学内広報誌『RADIX』より 自著を語る 『景観にさぐる中世』 服部英雄 私がこの世に生を受けて半世紀近くになる。別に生意気をいうわけではないが、 この半世紀の日本の変わりようは激しい。普段は余り気づかないが、何年か前を 思い出してみると、確かに自分が経験しただけでも町や村の様子はすっかり変わ った。しかし本当は少し前の村までは、そんなに大きく姿が変わることはなかっ た。江戸時代とさして変わらぬ、もしかしたら室町時代とも余り変わらぬ村が、 昭和の中後期、いわゆる高度成長期まではかなりたくさん存在していた。 私は大学時代に日本中世史を学んだが、その中で、自分たちの身の回りにある 景観にはずいぶんと多くの歴史学の史料があるということを知った。景観の中に あるものをたんねんに探し求めていくことによって、歴史が組み立てられるので ある。当時の歴史学の主流に位置づけられてはいなかったが、柳田国男『地名の 研究』などは明らかにそうした方向をめざすものだった。ふつう歴史学者は古文 書のような文献を重視する。というよりは文献以外のものは史料として認めない 人がほとんどである。だが史料は偶然に一握りのものが残ったに過ぎない。柳田 は文献偏重の歴史学に批判的だった。 私は卒業論文には佐賀県武雄市をフィールドに選び、古文書の記載によりつつ も、中世の人々の暮らしを探る作業を行ってみた。そのなかで文献の解読一つと ってみても、地名が大きなヒントを与えてくれることが分かった。七百年も前の 鎌倉時代の古文書に記された地名が、今も田圃の名前として使われていた。しか もそうした地名は市役所・町村役場で使われているような地名(小字)ではなく、 もっと細かくて農民だけが、慣習によって使っているものが多かった。私称地名 であり、聞取によってしか集めることができない。武雄ではこうした地名をしこ 名と読んでいた。 卒論執筆後、再度武雄市を訪ねることがあったが、そこでは圃場整備事業が開 始されていた。圃場整備、つまり水田の大型化が行われると、それまでの小さな 曲がりくねった小川(用水)やあぜ道が、直線の水路・道路に付け替えられる。 そうして大型の水田に変わり、それまでの小さな水田はなくなる。つまり地名が 付けられる単位になっていた一枚一枚の田は皆なくなる。自分が歴史資料として 利用した地名もなくなる。自分ができた調査は以後の人には不可能になる。 実はこうした問題は武雄だけの問題ではなかった。日本全国で、全く同じ事が 一斉に行われていたのである。しかし歴史学者たちは文献を読むことだけが仕事 だと思っているから、こうした現地の状況にはまるで無関心だった。ふしぎなこ とに土地を研究対象とするはずの地理学者も同様だった。みな机上の研究に夢中 なのである。 仕方がないから自分一人だけでも調査を行おう。それを基に成果を発表してい けば、研究者たちも現地に関心を持ってくれるかもしれない。そう考えて少しづ つ、仕事をしてきた。頭ではなく足で仕事をしてきたようなものだ。 その25 年間の自分の仕事をまとめたのが『景観にさぐる中世』(1995・新人物往来 社刊)である。副題は「変貌する村の姿と荘園史研究」。今にしてみれば欠点だ らけの本ではずかしい。あそこも直したい、ここも直したい。ただし努力だけは 評価していただけたようで、図らずも1996年度・第18回角川源義賞をいた だくことができた。努力賞であろう。 この本でとりあげたフィールド、足を運んだ場所は、北は北海道、当時のこと ばで言えば西蝦夷地の留萌(ルルモッペ)から、南は沖縄、琉球王国の波照間島 まで。中世の荘園として調査をしたのは、東は常陸国真壁庄(今の茨城県真壁町) から西は筑後国三瀦庄(今の福岡県久留米市、大木町ほか)や肥前国長嶋庄(今 の佐賀県武雄市)まで。聞取をしたお年寄りの数は一体何人になるか。百の単位 ではきかないことは確かだろう。「あるき・み・きく」歴史学を標榜してきた由 縁だ。それではそんなに歩いて一体何が分かったのか。 この本の中身については角川賞の選考委員である大山喬平先生が紹介の労を執 ってくださっている。以下に引用させてもらう。 『景観にさぐる中世』 大山喬平 長いあいだ伝えられてきた日本の耕地にはさまざまな固有名詞がつ けられていた。服部氏は耕地の名称を各地で調査するうちに「みそさ く」あるいは「ようじやく」など意味不詳の地名が、じつは地頭など中 世在地領主の直営田である「御正作」「用作」にほかならないことに 気づく。服部氏は東国各地、上野・下野・下総・常陸・甲斐の「みそ さく」、西国では防長二国の「ようじゃく」など多数の地名を蒐集し、そ れらの一つ、一つについて立地や水路、土壌の観察を行い、それらが 用水路にたよる乾田と日照りに強い強湿田との組み合わせからなって いたことを導きだした。それは中世農業の水準を考察する大きな手が かりとなった。正作田にとどまらない。満潮時に逆流をはじめる淡水 (あお)を利用して耕作される筑後川低平デルタ地帯の荘園。播磨福 井荘の古文書にみる樋守を現地に尋ねて、それが中世以来近年にいた るまで瀬戸内の潮浜干拓水田を囲む堤防の樋門を日に二度づつ開け閉 めし、排水を行ってきた水番の樋守であったことをつきとめるなど、 氏の研究は古文書の簡単な単語の意味を探って新鮮である。 本書は地名研究の豊かな可能性を多くの実例によって示した大著で あり、日本中世史研究に新しい領域をもたらした。服部氏が各地の荘 園故地で蒐集し、巻末の地図に表現した通称地名は将来の研究のため の貴重な財産をなしている。この研究は文化庁に勤務した著者の個人 的努力によつてなしとげられた。しかし昔の耕地と地名が急速に失わ れている現在、こうした研究に残された時間はおおくない。個人の作 業量だけではとても追いつかないというこの学問の置かれたきびしい 状況もまた本書の語ってやまないところである。 過分のお言葉である。多分私は今後も同じ仕事を続けて行くだろう。現地調査 のほかにもやりたいことはたくさんあるけれど、やはり私には課せられた使命が ある。二十世紀から二十一世紀にかけて生きた歴史学徒として、長い歴史をもっ ていた村の姿を、調査し、記録を後世に伝えていく。それが自分の第一の仕事の はずなのだから。