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怡土庄故地を歩く     ----高祖・大門村周辺の小地頭中村氏の屋敷・耕地を中心に-----

『九州史学』120:5-15頁、所収

                     服部英雄 

      はじめに                                  博多湾の良港今津を擁し、大陸にもっとも近い荘園であった筑前國怡土庄。仁 和寺にとっても院(皇室)にとっても、また鎌倉幕府にとっても、きわめて重要 な荘園であった。川辺里の戸籍、刀伊の入寇、栄西・重源の入宋など多くの事件、 重要史料の舞台にもなった。その故地は前原市、志摩町、二丈町、福岡市西区の 一部。糸島平野には条里制耕地が良好に残っていたから、坪付記載との対比によ り、耕地の復原は容易である。九大キャンパスから至近の荘園故地でもある。は やく新城常三・正木喜三郎編『筑前國怡土庄史料』が刊行され、その概要は容易 に把握できるようになっている。しかし研究としては正木喜三郎『大宰府領の研 究』に収められた数編の論考をみるものの、必ずしも蓄積は多くはない。私は九 州大学文学部の演習で、学生諸君とともにこの史料集を読み、現地調査も積み重 ねてきた。今回はそのうち高祖・大門地区について報告をしたい。ただし最初に この荘園の概要にふれておく。 怡土庄の概要について  初見は天承元年(1131)。現地に力を持つ大宰府官人・原田氏系の人物の 寄進になると考えられる。  本家は院(皇室)。領家は仁和寺法金剛院。法金剛院は待賢門院(鳥羽天皇皇 后、後白河天皇母)の御願寺院であった。法金剛院領は待賢門院から女子の上西 門院、ついで後白河上皇、ついで女子宣陽門院に伝領された。承久の乱(一二二 一)に際し、宣陽門院自身は乱には無関係だったが、後鳥羽第二皇子雅成親王が 猶子であったため、女院領の内の長講堂領などは一旦幕府に没収され、のち後高 倉院に返付された。しかし法金剛院領怡土庄がどのような扱いを受けたのかは未 詳である。乱後の貞応三年(一二二四)宣陽門院所領目録(島田文書)には怡土 庄は「女房別当三位家領」としてみえている。初期には後白河上皇は側近藤原能 盛を預所(下司)に補任するなど実質的な庄務を行った。  しかし原則的には庄務は仁和寺が行った。仁和寺宮庁は権大僧都や法眼らから 構成されているが、このうち法眼クラスのものや宮庁使が預所になることもあっ た。法金剛院自体は鎌倉期には衰微していくようだが、「仁和寺諸堂記」には 「御室御沙汰」とあり、御室(宮庁)が庄務をおこなった。免田の認定を行った 安元元年(一一七五)の(仁和寺)「宮庁」下文がその初見である。嘉禄二年 (一二二六)、正元元年(一二五九)、文永六年(一二六九)、文永九年(一二 七二)、弘安元年(一二七八)にも同様の史料があって、仁和寺による庄務が確 認できるが、多くは免田の認定などであった。 なおよく「関東御領」だったといわれる。蒙古襲来後、幕府が軍事的に枢要で あったこの地を、直接に管理しようとしたことは確かに考えられることではある が、しかし仁和寺支配を排除し、本家・領家職を鎌倉幕府が掌握したことは証明 できない。仁和寺法金剛院領とは皇室領と同義であるが、承久の乱をはさんでそ れが変わることはなかった。永仁二年(一二九四)の「改正原田記」所収文書で は「預所権別当法眼」と署名がある。法眼の僧位をもつ人物だから幕府側の人間 ではない。預所は鎌倉後期に到っても仁和寺宮庁より派遣されていた。 