服部英雄のホームページ
24年度
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8月27日
豊後高田市・藤重さんの案内を得て、田染庄小崎に河野繁利さん(昭和3年生まれ)を訪ねる。 轆轤岩屋(現段階では推定地)および茅場堂岩屋の現地調査が目的で、あわせ山の地名と生活の 聞き取りをした。 田染の地名調査は昭和61年に宇佐風土記の丘歴史民俗資料館によって行われている。今回空木 (ううつぎ)地区で追加収集できた地名は以下の通り。 ほとけのくぼ(カヤバの下にある谷の名前) おんた、うえんた(空木の田はおんた=かさのへら、つまり西側の本谷とウエンタ、つまり北側の支谷、からなる) くーつぎ(東側の谷、田はなかった) 境の石(ほとけのくぼの上、稜線) はなんたけ(地図の華岳、佐野、山香、田染三方境) ロクロ岩屋と推定されている場所は奥愛宕社の西になる。路傍に車を置いて道を上る。入口に 道標がある。みちは過日の豪雨で荒れた感じだが、ペンキで印がされている。1人でも迷うことは ないだろう。10分ほどで屹立した大岩壁に出る。その左手に大きな岩屋があった。般若心経読誦。 戻って田のぎしにある丸い形状の石を見た。カヤバ堂から流れてきた仏石ではないかという説明。 ここの水田の石垣は戦後に当時10代だった繁利さん(当時田原農協勤務)たちが、森林組合の補 助を得て築いたものだという。当時馬引きが日当500円、農協は月給300円で馬引きに誘われたと いう。 その場所からわずかだけ車に乗る。降りてカヤバ堂までりっぱな歩道を行く。この道はむかし の幹線道路で空木池を経て奥畑に出ることができ、親戚も多かったという。よい道だと思ったが、 繁利さんが今朝草払いしてくださったとのこと。感謝。この道を外れて脇道に入る。谷を右に渡 る。 この谷をほとけの窪という。橋の位置の下流に、岩盤に溝を穿った取水路(頭首工)があった。 この谷から空木の田=かさのひらに用水を引いていた。国土変遷アーカイブの空中写真でも1970 年の耕地の状況がよくわかる。いまは荒廃しているから水路の途中に石を置いて止めている。元禄 の小崎村絵図ではこのあたりは開田されていなかった。近世後期か近代の開田となる。天保7年・ 1836完成の空木池はほとけの窪からの水系とは関係がない。最初にほとけの窪からの水で小規 模な開田が行われ、下部に用水を供給する空木池ができて、一部補完された。しかしいままた開田 以前の状態、山林に戻ったということになる。 カヤバ堂は橋の上。巨大な岩屋の中に壊れた堂とその横に小さな祠があって、カギを明けてもら うと、地蔵・薬師・弘法大師があった。地蔵はロクロ岩屋から運んだものという解説だった。カヤ バでは春秋お彼岸の接待が行われた。田染のこどもたちは田染内の接待所を順番に回ってお菓子を もらって歩いたけれど、村中でカヤバ堂が一番遠かった。昭和61年の地名地図にあるカヤバは位置 が谷一つ分、ちがっているのではなかろうか(水田の頭にほとけの窪の取水口があったし、道との 関係からもそういえるのでは)。 この昭和61年の地名地図にあるカヤバの位置とされている岩場記号がロクロ岩屋の位置であろう。 なおロクロ岩屋の比定には異説もあると聞いた。 付記:小藤にて河野忠臣さんから聞き取った地名を記し、地図に示しておく。 かさごうら(烏帽子岳の西に出る) しもごうら(越えると弓切にでる) たいぞう(小藤の奥の谷、小字の大堂・たいどうと同じか)
地図:田染小崎、空木と小藤の山の地名(活字が昭和61年宇佐風土記の丘歴史民俗資料館による調査成果、手書き分が今回追加分)
写真:ロクロ岩屋
写真:空木用水の取水路(頭首工)
8月22日
