(無断転載不許可)同じ日に同じ土地を別の人間が寄進すること -------肥前光浄寺文書にみる南北朝の動乱--------
『古文書研究』50 、16〜32頁
服部英雄
<起> 佐賀県三養基郡(旧三根郡)三根町西島に光浄寺という禅刹がある。この寺に伝えられ た貴重な中世文書の中に一風変わった文書群がある。正平十七年(一三六二)三月八日の 日付でしたためられたよく似た内容の二通の寄進状、および貞和六年(一三五〇)十月 日ないし同年の十二月八日付けで出されたよく似た内容の坪付また寄進状の三通、計五通 である。発給者が異なっている。本来なら一通で終わるはずの寄進行為が、複数の文書の 発給によって完結しているように見える。本稿ではこれらについて古文書学的な検討を加 え、こうした複雑な寄進が行われた背景を考察してみたい。 まず正平のものから見よう(以下これをD、Eとする)。 D 寄附 光浄寺住持職事 右於住持職者、 空山和尚師資相承不可有相違、且為禅法興行、且為恩徳報謝也、次免田 事、以貞和六年十二月八日令%(燦*王編)于時成基奉寄進弥吉名於 本尊畢、爰於當御 代、聊雖被収公之、以去正平十六年五月九日、所令半分還補也、且以其堺可有知行、至残 半分者、一円安堵之時、任先日寄進状、可有領掌、仍寄附之状如件、 正平十七年壬寅三月八日 沙弥令%(花押) E 寄附 光浄寺住持職事 右於住持職者、 空山和尚師資相承不可有相違、且為禅法興行、且為恩徳報謝也、次免田 事、以貞和六年十二月八日宗全奉寄進弥吉名於 本尊畢、任彼状、可有領掌、仍寄附状如 件、 正平十七年壬寅三月八日 沙弥宗全(花押) (『佐賀県史料集成』五-八八、八九。以下番号はこの史料集 による) 一見すると同じような文書に見える。ともに光浄寺住持職を寄進したものである。具体 的には住持職にともなう土地であろう。年月日は全く同じである。同じ日に作成された同 じ内容の文書。しかし寄進した人物は令%と宗全と異なっている。宗全が父、令%(成基) が子であろう。 本文からこれ以前の貞和六年(一三五〇)十二月八日に、正平寄進のもとになる寄進が なされていることも分かる。その貞和の文書も現存し、たしかに二通あって、それぞれの 寄進状の作成者は成基そして宗全と異なっている。 C貞和六年十二月八日 藤原<西嶋・板部>成基(沙弥令%)寄進状(八八) B貞和六年(一三五〇)十二月八日 沙弥宗全坪付*渋川教直袖判(追筆によれば袖判は 寛正年中<一四六〇〜六六>のもの)(五四) ほかにこの寄進に深く関連し、内容的にもBによく似る文書がある。 A貞和六年(一三五〇)十月 日 板部太郎成基申状*貞和六年十一月十七日付足利直冬 裏書(七九)。 ただしBとAでは発給の日にちが二カ月弱異なるほか、外題・裏書の安堵者が異なって いる。Aの安堵者足利直冬の裏書は軸装時に裏打されており、現在はふつうにはみること はできない。『佐賀文書纂』作成の段階、つまり明治一九〜二〇(一八八六〜七)年には 読まれており、裏書部分の謄写本が作成されている。しかし東京大学史料編纂所による影 写本作成時には読まれていない。実は今日ではその裏打部分の糊がはがれている。どうや ら何人もの人がそこをめくったようで、いまの表装のままなら堂々たる直冬の花押を簡単 に覗くことができる。一方Bの安堵は百年以上のちの九州探題渋川教直のものである。両 通は機能を発揮した時代、文書が役割を果たした時代が違うともいえる。 先の正平十七年文書はCの寄進を受けてDが出され、Bの寄進を受けてEが出されると いう関係にあった。それぞれにそう明記してある(引用史料傍線部1、3)。すると文書 の体系としては宗全のもの、令%のもの、それぞれが独立して完結しているようにみえる。 そこで大きくいって二通りの考え方になる。宗全・令%は親子と推定されるから、宗全 が後見人となり同じ内容の文書を二重に作ったとみる考え方。同日の二通は補完関係にあ り、両者が相俟って寄進が成立する関係にあったことになる。もう一つの考え方は、逆に 各二通が自立ないし対立関係にあったと想定することである。いずれかが正式のもので、 いずれかがその反対派のものとか。あるいはのちの時代に日を遡って作成したとか。