『時空を超えて−−森藩誕生400年』の刊行によせて
                        服部英雄(九州大学)
 本書の執筆者である甲斐素純氏、竹野孝一郎氏のおふたりは、名著の誉れ高
い『玖珠川歴史散歩』の執筆者である。お二人によって、このたび『時空を超
えて−−森藩誕生400年』が刊行になった。
 本書刊行の前提には『玖珠町史』の刊行がある。上・中・下、全三巻230
0頁、厚さ10センチの大作のエッセンスが凝縮されて、また新たな展開を見
せている。
 森藩藩主来島氏は関ヶ原で西軍についた。お家取りつぶしとなった。ふつう
ならそこでおしまいだが、にもかかわらず、再度取り立てられた。なぜ来島氏
はお家復興を果たすことができたのだろうか。
 章の見出し項目に「海の目と山の目の融合」とあった。瀬戸内海が根拠地で
あった来島氏が水軍の将であったことはよく知られている。来島氏は角牟礼城
跡の麓、森の城下町とその領国、そして別府湾の港津・頭成(日出町豊岡)を
得た。江戸時代を通じて海と山の領主でありつづけたと、本書で主張されてい
る。意外なことに来島氏は浪人時代、大坂商人から「材木だんな」とよばれて
いた。水軍であった時期からもともと山は重要な基盤であった。なぜか。答え
は造船である。巨大な船舶を建造するには大きな材木山が必要であった。材木
山からは、船材ばかりではない。藩直営であった鶴見照湯の大きな温泉宿屋用
の材木が搬出されることもあった。
 西軍大名から復活を成し遂げたという事情は、家臣団編成にどう影響を与え
たのか。家臣団のなかに港・頭成周辺の人材がいた。御船頭役、御船手、船大
工として仕官しており、なかには水軍として知られる梶原苗字を名乗るものも
いて、扱いは「御矢倉」(船頭格)だった。藩士三百三十三人のうち、水主は二
十二人と一割弱ほどもいた。山に囲まれた小盆地・豊後森しか見ていなかった
目には新鮮である。藩が困窮した時代に、水主たちが独自の要求をしたことも
本書に紹介されている。
 森の城下、三島神社(末広神社)に関船(巡洋艦クラスの軍艦)の船図面が
奉納されていたことは、著者らの努力で判明した。来島(久留島)氏は海の大
名であり続けたといえるが、小藩であったから縁戚をたよって、土佐山内家か
ら関船を借用するなど苦労も絶えなかった。
 家臣団には先祖は朝鮮人だというものが複数いて、文禄慶長のおりに日本に
きたという。有能な人材の登用は、広い世界に向けられていた来島氏の志向の
反映であろう。伊勢神宮御師に召し抱えられるものもいた。さかんだった伊勢
参りを背景に、こうした人材の確保が、藩の利潤を生むと確信されていた。山
は紙の原料である楮や竹皮などの産地にもなって、民衆の生活と藩の財政を助
けたが、鶴見温泉・明礬山からの明礬製造という特異な利益もあった。
 森藩の多角経営は、強いられたものではなく、当初からの目的意識に応じた
ものであろう。徳川幕府が特異な才能・技術を持つ来島(久留島)氏を手元に
置きたいと考えたのは至極当然であった。
 森藩は城持ちではなかったが、当初は角牟礼城山上に住み、以後もこの山を
館背後の山として重視した。この秋、懸案であった角牟礼城が国指定史跡とな
ることが決まった(平成16年11月19日文化審議会答申)。たいへんに喜ば
しいが、かさねてこうした時宜を得た重厚な書物が刊行されることは、その喜
びを倍加させてくれる。県民国民の至宝である。

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