。本講座執筆の過程では個々の
研究者多数による研究の進展があった。本講座の刊行によって、荘園研究のレベルが格段に向上
したと考える。最終10巻でわたしは肥前国長嶋荘を執筆したが、二〇〇二年に東大史料編纂所
から『日本荘園絵図聚影』が刊行されており、そこで新紹介された長嶋荘高瀬(こうぜ)絵図を
活用することもできた。最新の研究成果を紹介できたのではないかと思う。
だがやはり、である。編集委員四名の先生方全員が完結を見ることがなかったことは痛まし
い。吉川弘文館から送られてきた書類には網野真知子、石井靖子、永原和子というおくさま方の
名前ばかりがあった。永原慶二先生は最後まで苦労された。4巻荘園の構造では執筆しない人に
変わって自身で執筆された。網野さんが亡くなられたあとに、10巻の最終編集にひとり関わら
れた。「四人のうち自分だけが生きている。なんとしてもやり遂げたい。服部君はXさんを知っ
ているか。書いてくれない。あの人は網野君の推薦だから変えられないし」といわれた。ごくご
く一部ながら、あるべき記述がないところがある。一〇年以上前に承諾し、放置し、最後まで書
かなかった人がいた。どんな理由があったのか知らないが、理解に苦しむ。せっかく執筆された
方が、刊行遅延のために原稿を撤回されたという話も聞いている。編集担当・上野純一氏らも、
さぞや苦労されたことだろう。難産であった。わたしの編集協力の仕事はいつの間にか立ち消え
になって、最終的にはお手伝いができなかった。完結は最大の喜びであって、今後の学界への寄
与を大いに期待できるが、このことだけはふれざるを得ない。一時は百点満点に届かないのかと
いう気もした。だが完結した全巻をみれば、百点以上を達成したと思う。四人の先生方に、その
ように報告したいと考えている。

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