服部英雄のホームページ 地域資料叢書 『筑前国怡土庄現地調査速報』(花書院)より
はじめに わたしは平成七年から九年にかけて、九州大学文学部および大学院人文科学研究科の非 常勤講師として、箱崎の文学部で国史学演習を開講した。その時に教材としたのは新城常 三・正木喜三郎編『筑前国怡土庄史料』(九州荘園史料叢書)である。前期・後期の半期 毎に輪読と怡土庄現地の調査を繰り返した。現地調査 のレポートも数多く作成された。も ちろん広大なる怡土庄故地に比すれば、調査 地域は少ない。とはいえ現段階でもいくつも の新知見が得られている。今回『地域資料叢書』の第四冊目として、その時の学生レポー トを、『筑前国怡土庄故地 現地調査速報』として刊行することとした。あえて速報として 刊行する意味は、 正式の報告書を刊行するとなると、今後かなりの調査期間を必要とする こと、取りあえず今までの調査分を刊行し、ご協力いただいた地元の皆様に成果を報告す るとともに、既調査分を共有のものとして、今後の調査研究の進行を円滑にした いと考え たからである。 本書の構成は、前半の各地域毎の学生レポートと、後半の全体の考察に関わるレポート、 刊本『怡土庄史料』の正誤訂正からなる。地図編は当然に必要なもので、 一応粗原稿は作成済みだが、精度及び経費の関係上、論旨の理解の上で必 要なもののみ 若干を掲載し、以外は調査の便宜を考え、若干部数のコピー図を作成し、関係の図書館に 配架することにした。なお本書の編集には九八年度リサー チアシスタント(研究助手)の 前原茂雄氏の協力を得た。 怡土庄概説 怡土庄は怡土郡・志摩郡の二郡からなる巨大荘園である。 今日の行政界でいえ ば、前原市、志摩町、福岡市西区、そして二丈町が入ると 考えられる。本家は天皇家、領家は仁和寺(法金剛院)であった。惣地頭職は承久の乱後 は鎌倉幕府が所有し、それを北条氏、千葉氏、大友氏らに配分した。その下に松浦党であ った 中村氏など北部九州の在来勢力が小地頭に任じられた。『怡土庄史料』には正倉院の 川辺里戸籍や刀伊の入寇に関わる『小右記』の記事、重源や栄西の入宋に関わる今津誓願 寺(大泉坊)の史料などが冒頭から続き、 大陸との窓口であったこの荘園の重要性をよく 示している。 今津は怡土庄の政治・経済・交通・軍事の中心地で、中世には政所が置かれた。 その今 津に現存する誓願寺は真言宗御室(仁和寺)派に属しており、 仁和寺領荘 園であった名残りを今にとどめる。その所有する寺宝には栄西自筆の盂蘭盆縁 起 (国宝)、孔雀文沈金経箱、法華経、銭弘俶八万四千塔(以上国指定重要文化財) があ り、今は九州歴史資料館に寄託されている。かつては重源の発願になる丈六 の阿弥陀像が あった。いまは木造薬師如来座像があり、福岡県指定文化財になっている。 今津の勝福寺には、地頭大佛(北条)宗宣の袖判のある応長元年の殺生 禁断を命じた文 書をはじめ、多数の中世文書が残されている。臨済宗大徳寺派 に属す。開山は蘭渓道隆。 絹本着色大覚禅師(蘭渓道隆)像が残され、国指定重 要文化財に指定されている。北条氏の 家紋でもある三鱗(ミツウロコ)の寺紋が、 山門ほかに刻されて、往時を偲ばせる。大佛 氏、北条氏との関わりを伝えるもの だ。誓願寺、勝福寺、ともに中国に渡ろうとしていた 日本人僧たち、また中国か らわが国に上陸した中国人僧たちの最初の活動の場所であった。 庄内の今津長浜海岸、今宿長垂海岸の二つの長大な砂浜には、松原の土中に延 々と石築 地が残され、その頭をのぞかせている。国指定史跡元寇防塁である。長垂海岸の防塁は長 垂山を隔てて東方、早良郡・生の松原に続く。防塁のなかでも とりわけ良好に遺跡が残る 箇所である。沖合いに停泊した母船から、上陸用の小 艇が目指したのは、こうした砂浜で あり、見知らぬ磯に着岸することは考えにく かった。 