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決断の日本史(130) 1593年8月3日 豊臣秀頼の誕生

産経新聞2012.7.3 07:39 秀吉の「実子」でなかった?  九州大学の服部英雄教授(日本中世史)の近著『河原ノ者・非人・秀吉』(山川出版社) が話題を集めている。中世の差別の問題から説き起こし、文禄2(1593)年8月3日 に誕生した豊臣秀吉の嫡子、秀頼が彼の実子でないとの論証に挑んでいるからだ。  もっとも、長男で夭折(ようせつ)した鶴松と秀頼は秀吉の実子にあらずとする説は従 来もあった。中でも、側室の淀殿と大野治長(はるなが)の密通説は有名だ。姉弟同然に 育った2人の恋愛はロマンチックだが、規律の厳しい奥御殿で密通は考えにくく、小説の 世界の話だろう。   秀吉は生涯、300人を超える女性と交渉があったといわれる。しかし子供は淀殿以外、 正室の寧(ね)(北政所)はじめ誰からも生まれていない。長浜城主時 代に男児があった という伝承も知られるが、「夫妻は生涯全く触れず、懐旧もしていない」(服部教授)から 史実ではあるまい。  ではなぜ、淀殿は懐妊したか。服部教授は次のように言う。  「かつての主、織田信長の姪(めい)にあたる淀殿との子供ができれば、織田政権の正 統な後継者と認められる。秀吉はそう考えて“非配偶者間受精”を決断したと思います」  根拠の一つとして、服部教授は秀頼を受胎したと想定される文禄元(1592)年11 月ごろ、2人が離ればなれに暮らしていた点を挙げる。秀吉は「文禄の役」のため九州・ 名護屋に、淀殿は大坂城にいたのである。  「生物学的な父親は祈祷(きとう)僧などの宗教者」とも服部教授は推測する。警戒さ れず淀殿に近づける存在は、こうした人間だけだからだ。そして当然のように、抹殺され てしまった。  400年間、封印されてきた謎に学問的な解答を出した、と服部教授は言う。投じられ た一石に、歴史学界はどう答えるのだろうか。(渡部裕明)

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