戦国期に到り、天文年間に「旧記」を写した史料が仁和寺に残されている。これ は直接の支配文書そのものではないが、仁和寺は自身の怡土庄支配を中世の最後 まで意識していた。もし鎌倉幕府が鎌倉後期に怡土庄の領家職ないし本家職を皇 室や仁和寺から譲与されていたとすると、他領と相博(交換)したはずだ。そう であれば、このように怡土庄の旧記を写すようなことはなかっただろう。 関東御領説の一つの根拠は、怡土庄が弘安七年(一二八四)に香椎社の造営料 所に宛てられていることである。造営料所になったことは年限を区切ってのもの だったが、その期間内に造営が終わらなかったため、幕府が種々の指示を出して いる。この分については幕府が得分権を伴う所職に関わっていたことが分かる。 香椎宮は大風を呼び込み、蒙古軍の撤退に大きな功績があった。その社殿の造営 費用が恩賞として軍事担当の幕府に請求された。 そこで幕府は造営期間のみに年限を限定して、怡土庄を「香椎社領」とすること を認めた。この「香椎宮造営料所怡土庄」としての位置づけは、造営が終了する はずの弘安には終わっていなければならなかったが、十五年後の永仁六年(一二 九八)頃になって、やっと幕府に返還されたらしい。しかし一部についてはなお も香椎社が支配を継続し、相論になっている。訴えたのは地頭大友氏であった。 地頭は領家としての香椎社を訴えたのではなく、みずからのものになるはずの得 分を「押領」し続ける「地頭」、即ち香椎社を訴えている(永仁七年大友文書)。 造営終了後に香椎社の権限を継承するものは地頭大友氏だった。だから香椎社の 権限も実は地頭職そのものであったことが分かる。 正応五年(一二九二)、今津誓願寺の院主職相論を裁いたのは、鎮西奉行大友 親時だった。本来なら領家仁和寺が裁くべきことがらを鎌倉幕府の側が裁いてい るところに、仁和寺の領家職の衰退をみる。確かに蒙古襲来を契機に幕府の権限 は圧倒的に強まっていた。  応長元年(一三一一)今津勝福寺の僧侶は鎌倉へ出向き、勝福寺ならびに子院 (末寺別院)内での殺生を禁断する禁制を得た(同年勝福寺文書)。禁制の袖に は地頭大佛宗宣の花押が据えられた。 殺生禁断が宗教的な内容(漁労の禁止)をいうのか、あるいは土地所有にも関わ るものなのか、よく分からないが、他のものの行為を強く規制することは確かで ある。勝福寺周辺一帯での排他的な権利が保証された。当時宗宣は鎌倉幕府の連 署。まもなく執権の地位につくことも約束されていた。幕府の最高実力者じきじ きの安堵の花押を得るまでには、鎌倉への旅費、滞在費が必要だっただけではな い。本人への謝礼に加えて、取次の人々への付届もかなりの量になっていた。 怡土庄における宗宣の地位は惣地頭である。その職は子の維貞に譲られ、幕府 の滅亡後は、大友氏がその権限を継承した(建武四年大友文書)。この職が地頭 職であったことは明白である。いまや怡土庄に置いては荘園制の秩序は逆転して いた。本家、領家よりも地頭の方が実力者であり、高額な経費を投じて利権を保 証してもらうのであれば、鎌倉の「地頭」の方に求めなければならなかった。  怡土庄は「辞典」「教科書」に書かれるような意味での「関東御領」、つまり 本家職か領家職のいずれかを鎌倉幕府が保有するという意味で定義される「関東 御領」ではなかったようだ。本家は皇室(院)で、領家は仁和寺だった。鎌倉幕 府が庄務職を持っていたとすると、以下に述べるような、小地頭等に対する甘い 検注を容認することなどなかったように私は考えている。  なお関東御領説のもう一つの根拠に雷山神社(千如寺)が関東御祈祷所であっ たという見解もある。雷山は確かに鎌倉幕府に造営用途を請求している。