(無断転載不許可)荘園現地調査から考えた南北朝内乱の意義 ---安芸国三入庄・備後国地毘庄・周防国仁保庄の調査を通じてみた 武士の「家」の交替-----
『広島県文化財ニュース』(163、第81回文化財臨地研究会特集号) 1〜9頁 服部英雄わたしは中世の荘園村落の像を現地調査によって解明する作業を続けている。広島県内 では、安芸国三入庄(広島市安佐北区・旧可部町)、備後国地毘庄(庄原市、高野町、比 和町、口和町)、備後国太田庄(甲山町、世羅町)などを調査し、レポートも書いたこと がある*。従来の研究史を踏まえつつ、新たな視点を見いだすためには、新しい視角にた った新しい史料の発掘が必要である。現地調査は文献のみの調査にもう一つの視点を与え るものだと思う。いわば単眼視から複眼視へ。複数の視点があれば新しい切り口や資料に なりうる新材料を見つけやすい。 *三入庄については「変貌する耕地景観と荘園史研究」『歴史学研究』五〇一、一九八二。 地毘庄については「中世荘園と館」(『日本城郭大系』別巻『城郭研究入門』一九八一所 収)。以上は拙著『景観にさぐる中世』新人物往来社一九九五刊に収録した)。大田庄に ついては「芦田川本流域の村むら」『国立歴史民俗博物館研究報告』二八、一九九〇。 三入庄の場合 三入庄調査の時は、広島城天守閣資料館にある高宮郡『郡中国郡誌』(黒川文書・安政 六年<一八五九>写)を使用した。文政八年(一八二五)広島藩によって『芸藩通志』が 編纂された。その過程ではまず各村から提出される「郡村誌指出帳」を作成した。これを 郡単位にまとめたものが『郡中国郡志』である。高宮郡『郡中国郡志』をみてみると、完 成本『芸藩通志』には記述のない地名の一覧が書き上げてあった。現在の小字にはない江 戸時代の詳細な地名である。完成本にこれが欠けているのは、たぶん他の郡ではこれほど の地名の報告がなかったので、全体の体裁をあわせるために高宮郡の詳細な地名を割愛し てしまったのだろう。 さてそこに列挙された地名には中世文書に登場する地名と一致するものが多かった。だ から当面の現地調査の課題はまずこうした地名を聞き取り、現地比定していく作業になっ た。村によってはあまりうまくいかない場合もあったが、逆に驚くほど地名収集が順調に いった村もあった。荘園復原に当たってまず地名の資料としての有効活用が可能になった。 この作業を経て、従来の研究者たちが三入庄全体を支配していたものと考えていた鎌倉 時代末期の熊谷一族惣領熊谷直経の所領の分布範囲を推定することができた。それは意外 にも、広い三入庄のなかの一つの谷に過ぎなかった。三入庄域とは、おおよそは旧の三入 村のほか大林村、亀山村、中原村等を加えた地域であろう。いまでいえば広島市安佐北区 のうち、根の谷川沿いの広い地域である。しかし「惣領」と呼ばれた直経の所領は全体の 中のごく一部だったように思われた。その根拠は(A)嘉暦四年(一三二九)の熊谷直経 去状と、(B)貞和二年(一三四六)十二月十七日足利直義下知状である。(A)はもと もと直経の所領の一部を伯父有直に去り与えたものである。直経所領そのものではないが、 (B)に「門田屋敷・高屋名内田畠」とある。領主のもっとも基本的な財産である門田を 分割している。その具体的な坪付が(A)に記されており、そこに記された耕地の地名の 内、小字(今日の土地台帳上の地名)として馬通(Aには「むまたをし」)、そして小字 以外の通称や屋号として門田、信吉(のぶよしみやう)、依弘(よりひろみやう)、山倉 (やまくらみやう)、平林(ひらはやしみやう)等の地名が検出された。これらはむろん 『国中郡村志』に下町屋村の地名として書き上げられていたから、それをもとにして聞取 ができた。そしてBに記載された「高屋名」の遺称「甲屋」も小字名に残っていた。文書 には登場しないが、そこには「土居」や「佃」(小字では突田と表記)の地名もあって、 いかにも熊谷一族の本拠地にふさわしかった。 