地毘庄
『講座日本荘園史・中国地方の荘園』(吉川弘文館) 144〜161頁 (前略) このきわめて複雑にみえる荘園領主像を整理してみよう。まず本家であったのは蓮華王院 である。地毘庄は主として蓮華王院の修正会料を負担した。次に鎌倉期の領家は安井宮だ った。安井宮は後白河法皇の子殷富門院から以仁王遺児道尊(後白河法皇孫)を経て、道 融が相承した。つまり地毘庄は初期には天皇家領(皇室領・王家領)荘園であり、得分の 一部が蓮華王院に上納されていた。なお安井宮以外に同じく以仁王遺児であった姫宮の上 分を継承したと主張した藤原氏もいる(『経俊卿記』康元二年<一二五七>閏三月一日条)。 安井宮の権限は一般には「領家」と表現されるものに該当するが、『経俊卿記』では「本 家之預所職」、また現地では「本所」といわれていた(「山内首藤家文書」)。 鎌倉後期に荘内、河北村の「預所」として現れるのが浄蓮華院である。しかしその権限 は元徳二年(一三三〇)後醍醐天皇綸旨により西山往生院(示浄上人)に寄進された(長 福寺文書坤、東大文学部所蔵文書)。浄蓮華院また西山往生院の「預所」であった玄空は 「安井宮御濫妨」と安井宮の行動を表現し非難している。つまり浄蓮華院ー西山往生院の 支配と安井宮の支配には対立する関係があった。西山往生院の支配は後醍醐天皇の強い後 押しを受けてのものだったようで、宮方の衰退とともに退転し、応安四年(一三七一)に は不知行となっている(三鈷寺文書)。 また安井宮側も南北朝期にはいると、建武二年(一三三五)まず順悟上人に河北村を安 堵した。また康永四年(一三四五)には順悟の譲りを受けた高山寺北坊尊恵上人に本郷の 領掌を認めた。いずれも令旨を発給しているが(「長福寺文書」)、その職を譲与したも のであり、以後安井宮の名は消える。 この高山寺北坊の領家支配は、室町幕府そして備後守護の支援を受けてのものだったが、 必ずしも順調ではなかった。現地の地頭山内首藤氏は観応の擾乱には直義方に付くなど、 反尊氏・反守護岩松としての行動が顕著だった。また順悟からの譲りの過程で、相伝文書 を有していた房源は、反高山寺行動をとった。房源と地頭の両者が結びつき、観応以降、 応永元年(一三五〇〜九四)に至るまで、両者の後継者と高山寺北坊は相論した。この間 応安六年(一三七三)には、蓮華王院より領家職に補任された恵日院祥忠が山内通忠を代 官に補任している。高山寺北坊は後には本家蓮華王院とも相論しており、房源らが当初よ り、蓮華王院と結びついていた可能性もある。蓮華王院は領家支配を排除し、独自の得分 権把握をめざしていた。なお明徳四年にも山内通忠(一三九三)がその年の年貢を請負っ ているが、請負先は定かではない。この翌年房源後継者が訴状を出しているから、山内氏 はこの時には高山寺北坊側に付いたのかもしれない。 南北朝末期から室町期にかけて名がみえる千光寺、山門石泉院、妙法院、伏見法安寺な どは金融業者だと考えられる(永享十二年「山内首藤家文書」)。確実な収入としての年 貢を担保に、本来の領家職所有者が借金をし、金融業者の側が借金の回収のためみずから 年貢の収取に当たる。千光寺は尾道千光寺であろう。瀬戸内海に面した重要港湾都市の寺 院が地毘庄領家職に関わるに至る経緯は上記の様なものだろう。 応永十八年(一四一一)高山寺北坊側の高家という人物が村上筑前守から五十貫の借金 をしたが、返すことができず流れた。村上は直接地毘庄領家職を支配することになる。永 享十二年(一四四〇)には村上氏に対し山内時通がその代官職を請け負った。寛正七年 (一四六六)、その村上が地毘庄河北村年貢を担保に長福寺清涼院より借金をした。長福 寺については直接に地毘庄領家職を有したという記録はないが、このような同様の経緯で、 領家方文書が長福寺の所有になったと考えられる。ただし金融業者が独自で年貢の徴収に 当たることは容易ではなく、村上氏のように備後守護家山名家の重臣で、かつ瀬戸内海交 通にも精通していた実力者に寄生することによってのみ、この年貢の徴収が可能だったと 考えられる。 (後略)