多分こ れも恩賞請求であろう。しかし幕府が誠意を持って費用の負担をすることはなか った。関東御祈祷寺と見なすことも難しいように思う。  文治段階の院とのやりとりによって、地頭は鎌倉時代の当初は不設置だった。 幕府側は怡土庄を平家没官領扱いとし、地頭を設置したものの、院の激しい抗議 があり、義経追討後には地頭を停止することを約束させられた。承久の乱後にや っと幕府が地頭設置権を掌握した。下司か預所に京方に与したものがいたものか。  早く仁治元年(一二四〇)に「地頭清親」の名がみえるが葛西清親か。惣地頭 には大友氏、大佛氏がいた。ほか今津地頭としてみえる千葉氏も惣地頭だっただ ろう。小地頭には多くの在地系の名主のうち、中村氏のように御家人になったも のが任じられた。また鎌倉幕府の持つ惣地頭職が元寇恩賞配分地として分割・配 分された。このことにより大友氏は志摩方(友永方)三百町惣地頭職を得、一族 豊前(田原)基直は末永村を得た先述の香椎宮もその一つである。小地頭には多 くの在地系の名主のうち、中村氏のように御家人になったものが任じられた。  庄内にはきわめて多数の名主がいた。嘉元三年(1305)の史料には三くの 名(ミョウ)の名前が記されている。そのうち師吉名、元岡名、金丸名等は 今日の集落の名前に一致し、六郎丸名(元岡)、能徳名(田尻、高田)のように 名の名前が小字名として残っているものもある。名主の苗字も、三雲、野北、松 隈、鬼塚、稲富等が村の名前として残っている。  なおよく怡土庄は得宗領といわれ、前掲の辞典類にもそのように記されている。 だが確認される地頭大佛氏は北条一族ではあるが、得宗ではない。『太平記』 (巻十二)(*岩波古典大系;三九六頁)をみても、当時「相模入道(高時)ノ 一跡」「弟四郎左近大夫入道(泰家)ノ跡」「大佛陸奥守(貞直)跡」がそれぞ れ区別されて意識され、また処分もされたことがわかる。ただし大佛維貞自身は 内乱以前の嘉暦二年(1327)に死去している。それにもかかわらず、建武の 段階でも依然「維貞跡」とされている。子の家時らに相続されたもの=大佛家の 家の所領と、そうでないもの=未処分地があったのだろうか。怡土庄の場合も 「維貞朝臣跡」とあるから未処分地であったものか。幕府が倒れずに存続してい たならば、得宗が処分しえたはずのものと考えられる。その意味では、広義の 「得宗領」ということになろう。くりかえすが狭義の「得宗領」ではない。 さて以上の概要を念頭に置きつつ、以下ではこの庄の小地頭、中村氏の所領の ある高祖村を中心に、中世の景観を考えることにしたい。  中村氏は一字名を名乗る源氏であり、松浦党の一員であった。元徳三年(一三 三一)松浦寒水井氏の相続に際し、幕府は中村弥次郎続に「當知行の段」「支申 す仁の有無」について照会し、返事を起請文の上に書くよう要求している。起請 には普通血判が必要だった。起請(血判)をせよという指令は当事者に近かった が故であろう。中村氏は松浦寒水井氏とは血縁、または地縁いずれかで緊密だっ た。寒水井(しょうずい)は双水(そうずい、SYO音とSO音の混同、庶子を 「そし」と書くのに同じ)に比定される。  康永元年(一三四二)佐志勤譲状(有浦文書、以下も同じ)には「佐志村内満 越・寒水並黒崎」とある。今日の唐津市佐志と双水は必ずしも隣接しているイメ ージはないが、中世には佐志村の内に寒水(寒水井に同じか)があった。つまり 寒水井氏は佐志氏の庶流である。その寒水井氏と怡土庄中村氏は血縁があったと 考えられる。つまり中村氏も佐志一族である。