これらの地域はいずれも根の谷川流域全体ではなく、その枝谷山倉川の作る小さな谷に 分布していた。従来熊谷氏の居城といわれていた伊勢が坪城や高松山城のある村々の地名 は全く出てこなかった。それでわたしは鎌倉末期の熊谷直経の所領は、従来いわれていた ような広域ではなく、案外にこの山倉谷を中心とした狭い地域ではなかったかと直感的に 考えたのである。 この直感は直経所領の一部分を譲り渡した(A)の所領が、(B)では「門田屋敷」 「高屋名」と書かれていたことによっていた。門田さえ分割する状況では、他に多くの所 領があったとも考えにくい。分割された水田はまとまった耕地ではなく、ごくごく微細・ 零細で、断片的な土地ばかりだった。よって(A)は直経のもつ所領の一部--たとえば信 吉名、依弘名、山倉名、平林名などを分割したものなのだから、分割以前の所領も(A) に書かれた地域に近接していただろうと考えた。実際の管理は直経によってなされていて、 得分のみを有直に支給したとも考えた。しかし(A)はあくまで直経所領全体の部分に過 ぎないので、部分を記述した史料から直経所領の全体を論じようとした方法には飛躍があ ったことも否めない。 (A)は直経の自筆の譲状である。ほかに五年後の「けんふくわん(建武元)年二月九 日」に書かれた同じく自筆の置文がある。自筆ということは財産処分に関わる重要文書で あることを意味する。それによれば「三入本庄は故入道殿(直時<西忍>か)の跡を、直 満(直経の父)が有直(直経の伯父)に去り出した。直経もまた有直に去り出した。有直 が兄にこれを与えたようだが、直経は惣領だからと言って、この土地に口出しすることは しない」と約束している。これが(A)に書かれている「(父)直満が先年(直経の)伯 父熊谷助四郎(有直)に去り出した一丁五反に加え、新たに二丁一反を去り渡す」と書か れた事実に対応しよう。(A)には二丁強しか書き上げてなかった。それから直経の所領 全体を論ずることにムリがあったことはたしかだ。 しかしそれでも直経所領は(A)に近接していて三入庄全体には及んでおらず、かなり 限定された地域だったとみた直感自体は、実際にはそれほどには的外れなものではなかっ たと考えている。そのことを裏付けてくれるものがある。鎌倉末期から南北朝期にかけて の直経の置かれた苦しい状況を語る一連の史料群である。 まず南北朝内乱の当初、武士団熊谷一族を統率していたのは、直経ではなかった。直清 という人物である。彼は熊谷系図によると同じ三入熊谷氏の一族だが、直経の本庄系では なく、新庄系であった。三入熊谷氏が本庄家と新庄家に分かれたのは、直時、資直の兄弟 の時で、直時の曾孫が直経、資直の曾孫が直清にあたる。その直清が総大将として各地を 転戦していた。「四カ国大将」ともいわれて、四カ国の兵を統率していた。一方の直経は、 といえば鎌倉幕府の末期に千早城攻めに参加し、楠木正成の兵にやられて骨にまで到る大 怪我をした。それで以来寝ていたのである。「在京」とあるからしばらくは京都にいたよ うだ。しかし足利尊氏の軍事指揮に従わないわけにはいかない。直経は代官(直久)を直 清のもとに派遣して、その指揮下に従軍させた。直清が主で、直経は従だった。 この千早城の合戦の時の手負注文は、古文書学の教科書には必ず写真が掲載される著名 なものであるが、なぜこれが熊谷文書に大切に保存されてきたのか。熊谷直経は足利尊氏 の命に従えず、建武動乱に参戦できなかった。スタートで出遅れただけでない。不参戦で は疑惑の目をさえ向けられかねない。彼にとってはけっして尊氏に敵対しているわけでは ないということを証明するために絶対に必要な証文だった。 直経の所領三入庄はなんと「元弘没収地」として、すなわち元弘以来の敵方の土地とし て没収された。そしてそれが最大の功労者と認定された直清に与えられた(熊谷文書六三、 六一)。直経にとっては絶対のピンチだった。直経自身は動けなくとも、代官を派遣して 新政権のために戦ってきた。