佐藤菜穂美さんを講師としてFrois勉強会。参加者:貴田、青木、服部。 5部capitulo1を翻訳していただく。 ご教示いただいたこと。 ○ア:国立リスボン図書館本(Wicki本)とイ:松田川崎本とのちがい、つまり校訂版 Edição crítica か原文版 Edição diplomática かについて ◎翻刻に当たり西欧では、Edição crítica(校訂版)、つまり可能な限り科学的な方法を用いて、 文献学的・歴史的知見にもとづいて、伝承時の改変・誤写を取り除き、原典(この場合フロイスの)に できる限り近いものを再現する翻刻法、校訂が主流である。ただし写本にあって削除された言葉・加え られた訂正はすべて脚注に入れておく必要がある。 写本の誤りや写本作成者の書き込み等も含めてそのまま出版する場合を、Edição diplomática (またはEdição paleográficaと呼ぶ(現在は余り用いられない)。 ◎中表紙の次ページ、第5巻総目次の上に記されたインデクスによれば、第5巻が扱っている1587年 以降の記事については、二つしか写本が存在しない。 Aは Códice 49-V-57(王立アジュダ図書館蔵写本) Bは Códice 177361(リスボン国立図書館蔵写本)つまり以前フランスにありSardaBと 言われていた写本である。 1 アの9頁192行目部分、イでは「グレゴリオ・デ・セスペデス師の一書簡の写し」とある。 刊本アにはこの部分がない。ただし、192脚註に Treslado dehuma carta do P.e Gregorio de Cespedes BA とある。 上記のように Aは Códice 49-V-57(王立アジュダ図書館蔵写本) Bは Códice 177361(リスボン国立図書館蔵写本) である。 「グレゴリオ・セスペデス師の一書簡の写し」はBAとされているので、どちらの写本にもこの文面があった。
Wicki氏の注(32)に、「この一文はフロイスの原文にあったものとは思われない」とある。 ア本はWicki氏の判断による削除である(ただし十分な説明はない)。 2 冒頭3頁5行、(15)87年の記述について、イ:松田川崎本は180頁注2にて 「テキストには”de 78”(f.1)とあるが、もとより”de 87”の誤写である」。 とするが、アではde 87となっている。脚註がないけれど、 Wicki氏の判断による翻刻校訂であろう。 3 ア 5頁64行、Dom Geronimo,filho herdeiro de Dom Antonio que Deos tem, cabeça principal,は、cabeça principal 以下は Dom Geronimoにかかると解釈される。 イでは、Dom Geronimo, filho herdeiro de Dom Antonio que Deos tem como cabeça principal と comoを補って一息に、すべて Dom Antonio にかかるように読んでいる。 4 ア 10頁218行 a obra de cento e oitenta homens つまりおよそ180人を、イ(175頁8行)では約80人と訳している。 この箇所について、アの脚註(他の諸写本への言及)はふれるところがない。 8月8日
福岡人権研究所主催・部落史連続講座に講師として報告(「中世被差別民の実相〜河原ノ 者と非人」) 講師はほかに寺木伸明先生と布引敏雄先生。事務局の担当者田中美帆さんは以前にわたし のゼミに参加していた人。理事長は旧知の森山沾一先生。寺木先生は3日前に高野山でい っしょ。布引先生が中世史(毛利氏)研究者で、『萩藩閥閲録』編纂者であることはうかつ にもはじめて知った。改めて敬意。 会は盛会だった。高野山での見聞などもふまえ、最近の考えを交えたが、準備不足。 内容が整理不十分で、むずかしかったようだ。