仁治元年(一二四〇)、肥前国 「佐志」増が勝訴した怡土庄「篠原」・「安恒」両村に関わる文書を、案文とは いえ、中村氏が伝来してきている(広瀬文書)。中村氏が佐志氏の一族であった が故であろう。  建武二年(一三三五)筑前国御家人松浦一族中村栄永は「松浦寒水井八郎、同 中嶋孫次郎、当国(筑前)篠原河尻九郎等」とともに、軍事行動をしていた。中 村氏、寒水井氏、篠原氏との同族結合がこの段階でも維持されている。篠原とは もちろん、仁治に佐志氏が勝訴したところの怡土庄内の篠原村である。貞和二年 (一三四六)の松浦一族による河副庄孔子配分には「佐志源三郎披」「佐志源次 郎成」「中村四(松)九郎直」「篠原次郎四郎増」「寒水井栗田四郎□」「寒水 井彦次郎納跡」等が登場する。佐志一族に中村の苗字がみえている。貞和の頃の 怡土庄中村氏の当主は「弥五郎勇」であり、「九郎直」の名は怡土庄には見いだ せないが、この佐志氏流の中村氏の一流が、怡土庄に進出していった中村氏だと 考えたい。ほかに有浦文書には建武三年(一三三六)に「安恒九郎四郎定」の名 もみえる。これも先の怡土庄安恒に相違ない。 永仁五年(一二九七)中村続と怡土庄末弘名をめぐって相論した伊田原二郎馴 は、怡土庄志摩方の井田原を苗字とした武士で、のち至徳四年(一三八七)に松 浦有浦女地頭がこの筑前国井田原の地を今川了俊に安堵されている。そのことか ら伊田原氏もまた佐志・有浦一族(氏女<有浦女地頭>は系図では佐志披の孫) と見なしうる。そのことについては既に先学の指摘がある。松浦党佐志(有浦) 一族には篠原、安恒、伊田原など筑前怡土庄内の地を苗字とするものがいた。中 村氏の苗字の地は不明であるが、有浦文書中に「石志中村」ある。すなわち「相 知村内面々相伝系図」に「石志中村七郎跡」「中村次郎左衛□跡」とみえる。石 志は双水とも近接し、二キロ弱。中村氏苗字の地はそこかもしれない。佐志篠原 氏や佐志安恒氏の祖は、佐志増の妻日下部氏の所領を継承する形で怡土庄に入部 した。日下部姓は怡土郡の郡司系官人(康和五年、長治二年<1103、05> の権大掾や図師・判官代)の苗字である。松浦党佐志一族であった中村氏も同様 な形で怡土郡に移住していったものであろう。 *なお長沼賢海『日本海事史の研究』所収の「諸氏の松浦党化」(初出は一九五 七)は「中村氏は本来の松浦党にはあらず」とする説を展開する。しかしながら その根拠となった志登社神宮寺別当職および寺田の相伝に関しては実は売買や質 入、相論による流動性が著しく、血縁による継承はほとんどなされていない。長 沼氏は中村氏が伊勢永経に始まり智音<永経の子>の子が中村栄永であると考え、 立論されたようだが、根拠はない。仮に栄永が智音子であったとしても、女婿と して怡土庄松浦党中村の家に入ったはずで、家は連続していた。中村氏は弘安五 年(一二八二)には「怡土庄中村源四郎」といわれ、また「源四郎勝」ともある。 源氏の一字名だった。正応六年(一二九三)には源続(中村弥二郎)を名乗って いる。松浦郡が本貫地である可能性は大で、松浦党と考えるのが自然である。 条里(図里)坪付による耕地の復原 (1)先学による図里復原の正しさの証明  糸島平野に広がる怡土郡条里(*筑前では条と里ではなく図と里による表記を 採用している。以下条里ではなく図里という)に関しては長い研究史があり、下 記の文献をみる。 是末茂男「怡土郡瑞梅寺川の条里遺構」(『糸高論集』2、1950) 日野尚志「筑前国怡土・志麻郡における古代の歴史地理学的研究」            『研究論文集(佐賀大学教育学部)』20;(1972) 正木喜三郎『太宰府領の研究』(1991).  