ところが新政権は直経は敵対勢力=北条氏与党であると認定 したのである。直経は訴訟を起こし懸命に自身の行動を説明しなければならなかった。そ の努力の結果、やっと半分だけが直経のものになった。じつは直経は建武元年(一三三四) に雑訴決断所牒(熊谷文書四七)によって三入本庄の知行を安堵されている。にもかかわ らずこの体たらくだった。決断所牒による安堵などは何の役にも立たなかった。こうした 事態になった伏線にはやはり、三入庄では直経の影響力がさほどにはなかったことがある。 そういわざるをえない。 直経はもともと三入庄では熊谷武士団の唯一の切り札ではなかったのだろう。同程度の 武士、熊谷なにがしは何人かいた。「惣領」といってはいるが、際だつ勢力ではなかった。 だから南北朝の内乱の勃発と同時に対等な何人かはそれぞれの大将にしたがって行動した。 内乱は宮方と武家方、やがて武家方が尊氏方と直義方に分かれ、三者に分裂する。各家の リーダは三つのいずれかに属した。 直清の他に頻繁に名が登場するものに熊谷蓮覚がいる。新庄家の一員で、直清の伯父で ある。守護武田氏と合戦し討死にした。 結局はうまく時流を乗り切ったもののみが、その後の指導権を握ることができた。直経 の場合、もともと三入庄内での基盤が薄弱な上、スタートでの躓きがあった。しかし彼は 先行した一族の有力者に次第に追いつくことができた。以後繰り返して訴訟も行った。時 間は相当にかかったが、少しずつ失った領地を挽回することもできた。 三入庄では、鎌倉時代には所領もそれほどには広くなく、ワンノブゼムに近かった熊谷 直経は、しかし三入庄外にも拠点がいくつかあった。武蔵では熊谷郷や木田見郷を領有し、 美濃金光寺地頭でもあり、美濃から越前に向かっての軍事行動に代官が参加した。かれは 三入庄の中で最有力の惣領であったというよりは、むしろこれら所領群全体を統括しうる 意味で「惣領地頭」だった。この底力で、なんとか南北朝の内乱を乗り切っていくことが できた。現地調査の結果からはそうした大きなカオスとしての内乱期と、葛藤する武士団 とそのリーダーの姿を読みとることができる。 地毘庄の場合 地毘庄ではどうか。地毘庄でのわたしの現地調査の対象となった地域は庄原市本郷と市 村、つまり『大日本古文書』所載の山内首藤文書に高山門田として記された一帯だった。 このときは従来の研究者が利用することのできなかった多くの関係史料を使うことができ た。『広島県史』の刊行により、学界未紹介に近かった多くの地毘庄関係史料、多くの山 内氏関係史料の利用が可能になっていたからである。第一には山内一枝氏文書。既知の山 内首藤文書に重なる系統の内容で、且つ現地の詳細な記載があった。第二は元来京都長福 寺に伝来した領家方の文書群。のち石井進編『長福寺文書の研究』に一括されて活字化さ れた。こうした研究の発展の恩恵を受けつつ作業を進めることができた。現地調査にあわ せ、新史料の登場で、おのずから新しい視点が開かれる。 現地調査の成果は別にも報告したが、甲山城の山麓に拡がる高山門田の現地復原ができ た。文字どおり高山門田は甲山城の麓の一帯に拡がっていた。地毘庄は恵蘇郡の全体にも 近い広域で、現在の市町村でも一市三町にまたがっている。高山門田はその広さからいえ ばわずかな地に過ぎない。文書が詳細に記述していた世界は案外に狭いところでもあった。 一方では高山門田の四至境界に当たる地に存在した「おおのの池」と呼ばれる池や「別 所池」が確定でき、それが文書の記載によって一旦は破堤していた事実が確認できるなど、 土木技術史のうえでも興味深い事柄が明らかになった。地頭名と呼ばれる水田には、分水 嶺(「水越の樋のタオ」)を越えて引かれる用水がかかっていた。「えんみょう池」と呼 ばれる小さな池(湧水点)があったが、それが「円明田」「西は池原のたわを、ゑんみや うのうゑを--」など多くの文書に登場していることにも感銘を受けた。その後圃場整備が 行われたが、あの湧水はどうなったのだろうか。