まず はいろいろなケースが考えられそうだ。 本稿では文書のもつ情報をできるだけ多く読みとり、かつ周辺の状況も検討しつつ、こ の問題を追求してみたいと思う。 さて本文を読み直してみると、一見する限りは同じようにみえる正平の両通にも、いく つかの違いのあることに気づく。令%のものには、この土地が一旦没収されていること、 この寄進の段階では半分しか返っていないことが詳しく記述されている(引用史料傍線部 2)。しかし宗全のものにはそんなことは書かれていない。単純にいえば寄進された土地 は宗全の方が二倍という事になる。しかしそんなことがあるのだろうか。宗全の寄進した 土地は半分は他人の土地だった。 AとBについてもよく似る内容にみえるにも関わらず、違いがかなりある。 筆数(書き上げられた土地)については、Bの方が少なくなっている。Aは全七十四筆。 Bは全六十一筆。書き上げられた土地は田積、字名が共通するけれども、西島郷内弥吉名 のうち八筆と、三瀦庄の木佐木村、牟田口村がBでは落ちている。矢俣保内弥吉名に関わ る一九筆は共通する。ただしA・Bでは西島郷の各筆の順序が違ったり、参段弐杖、漆 (*)段前田とあるものが、Bでは参段弐杖田嶋東、漆(*)段田中前田など一部に表現 を異にする。また割書注にも小異がある。 つぎに書式も異なる。Aは言上状であるが、Bは坪付注文である。だからAは言上如件 で終わり、Bは坪付如件で終わる。Aは五段書きになって、料紙一枚にきっちりつまって いるが、Bは一段書きで料紙は四枚にわたってゆったりと書かれている。だから見た印象 はかなり異なる。 内容をみるとAにはこれらの土地が光浄寺領であるとは書いてない。成基の地頭職を書 き上げたもので、まだ光浄寺との関係は生じていなかったことになる。一方Bには光浄寺 領(「光浄寺免田」)と明記してある。また日付は述べたように二カ月ほどずれる。 <承> つぎには各文書の筆跡を検討しておきたい。 筆跡の異同 筆跡の主な特徴 A貞和六年(一三五〇)十月 日 板部太郎成基言上状 筆跡ア(もしくはイ) 他と共通する点 「成」、「基」、右下がりの字をたっぷりと伸ばす書き癖(A・C)。 「職」の斜め右下に下がる線を曲げずに直線にする(A・C)。 「者」の右上から左下への斜めの線がたっぷりと長い(A・C・D)。 他と異なる点 「段」「敷」「隈」、最後をかなり下げて終わる 「敷」の字の旁 が「攵」になる。 B貞和六年(一三五〇)十二月八日 光浄寺免田坪付(沙弥宗全) 筆跡アないし,ア 他と共通する点 「光浄寺」で「浄」のみが右側による(B、C、D)。 「弥」の旁の上の「ノ一」それがやや右下がりになる(B、C)。 なお全てがこうなるわけではなく、右上がりになる字(「俟」)も ある。 「吉」「名」の「口」の二画が途中から右に上がる(全てではないB ・Cには似る点もあるという程度。) 他と異なる点 「郎」「町」、偏と旁をそろえる傾向 「段」「敷」「隈」、水平に近い感じで跳ねる。 「敷」の字の旁 が「文」になる。 C貞和六年十二月八日成基寄進状 筆跡ア 他と共通する点 「光浄寺」 光の「ノ」が極端に小さい(C・D)。 「年」の頭の跳ね方(C・D) 「寺」「者」の横の線の力の入り方(C・D) 「俟」 旁の上の「ノ一」それがやや右下がりになる(B、C)。 なお全てがこうなるわけではなく、右上がりになる字 (「弥」)もある。 字配りが下に行くにつれ、極端に右による(C・D) D正平十七年(一三六二)三月八日 沙弥令%寄進状 筆跡ア 他と共通する点 右記B,Cの「光浄寺」「者」の特色と右によっていく配字傾向 「空山和尚師資相承」(D=Eか)。 他と異なる点 「沙」の「少」の「ヽ」が外に出る。筆順も「ヽ」が最後に書かれる。 E正平十七年(一三六二)三月八日 沙弥宗全寄進状 筆跡ア 他と共通する点 「沙弥宗全」はBに似る。右記Dの「空山和尚師資相承」、同筆か。 他と異なる点 「沙」の「少」はふつうの書順 (Bもこの書順) 右が筆跡の特徴を同一文字、同一部首、また配字について比較した結果である。共通す るものもあれば、相違する筆跡もある。どう判断したらよいのか。