新聞掲載とは少し異なっています多気(たげ)北畠氏遺跡の発掘調査 服部英雄 多気は三重県津市の西端、旧美杉村にある。北畠氏は中世後期に伊勢国司として、 伊勢の広域を支配した。公卿(くぎょう)として二位・三位に就く高位の家柄だっ た。同時に歴代の教具、政郷、材親、晴具はいずれも足利将軍(義教・義政・義材・ 義晴)が烏帽子親で、名前にその一字をもらった(偏諱へんきという)。多気北畠 氏は具教・具房親子が織田信長に敗れるまでつづいた。多気は伊勢国だが、伊賀国・ 大和国との国境に近い。伊勢本街道が通過し、畿内は至近だった。 多気には戦時の霧山城と、そして山麓に常時に生活する居館があり、周辺に家臣 や職人がいた。繁栄した様子を記した多気城下絵図(近世)も残されている。多気 には紅葉で知られる北畠氏館庭園があって、成熟した京風文化を示す。 一帯の発掘調査が15年間に及んで行われている。調査は目的・地域・時期によ って大きく3つに分けられる。第1は館(やかた)部分の調査(平成8年から17 年度まで)。第2は六田館(有力一族・藤方朝成居館)跡周辺の調査(平成18年 から現在)。第3はケショウイン(景賞院、絵図華生院)の発掘で、これは始まっ たばかりである。 第1期の調査区・館跡は庭園の北側に当たる。調査の結果、館が大きく2時期か らなることがわかった。明応八年(1499)十一月に大火があって、伊勢国司の 館が悉く焼け、翌年四月には再建されたと、『大乗院寺社雑事記』(奈良興福寺大乗 院別当の日記)に書かれている。2時期は火事とその後の再整備(大造成)に対応 する。鎧の小札(こざね、鉄片)などの武具や錠前が出土した建物跡は武器を管理 する倉庫にちがいない。中国からの貿易陶磁器が多く、鳳凰(または朱雀)の文様 のある青磁、水鳥形香合など青磁の優品は北畠氏の経済力を示す。 館から八手俣川の対岸に東西道路がまっすぐに伸びる。第2期の調査目的の一つ は、城下絵図にも描かれるこの道路が戦国期以来のものか、否かの検証である。や はり道に沿って塀の土台石列が検出され、道路(地割り)の踏襲が証明された。工 芸金工(彫金)にかかわる文様型(土製)が9点の出土も注目された。刀装具(目 貫か)からスタンプで文様を写し取ったものである。ここに刀の装具職人がいた。 みごとなできばえだが、コピーだから安あがり。武士の要求に応えた。 城下絵図はみな後世、江戸時代のものだが、どの程度戦国期の様相を伝えるのか。 東西道路の確認は絵図の史料的価値を高めた。神宮文庫のA「多気道者帳」(永禄 十一年・一五六八、天正三年・一五七五)、B北畠国永「年代和歌抄」(天文十九年・ 一五五〇〜天正十二・一五八四)(ともに『三重県史資料叢書』平成二〇年刊)と 比較したい。金国寺(北畠材親菩提寺)、長泉寺(晴具菩提寺)、松月院(具教妻菩 提寺)・慈恩院・伝道院(伝洞院)・福寿院・景賞院・大蓮寺、そして朴木隼人祐ら がA、B(リアルタイムの一次史料)と絵図(後世の二次史料)に共通する。Aの 中子新三郎、家城蔵人、結城源五左衛門は、絵図での中子小二郎、家城主水、結城 源左衛門によく似る。親子か。日置、杉山、天華寺(天花寺)、佐波(沢)、山崎、 藤方、佐々木、松永(松長)、海野、磯田、河井(川井)、稲生、鳥屋尾、星合らも 共通し実在である。しかしBに「多気の惣持寺」とある寺は絵図にみえない。寺跡 は地名に残るものが多い。おそらく家中の侍や多気の寺の詳細な書上が伝えられて いて、近世後期になって、だれかが伝承や地名を考証し、城下絵図を作成した。 城下多気は絵図、文献がある。掘れば必ず成果が出る。戦国時代の人びとの生活 が少しずつ判明する。これからの調査成果も楽しみだ。 *多気城下絵図複製は、美杉ふるさと資料館にて購入できる(500円)。