調査成果の詳細はすでに報告済みだから ここでは割愛したい。しかし復原し得た高山門田のありかたと、この調査を通じて得られ た備後山内氏の様相もまた、他の文献資料とあわせてみることにより、きわめて興味深い ものになった。 地毘庄にいた地頭山内首藤氏も、他の武士団同様に庄内にもまた庄外にも多くの家があ った。鎌倉時代には山内本郷の山内氏である時通は「兵衛三郎」、同じく地毘庄内の河北 を根拠とする系統の清俊は「首藤四郎」という名乗りだったが、彼と相論した相手の兄俊 家(能俊)は「右近将監」であった。年齢的なものもあろう。しかし後年になって時通ら が何らかの官職についた徴証はない。彼らの父宗俊は左兵衛尉、祖父重俊は中務丞だった。 しかし官職に就くことができるのは一人だけのようで、弟たちは無官のままだったらしい。 無官の時通と位官を有するものとでは、およそ家格に大きな差があった。中務丞は少丞で あれば従六位上相当、左兵衛尉は大尉であれば正七位下相当、右近将監は従六位上相当。 この家の家格はそういったところで、またそのポストに就けるのは一族全体における本当 の「惣領」一人だけだった。時通の孫、本郷山内氏の「惣領」の通資は、鎌倉末期を通じ て「首藤三郎」のままだった。 この兄であり、「惣領」だった俊家がどこを拠点にしていたのかは分からないが、山内 首藤氏には 陸奥から豊後に到るまで、全国の各地に所領を持つ一族がいた。地毘庄内でも 時通の系統本郷山内氏の所領は本郷市村を含む一部地域に限定されたものだった。弟清俊 の系統は北の馬洗川に面した河北に入った。 このように鎌倉期から一族間には訴訟など対立が絶えなかったが、南北朝期になると、 対立する各家はあるいは武家方、あるいは宮方、あるいは尊氏方あるいは直義方といった 具合に、中央の対立をそのまま地域に持ち込んだ。河北の山内首藤氏、俊資(先の清俊の 孫)は宮方になった。そして後醍醐天皇から目をかけられて、「備後権守」という受領 (国司)になった。備後は上国だから従五位下相当である。元弘の内乱の時、京都で参戦 したものは山内雅楽助、山内藤兵衛尉だった(山内文書四九五)。前者は俊資の子、後者 は俊資の弟通興で、雅楽助は正六位下相当、兵衛尉は大尉ならば正七位下相当である。南 北朝内乱はまずこの俊資の家を破格的に抬頭させた。 なお雅楽助らの任官はいつか。彼らは元弘三年(一三三三)五月 日の軍忠状(四九五) に登場している。鎌倉幕府滅亡以前から名乗っていたことになるから、彼らの家格は高か ったことになる。可能性もある。しかし備後権守のようなとりわけての高位は後醍醐天皇 からの恩賞として与えられたとみたい。 破格の厚遇を受けた河北・俊資流、しかし彼らは後醍醐天皇についてはじめて飛躍が可 能だった。宮方の凋落は彼らの凋落をも意味する。俊資流と通資・通時流の対立は長く続 いたと思われる。観応の擾乱時には通時子通継は直義方となって守護岩松氏に対立、貞和 年号を用いた一族一揆を成立させた。この一揆には敵方の俊資の弟である先に見た通興や 俊資の甥も参加しており、俊資流を分裂させることに成功している。 本郷通時流も直義の凋落にしたがい、試練が待っていたはずだが、危機を乗り越え、次 第にその基盤を安定させることができた。 南北朝内乱は鎌倉期には全くの傍流に近かった本郷通時通ー通資流や河北清俊ー俊資流 を抬頭させた。宮方として急速に抬頭した河北俊資流はやがて凋落するが、通資流は直義 の凋落という難局を乗り切り、戦国時代にまで発展することになる。南北朝内乱はそれま での家内部の秩序関係を、一旦は完全に否定した。 周防国仁保庄の場合 仁保庄の地頭は平子(仁保氏、三浦氏とも)である。この家の系図を見る限り、南北朝 期に家が交替したり、動揺したということは考えられない。文書(『大日本古文書』三浦 文書)を見てもまたしかりである。さて現地調査によって鎌倉期の当初にこの地に入部し た平子重経の根拠地と、南北朝時代に惣領だった平子重嗣の拠点を確認できた。