服部英雄のホームページ
26年度
埋文センターニュース201407 「蒙古襲来像」を書き換える 服部英雄 ――――――――――・ 蒙古襲来は日本が経験した数少ない国内での外国戦争である。戦前には神風が吹いた、 日本は神の国であると宣伝されていた。戦後にもそうしたイメージがあまり変わらなかっ た。台風によって日本が救われた、蒙古軍は長崎県鷹島にて全滅したという結論が変わら なかったからだ。しかし調べてみるとこのストーリーはどうにもおかしい。図示したもの は竹崎季長の『蒙古襲来絵詞』の1シーンであるが、台風が通過した4日後、弘安4年閏 7月5日に生の松原を出発し、酉の時(夕方6時)の合戦を目指したと明記されている。 これまでの研究は、蒙古軍がすべて鷹島にいるとしてきたから、行く先は鷹島であった。 しかし陸路では90キロである(下山門駅と鷹島口駅の距離)。海路であれば糸島半島、呼 子半島を迂回していくから150キロ近くはなるだろう。画かれているような櫓押しの船は 時速4キロほどである。寝ずに漕いでも40時間近く、2日以上はかかった。人はそんなに も漕ぎ続けることはできない。酉の時までに漕ぎ着くのであれば、目的地は鷹島ではなく、 博多湾・志賀島である。調べてみるとこの季節の旧暦5日つまり月齢4日の博多湾は、ち ょうど夕方6時(酉の刻)に干潮になる。つまり満潮時に漕ぎだして、引潮に乗って、志 賀島沖に停泊する蒙古船を襲撃した。 敵が目の前にいたからこそ、生の松原に布陣していた。蒙古の攻撃目標は大宰府なのだ から、至近の攻撃基地である志賀島を台風後にも占領し続けた。すなわち東路軍(高麗主 体軍)は博多湾、志賀島・能古島にいて、江南軍(旧南宋軍)は鷹島に停泊して、博多湾 を目指していた。 ぎゃくに高麗と対馬の距離はわずか50キロで、通信使の記録を見ても必ず一日で渡海し ている。対馬沿岸に碇を下ろさないと、潮に流されて漂流だった。これまでの研究は蒙古 軍到着地「日本世界村」を対馬だとして、対馬に渡るまでに20日も要したとしていた。不 自然にすぎる。むろん世界siga村は志賀島が正しい。研究史をすべて書き換えるべく、鋭 意作業中。 『蒙古襲来』(山川出版社)は10月中旬に刊行予定です。