従来の図里比定の根拠をみると、図里の阡陌線は井田、末永周辺の坪名を示す 小字(一の坪、三の坪、六の坪など)によって復原されている。この復原は決定 的で今後も動くまい。次に図里の具体的復元、何図何里がどの位置に当たるのか は、図里記載(何図何里何の坪)とともに記された中世の地名をもとに復原され ている。すなわちその内のいくつかが今日にも現存しているからである。  今日の地名と一致するものとして、まず是松茂男氏があげられたのは高祖、大 門のコフカタ(小深田)と上川原(地形)の二つだった。すなわち 五図二十四里七の坪 コフカタ 同 八の坪 カミカワラ である。日野尚志氏の場合、このコフカタに加えて中薗、そして遠方の夏目を根 拠とする。すなわち 六図二十三里三十三坪 中薗 四図十八里二十六坪  棗(*クサカンムリに束を二つ重ねる;なつめ) である。二例が加わったが、文書に記された多くの小字については「他の小字名 は現存の小字名と全く異なっている」とされた。本当だろうか?地名はもっと残 るはずではなかろうか。  先学の研究では末永名のあった二図二十五里、三図二十三里、三図二十四里が 末永の周辺に復原されている。末永周辺の整合性からも大筋は正しいはず。私は 現地調査の結果、図里復原に関して追加できる小字および小字以外の小地名とし て以下のものを高祖、大門地区で検出した。  --タナカ(俗称)、オチアイ(川原<コウバル>川、赤崎川の合流点を今日で もオチアイという、この点は正木論文も指摘)、シモノクホタ(小字久保田)、 六ノツホ(六の坪の位置を今日でも小字六の坪);以上の2例は従来の史料集が 変体がなの「ホ」の字を「ロノ」と読み誤っていたもの。飯ツカ(井堰の名とし て周知されている。実際は飯塚井手の灌漑範囲にイイヅカという地名があって、 塚がたくさんあった場所。  少なくとも以上5事例は追加できた。すなわち 四図二十四里二十八坪 飯ツカ 五図二十三里二十二坪 ヲチアヒ 同 三十五坪 タ中 六図二十三里三十一坪 シモノクホタ 六図二十四里六坪 ロクノツホ  以上図里とともに記載された地名の検出によって、図里界線の比定は、ほぼ決 定的になったといえる。  つぎに復原の妥当性を確認するため、川成の位置を検討してみた。いずれも川 成は川の近くに比定される。ただし今日の目からみると驚くような小河川ではあ るが。  以上の補強作業の結果、先学の図里復原の正しさを証明できた。譲状の図里記 載は信頼して現地に落とせる。 (2)譲状・坪付にみる小地頭の所有する耕地群 怡土庄は荒野ばかりだったのか 恒吉名主中村氏が残した譲状が二点と、関連する坪付が二点ある。 (1)弘安9年(1286)沙弥正妙大間状 (2)正安4年(1304)大間帳 (3)年欠断簡 (4)年欠断簡  (1)から(4)までの各耕地は、いずれも各筆が対応し、同一の土地を記し たものである。つまり(1)と(2)の筆の詳細な説明が(3)(4)である。 これらにより恒吉名主中村氏の所有する耕地、自身の屋敷、一族の屋敷、地頭給、 天神田、井料田のあり方が分かる。坪付自体は断簡でもあり、欠損も多い。しか し計算はかなり正確だ。信頼を寄せたい。(2)にみる耕地群はきわめて散在的、 断片的。斗代も低く(0.5、1、1.5、2斗代)、くわえて(3)(4)の詳 細をみると川成など荒野が異常なまでに多い。正木論文は「怡土庄恒吉名の景観 は、川成と常荒、不作の中に田地と白地が散在している荒涼たる状況」だという。 本当だろうか? (3)(4)をみると「已川成、已野成」。全部が川になったり、野になったり。 そんな土地だという。