服部英雄のホームページ 服部祐雄著『探訪記 アルプス越えの鎌倉街道』発刊に寄せて

鎌倉街道の第一人者、服部祐雄先生                              九州大学 服部英雄  鎌倉街道という響きは多くの人の気持ちを惹きつける。いざ鎌倉、すわ鎌倉。全国の武士たち が、一斉に鎌倉を目指して進軍した。越中からも、飛騨からも、信州からも。その道がいまに各 地に残っている。  鎌倉街道に魅せられた歴史好きは多いが、多くの方々は東京近郊在住だったから、従来の研究 対象は武蔵が中心であった。しかし近年は鎌倉から遠く離れた山間地の鎌倉街道こそが注目され ている。その第一人者が、服部祐雄先生なのである。  服部祐雄先生は信州大野川に生を受けた。生家の前を鎌倉街道が通っていたという。わたしの 名前は服部祐雄先生と一文字しかちがわない。縁戚関係・血縁関係は全くない。そう信じている。 血縁はないはずだが、関心や性格、行動にはかなりの共通点がある。最初に先生のお名前を知っ たのは『信濃』に掲載された大野川のくらしを分析する論考を見たときであろう。その後、昭和 五〇年代半ばに、東山道シンポジウムでご挨拶できた。松本での地方史研究大会で講演をした帰 りに白骨温泉のご自宅(丸栄旅館)まで連れて行っていただいたこともある。いつ鎌倉街道安房 峠をいっしょに越えようという相談ができたのかは、あまり記憶に定かではない。沢渡・奥原壽 松さんと話をしたあとで、いちど平湯側から登ろうとして失敗したあとだったと記憶する。  服部祐雄先生はとにかく歩く。そして薬研ぼりのみちを追跡される。底面の道幅が薬研のわず かな底幅ということになる。わたしはまだ安房峠(旧峠、いまの安房峠とは別)を一度しか歩い ていない。それは祐雄先生にご同行いただいたものである。先生本人は何度となく歩いておられ る。先生の鎌倉街道への執念はこの本を読めばよくわかる。数十回に分けて行われた越中水須へ の道の全線通行、越中路の踏破が成し遂げられるまでには、じつに三〇年が経過したとある。そ の間には一度事故もあった。事故といってもそれほどに痛ましいものではないが、詳しくは本書 をごらんいただきたい。道を究めることはそれほどに困難で、努力も必要ということである。    この本は鎌倉街道の踏査記であり、すぐれた案内書にもなっている。廃道を行くことは容易く はない。鉈は必需品である。藪に入っても道を見失わない歩行技術・判断力も必要である。本を 読んだからといって簡単に踏査できるわけではない。しかしこの本を読めば、先生が費やされた 試行錯誤の何年間を、読者は割愛できるのだ。  本書はすぐれた踏査記である。だがそれだけではない。トロイの廃墟に魅せられたシュリーマ ンのように、鎌倉街道に魅せられた歴史家・服部祐雄、一代の伝記でもある。       平成戊子仲冬   福岡にて


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