ところが 両者はかなり離れていた。連続した家系だとするといささか不自然ではないか。そう考え て文書を再点検してみた。 すると古文書の中にはいくつか不自然なものが含まれていることが分かった。例えば 文永元年(一二六四)二月十八日平子重資譲状 があるが、文永元年に改元されるのは二月二十八日で、このときはまだ改元前、弘長四年 であった。また貞応二年(一二二三)五月二十六日西仁(平子重経)譲状には「可仰 将 軍家御成敗」とあるが、このときは源実朝が死去した後で、且つ摂家将軍藤原頼経の到着 以前であって、将軍は不在の時期だった、など。 結論としてこの家の文書には、偽文書が含まれており、その偽文書作成の理由は、重嗣 流が嫡流であると粉飾するためのものだということが分かった。 文保元年(一三一七)重嗣の父重有は兄の重連と相論を行ったが、その中で兄重連は自 身が惣領であるといっていた。つまり重有も重嗣も、元来は惣領家ではなかったのである。 南北朝の内乱の当初、かれらはピンチだった。その所領が元弘三年(一三三三)収公さ れ、仁保庄は上総宮内大輔(吉良貞経)のものになったからだ。三入庄に同じく北条氏与 党と見なされたか。しかし建武元年(一三三四)には安堵の勅裁を得、また建武三年には 足利尊氏御教書を得て、彼らの地位は保全された。鎌倉末期には一族内で対立しつつ、惣 領の地位を得ようとしていた重嗣は、南北朝の内乱を経てその地位を磐石にした。南北朝 内乱による家の交替があった。庶子が嫡流になったのである。その事実をまず端的に示し ていたのが現地の景観だった。 *仁保庄に関する報告は前掲「中世荘園と館」(『日本城郭大系』別巻『城郭研究入門』 一九八一所収)、のち拙著『景観にさぐる中世』新人物往来社一九九五刊に収録した)。 なお旧稿では上総宮内大輔について北条氏の一員と誤認していたので、ここに訂正する。 貞経の弟吉良左馬介氏家は直冬方の周防守護である。 肥後国人吉庄・相良氏の場合 肥後国球磨郡に入部した相良氏は上相良氏と呼ばれ、多良木村を拠点とした家が惣領家 だった。惣領として「本御下文」など重要文書の保管を行い、菩提寺人吉願成寺の支配権 も持っていた。人吉には下相良氏といわれる家があったが、当然に庶流である。しかし人 吉庄の地頭職の大半を有しており、有力な家だった。 南北朝の内乱には上相良氏は宮方になった。南北朝期を通じてその立場は一貫していた が、結果として上相良氏は凋落し、下相良氏がそれに替わった。南北朝内乱により家の交 替があった。 *服部「空から見た人吉庄・交通と新田支配」『史学雑誌』八七ー八、一九七八 南北朝の内乱と家の交替 家の歴史は勝者となったものの手によって書かれる。あとから書かれた歴史叙述では、 当初からその家が一貫した揺らぎのない家であるかの如く書かれる。だがこのように見て くると、南北朝の内乱期に惣領家が没落して、庶子家が抬頭してきた家がかなりあること が分かる。 安芸国三入庄の場合は、家の交替までには至らなかったが、鎌倉期に惣領家であるとさ れていた家は、庶子家の抬頭によって没落寸前にまでいっていた。備後国地毘庄では南北 朝内乱によって、庶子家の二家が抬頭した。そして宮方に付いた家は急速にのし上がるが、 比較的はやく没落した。直義に付いた一流が戦国期に大名化する。周防国仁保庄は鎌倉末 期に抬頭しつつあった庶子家が、内乱期に惣領の地歩を確保した。戦国期には大内氏の有 力家臣になった。肥後国相良氏は鎌倉期の庶子家が、南北朝内乱以後、惣領家よりも強大 になり、戦国時代には大名化した。 こうした変化は、後の粉飾された史料に惑わされて分かりにくい点もあるが、仁保庄に 顕著であったように、また三入庄で示唆されたように、現地の調査によって解明できるこ とがある。 南北朝内乱は、それまでの惣領家・庶子家といった秩序を一旦はすべて否定しうるエネ ルギーを持つものだった。家の歴史を考えるときには一旦はここで断絶があったとみたい。