誓願寺や勝福寺の前面は今津干 潟である。潮の干満が激しい。干潟外には中国 との交易や国内流通に関わった母船が浮か ぶ。その母船から降ろされる上陸用の 小艇は、潮を利用して、誓願寺や、勝福寺に近い現 在の今津干潟の浜に入港した のであろう。広くはないが、今津干潟内にはカブトガニの産 卵地でも知られる砂 浜がある。近世干拓が進む以前には着岸適地は多かったのだろう。沖 合いの母船 は能古島や今津半島の島影を利用して、風雨を避けることができた。 栄西 は誓願寺縁起の中で、その地相を「于北峙高山、堅塞夜叉鬼門也、于南湛 内海、深澄八功 徳池也、于東聳野岳、登拝明星出現也、于西通洲濱、既為極楽土 道也」、そして前には人 家が建ち並び、衆生の表示を化し、後ろは寂漠として人 を断ち、菩提の規模を求めるとし ている。すなわち北の高山、南の内海、洲浜。 東に野岳。近世干拓を経て内海の規模こそ は小さくなったとはいえ、この景観は 今にさして変わるところはない。高山は毘沙門山で ある。栄西も重源もこの山に 立ち、博多湾から玄界灘を航海する船をみ、大陸への渡海船 を待ち望んだ。 アジアとの窓口であった怡土庄。その本質を今に最もよく示すものは、 今津の 史跡・文化財であろう。しかしほかにも注目すべき地域は多い。古代怡土城の所 在 地であった高祖・大門地区は中村令三郎氏所蔵文書・広瀬文書で知られる小地 頭中村氏の 居館があったところでもある。館の所在地が条里記載によって確定で きるほか、その所有 した耕地群が悉く復原できる点で、中世史研究上、貴重なフ ィールドである。河成や常荒 のような荒廃地が多くみえるが、文字どおりの荒廃 地というよりは、免租地とするための 政治的主張であろう。その譲状に登場する 鎮守社天神社も現存する。 田尻、池田、 潤(うるう)、浦志など瑞梅寺川や雷山川が糸島平野の低湿地に 出る辺りには、ショウヅ (生水、庄水)と呼ばれる湧き水が多く、その灌漑する 地域に用作、ユウジャク、地頭給 といった中世の在地領主の直営田や給田に関わ る地名が多く見られる。いずれも中世には 安定した良質水田であった。都市近郊 として住宅開発の著しい地域ではあるが、中世的な 景観が復原しやすい地域とも いえる。田尻は戦時中に造成された田尻飛行場の存在で知ら れているが、実は近 世の今津湾干拓地を中心に明治末大正初期に耕地整理がなされており、 ついで戦 後の飛行場跡地の返還時にも再度耕地整理がなされた。こうした耕地の連続性が 断たれた地域では、聞取調査による耕地復原は困難である。しかし今回福岡法務 局西新登 記所で明治期の地籍図の閲覧ができ、また本研究科・九州文化史研究所 の明治八年地価帳 と対比することによって、その部分についても明治以前の耕地 の復原が可能となった。こ れは後述する元岡地区についても同じである。 庄内にはきわめて多数の名主がいた。嘉 元三年(1305)の史料には多くの 名(ミョウ)の名前が記されている。そのうち師吉 名、元岡名、金丸名等は 今日の集落の名前に一致し、六郎丸名(元岡)、能徳名(田尻、 高田)、是永名 (高田)のように、名の名前が小字名として残っているものもある。名主 の苗字 も、三雲、野北、松隈、鬼塚、稲富等が村の名前として残っている。 元岡は先 述のように、明治末から大正期にかけて耕地整理が行われた。今津湾 に面した一帯は、旧 耕地の形状をとどめないが、古い地籍図によってそれを知る ことができる。そして明治期 まで使われていたが、今は使用されていない小字が いくつかあって、その中に名(ミョウ) の名前を継承していた六郎丸もあった。 元岡にはもともと元岡名があったが、それとは別 に六郎丸名もあって、その名主 屋敷の位置が推定できることになる。 また元岡は今津 の後背地として軍事的拠点でもあった。