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本岡(元岡)城郭・水崎城・柑子岳城年表

1 本岡(元岡)城郭 ● 観応元年(1350)9月11日、足利尊氏が筑前国本岡城郭を松浦佐志氏の源蔵人披に宛行う(有浦文書) ● 貞和6年(1350、観応元年と同じ年))11月、今津勝福寺は父の足利尊氏と敵対する足利直冬に対し安堵を申請、別紙に直冬が花押を書き、安堵する(勝福寺文書)。 ● 文和2年(1350)尊氏方の、一色直氏が「元岡兵衛兵衛次郎跡を飯盛山に寄進」(青柳文書*上記はいずれも『南北朝遺文』所収) 2 水崎城(元岡水崎城) ● 1431-1439の頃、水崎城で合戦(その1)水崎城衆、水崎城において粉骨・大友親綱の感状、大友親綱が当主であったのは1431-1439由比重富文書 ●永正4年・1507 水崎城で合戦(その2) ・(大友側)是松新兵衛が軍功(てがら)、しかし西徳王丸父親が戦死 (永正4年2月11日大友親治感状・同年2月23日大聖院宗心感状・児玉おん氏所蔵文書、田原親述副状案、同書状案、『筑前国怡土荘史料』188〜194) ●享禄4年1531 水崎城衆が高祖表で合戦、水崎側に討ち死1名(その3) ・享禄4年10月14日に水崎城衆(大友側)と王丸兵庫允(大内側)が合戦(王丸文書・大内氏奉行人奉書、『筑前国怡土荘史料』204,205,207) 3 柑子岳城 ● 天文二年1533 柑子岳落城: 村田文書「敵城柑子岳城、ただいま落城・酉の刻(夕方6時)」 大内方であった九州探題方の森美作守繁宣が基肆・養父の武士に参戦を命ずる。 柑子岳は大内方が占拠。 ● 天文三年より同四年,1534〜35)児玉?採集文書・梅月氏文書 当御城(柑子岳城)普請(*土木工事)をにいたり、毎月三回宛勤める、うち二一回不勤・仁保宮内少輔の目録に注進 ● 永禄12(1569)年、元岡氏は大友方、博多攻撃に参加(浜地文書・大友宗麟書状) ● 元亀三年1572頃 大友方 好士岳勤番(浜地文書・大友宗麟書状) 天正六年十一月・耳川合戦で大友氏は島津氏に敗れる。 ● 天正八年1580 去々年より好士岳籠城、去る冬からは立花城に在城(三苫文書・大友義統書状) 柑子岳に多いナルコユリ(鳴子百合)

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