それぞれ同筆ともいえ そうだし、別筆といえそうな気もする。 このうちまず成基に関わる寄進状類A、C、Dが同筆であることは、状況からいっても 妥当な判断であるように思われる。財産処分に関わる重要文書、寄進状は自筆である可能 性もあり、そうならば板部成基の自筆になろう。ただし成基が文盲あるいは仮名しか書け ない人物ならば、右筆の筆跡になる。 一方別人格の発給になるもの、A・CとBや、DとEについても同筆のように思われる 点がある。しかし親子とはいえ、成基と宗全という別人によるものである。寄進状はふつ うには自筆で書かれることを期待されていた。そのことからすると、このことは甚だ異例 である。AとB、BとCについては相互に酷似した字がある反面、異なる印象を与える字 もあり、判断には苦しむところもあった。まずBとCを比較したが、「光浄寺」の浄の字 のみが右側によるかなり個性的な筆跡、あるいは「同国中津隈庄内」「筑後国三瀦庄葦塚 村」の字は同筆の印象を強く与える。「嶋郷」の字も酷似し、特に嶋の偏「山」を高く、 鳥のれんがの部分を横一線に力強く引く書き癖がある。 つぎにAとBは太郎、常三郎の「郎」で旁(つくり)を「卩」のように書くところが似 る。かつ「卩」の最初の筆が上部で小さく終わる。しかしAは旁をさげるが、Bはそろえ る傾向がある。Bが偏と旁をそろえる傾向は「町」の字の一部にもみられる。また両者間 の「段」の字の書癖は似ない。つまり最後(終筆)をAでは下にさげて跳ねるが、Bは水 平に近い感じで跳ねる。「敷」「隈」でも終筆はこの傾向がある。「町」の字もAは離し て書くが、Bはくっつけて書く傾向があり、「敷」の字の旁もBは「文」、Aは「攵」と なっている。しかし全体としてみれば、BとCで確認した「西嶋郷」の特色ある字が共通 する。また「同国中津隈庄内」「筑後国三瀦庄」「葦塚村」「貞和六年十」「月」などの 筆跡が似る。ただし一々の字の筆圧のかけ方は異なるという印象を受ける。共通性に着目 するか、違和感に着目するか。 さきにB=Cと判断した。また成基の作成になる二通は同筆の可能性が高いとみてA= Cとした。この前提が正しければA=B=Cという結論になるし、A、Bが別筆ならばこ の前提が誤っていて、AはC、Dとは別筆だったことになる。確たる結論には至れないが、 同筆の可能性もあるとしておきたい。 つぎに行書であるがEもB、Dに似た字を含むという印象を持った。B・E間では「沙 弥宗全」が似る。DとEについては楷書・行書の差があり、一見しての印象は異なる。そ して行書Eの方が達筆という印象を受ける。しかしこれは筆者が楷書よりも流れにのる行 書の方を得意としたためであろう。崩し方の少ない「空山和尚師資相承」の字体は酷似す る。「空」のウ冠の跳ねが弱いところや、「資」の上の「欠」をきわめて細く書く類似点 から、同筆と見たい。「空山和尚」まで次第に右によって行き、以下はまっすぐに回復す る書き癖も似る。なおウ冠は「寄付」や「宗全」の場合では跳ねる場合もあるが、跳ねな い方が多い。特に「空」の字の場合にはよく特徴が出た。ほか「寄付」も似る。これらの 文書の書き手「たち」(板部西嶋氏の右筆ないしは成基本人か)は、本当によく似た字を 書いていた。 これらが相互に密接に関連して作成されたことは確かであろう。おそらく同日のものは 同時に同じ場所で作成された。Bの安堵の加判こそはたしかに百年後、後世のものであっ たが、文書自体がのちに作成されたというようなことは考えにくい。Bには割書がある。 筆の感じが異なるところもあるが、「町」「名」など本文に共通する文字があり、同筆で あろう。但し書かれた時間差(追筆の可能性)はあるかもしれない。それらの中には「賣 主西嶋之成重也」のような、百年後では知り得にくい情報が記されてもいた(後述**頁)。 一方同日付で過半が同文のDとEも、同じ場所で同一人が作成していた可能性が高い。 その時にあえて楷書と行書とを使い分けて、筆跡を変えていた。別人の寄進であり、別物 であることが強く意識されていた。宗全寄付状ではあるが、宗全の自筆ではなかった。も しかすれば成基の筆かも知れない。 (出版社との関係で写真および転、結の部分の掲載は当面見合わせます)