8月5日
その1 高野山にて開催された第18回全国部落史研究大会に参加。奥の院入口阿弥陀堂脇に墓域。 堂も墓も旧位置から動いているようだ。旧地は道路になったと推定する(バス道路のうち 北側歩道の下に暗渠河川となった御殿川がある。旧位置はこの川より南だった)。絵図 (拙著『河原ノ者・非人・秀吉』227頁に4点を紹介)によれば、トクホウシ(禿法師) と呼ばれ、「ライ病人家」2棟、ないし3棟があった。ハンセン氏病患者の収容施設である。 100人近くの患者が生活していたのではないか。一老(一臈とも)、二老らの墓があり、い ずれも阿弥号をもつ。 ほか蛇柳刑場および谷ノ者(墓守)の墓地も見学できたし、三昧聖が建てたりっぱな石 塔三基も見学。一基は行基菩薩、一基は聖武皇帝顕彰で、一基は三界万霊供養。その資財 力を可視し、東大寺とのつながりを確認した。 高野聖の一部は蓮花谷聖ともよばれたという。高野聖の世界の原点か。 この会に参加できて本当によかった。有益なすばらしい会を準備された事務局、また解説 下さった木下浩良さん(高野山大学図書館)ら各位に感謝します。
高野山絵図より 阿弥陀堂とライ病人家、北側には釈迦堂と谷ノ者の坊、川の南に蛇柳(刑場)
現在の阿弥陀堂、向かって左に墓地
墓石には一老(一臈)、二老とあり、いずれも阿弥号
三昧聖中(左側面に明記)が建立した石塔
その2 同じく高野山・部落史研究大会にて。火輪が半壊したこの五輪塔は、木下浩良氏らの尽力 によって、忌日と法名から茶々(淀殿)の墓と確認された。左横に豊臣秀頼墓がならぶ。 徳川家康が慰霊のため建てたらしい。『河原ノ者・非人・秀吉』がまずまず売れているのも、 淀殿と秀頼親子の秘密を暴いたことが大きな要素。参加者も 「服部さん、淀殿ですって」。 びっくりした服部は、一心に彼女たちの冥福を祈った。「一心頂礼 万徳円満——」
帰りのバス内で小田原谷の先に遊郭があったという説明。精進落としという。なるほど。 結界は一周している。バスはそこで左折し、その先にある女人堂に向かったのである。
7月6日
まだまだつづく元岡・動物残酷物語。 福岡は今日も雷雨。降り続く豪雨でイトキャン構内・調整池が満水に。みょうなものが浮 かんでいて、よくみればウサギが2羽。それも子ウサギだった。巣があって逃げられなか ったらしい。子うさぎ、あわれ、ナマンダブ・ナマンダブ。
7月6日
昨夜イトキャンつまりわれわれの職場であるイトキャンパス近く、産学連携センター前の 路上で、車に当たったと思われるイノシシが苦しんでいた。骨折しているらしく立てない。 うり坊の縦じまが少し残っていて、こどもである。やむなく警察に連絡。体長1M。
イノシシの衝突やあわれ、ナマンダブウ・ナマンダブ。
7月1日
朝日新聞に田中優子さんが好意的な書評をしてくれて、そのおかげで拙著はアマゾンほか の順位が急上昇。前日の9000位から奇跡の19位に上昇した。
6月5日
機窓・福岡空港が満員で着陸までの時間調整:島めぐりの遊覧飛行となった(左窓側) 地島・大島沖ノ島
小呂島
5月21日・金環日食を見る その1 こもれび
この日福岡は雨でしたが、わたしはたまたま名古屋にいて、実家の前にて金環日食を見る ことができました。 写真は三日月型の木漏れ日です。
実家の前の通行人、全員が日食に関心を持っているわけではなく、ふつうに歩いている 人の方が多い。駐輪場整理の人も勤務中だからか、グラスは持っていない。左イスにすわ っているのが母、その横が妹。
その2 ハレーション金環日食
遮光フィルターがなければ金環日食は写せなかった。まことに残念。 それでもハレーションらしき像に青白き神秘的な金環日食が見えている(右下)。
その3 厚い雨雲から。人吉と福岡(西区徳永)、感動の金環日食
提供は(左)人吉・鶴嶋俊彦氏:(右)福岡・堤亮介氏から