今津にもいくつか城郭 の跡が残るが、元岡にも文 献上「元岡城郭」があった。そして南北朝期には各勢 力の拠点地作りが行われ、特に観応 擾乱には直冬方(少弐方)対尊氏方(一色方) の抗争の前線にもなっている。 元岡は 九大移転予定地であり、発掘調査が進められている。「金糞谷」からは 「韓鍛冶」、あるい は「嶋里」「里長」の文字を読みとりうる木簡が検出され、 話題を呼んだ。いずれもこの 地域の歴史解明に重要な史料になっている。 詫摩文書には筑前志登社に関わる多数の史 料がある(『新熊本市史・資料編』)。 志登社は弘安八年(一二八五)の岩門合戦後、武藤 景資領から詫摩時秀領になっ た。正応六年の坪付や嘉暦二年の 鎮西下知状にみえる地名 の内、志登にフタ(府 田)、柳、ハスハ(なかはすハ・下はすハ)、池田に朝合(あさこ) が残る。こ れらの史料は『怡土庄史料』には未収録である。 この地域の宗教世界の中 心となったのが雷山千如寺である。関係する史料は山 麓の三坂に関わるものが多い。南北 朝期の千如寺は三坂の領有に懸命で、数多く の偽文書も作成している。もうひとつの千如 寺の山麓の拠点が東村・真方(まか た)の楠田寺(クスデンジ)である。楠田寺は現在は 無住ながらも寺庵が現存し、 字名にも「楠田寺前」という地名が残っている。この地域か ら仰ぎ見る雷山の姿 は神々しいほどに美しく、信仰の拠点になるのも当然であろう。ただ しこの一帯 は怡土庄内ではなく原田庄といわれていた。この地域には神在の藤瀬文書が残 る。 刊本『怡土庄史料』には未収録で、平安、鎌倉期のものについては従来からは史料 批判に関わる議論がなされている。しかし条里(図里)の記載などはたしかな 知識がなけ れば書けないものであろうから、重要であり、今回改めて史料性を再 検討し、中世文書の 多くは信頼できると判断した。また大友宗麟の文書は雁皮を 用いた堂々たるもので、疑う 余地のないものだ。早期に文化財に指定し、十全の 保存を図ることが必要だろう。 なお 庄域・郡域にかかわる検地帳などを含む近世文書にはこの藤瀬家文書を含 め、鎌田文書(御 床村検地帳)、朱雀文書、藤崎マリ子氏所蔵文書(元和深江村 町浦新開新田、松末村検地 帳)などがある。また近代の一筆毎の土地評価を示し たものに、地価帳(九州文化史蔵) があって、村の姿、土地の把握に有効である。 このように怡土庄に関してはさまざまな 角度から、さまざまな論点が提起できる。きわめて重要な荘園故地であり、本速報の刊行 を契機として、荘園現地の調査の充実を図りたいと考えている。 はじめに 目次 凡例 沮}土庄概説 地誌篇 【福岡市】 1桑原 2元岡 3今津 4田尻 【前原市】 1志登 2板持 3蔵持 4三坂 5池田 6三雲・井田・波多江 7高 祖・中縄手 大門・小深田 8末永・王丸 9三雲 10雷山 【志摩町】 1桜井 2御床 3小金丸 小金丸 小金丸(親山) 小金丸(西小金 丸) 4東貝塚 5東貝塚・西貝塚 6西貝塚 7師吉 8井田原 。怡土庄の諸相 1鎌倉・建武期の雷山千如寺--寺領関係文書を中心に-- 2雷山が関東御祈祷をしたことの報酬はいかにして支払われたか 3九大移転予定地元岡は中世には如何なる場所だったのか? その1 南北朝期、観応擾乱と本岡城郭 その2 鎌倉期の名、元岡名と六郎丸名 その3 地籍図と地価帳により、大正耕地整理以前の元岡、田尻の耕地を復原する 4波多江氏館と早米献上 5天正中・後期における筑前国志摩郡城郭の様相 藤瀬文書と原田庄 「校訂 正木喜三郎・新城常三編『筑前国怡土荘史料』(*) あとがき 調査用地図コピー版(限定版:九大六本松図書館、九大文学部図書館、九大中央図書館、 国 会図書館、福岡県立図書館、福岡市立図書館、前原市立図書館、志摩町立図書館、服部研 究室配架分のみに付録)