こんなとこ、もらってうれしいのだろうか、という土地ば かり、作があっても一丁に対し作百五十歩、つまり4%しか田ができないところ もある。もちろん「已川成」であれば0%;わざわざ譲状に書いて後生大事に保 存するのだろうか?本当に生産力のない無価値の土地ならばなぜそれを子孫に伝 え、財産目録に登記したのだろうか。以下では「直訳歴史学」ではなく「ひねく れ歴史学」をめざすこととする。  つまりなぜこうした文書が作成され、保存されてきたのか。その文書作成の理 由を考えることが、正解をうる近道になろう。その理解が出発点。そこでもう一 度これらの坪付の特色を列記してみる。 坪付の特色 (1)低斗代であること。一般の新田斗代(人吉庄であれば上田三斗、中田二斗、 下田一斗)と比較してみると領家年貢であり、かつ新田年貢であることは確実と いえる。 (2)二種の損免;川成と常荒、不作;その残に対してさらに得田と損田。 (3)譲状では田地、それが坪付では「白」(畠)とされている(あるいはこう したことが低斗代の根拠になっているのか)。 (4)検注された面積に対する不作の占める割合が極端に多い。全体では十四町 五反に対し作田二町六反三百歩。これは18、5%という低率。ところがこれが さらに損免検見を受けて損田が計上されている(集計部の断簡による)。この二 次損免の比率は得田5.4対損田4.6。最終の得田は一町九反八十歩だから、全 体十四町五反に対して13、3%の得田率となる。これらの田にかかった所当は 三石七斗強。そのなかで佃所当(*佃には普通損免はない。ここでの斗代は一石 一斗五升でおそらく定斗代である。つまり面積も斗代も決まっている固定年貢だ った)、また庄用所当など、かけひきのしようもないもの(領家代一度検注の段 階で固定的に定められたもの)だけの数字で一石八斗近くあって、すでに田畠か らの名主負担額の半分に達している。値切れるものは目いっぱい値切りきった結 果の数字である。  川成・常荒・不作。怡土庄では小検注の結果の作田にも検注(損毛検見)がな され、さらに損田が計上される。おおまかにいえば領家代一度検注で認められた 川成・常荒・不作は多少数値は変わっても免租地としての扱いが継承されていく (たとえ作田となっても事実上開発地におなじとされたのだろう;開発されても また荒廃しやすく再開発費も莫大にかかると言う理屈でもある)。  検注の仕組み 京都から検注使(水田の面積を決定し、年貢を決定する使い)が くるとどこの荘園でも最初の三日間は三日廚、その後の滞在期間(全体で十五日 ぐらい)は平廚という盛大なる接待を行った。手心を加えてくれと言うわけで ある。接待はごちそうだけではすまなかったかもしれない。また勘料といって検 注 をせずに金を支払って済ませることもあった。まったく何をしにいっているんだ か、わからない。京都の荘園領主(仁和寺)にとってはさほどメリットはないが、 現地に赴いた検注使たちはたっぷりいい思いができたかも。もちろん検注使もあ まりめちゃめちゃをすれば改替、つまり首。双方のほどほどのなれ合いの結果が 新たな検注帳(土地台帳)に書かれた数値だった(宝月圭吾「中世検注における 一、二の問題」<『信濃』10ー5、1958>、「庄園における検注使の生活 実態」<『信濃』37ー10、1985>ほか)。  我々が検討してきたこの坪付は、領家に対して中村氏が有する土地(恒吉名) が免租地であることを認めさせたその記録である。その点にこそ名主であり、地 頭であった中村氏にとっての価値があった。財産として文書に記されたのはそれ 故にである。  *台帳(検注帳)自身は政所<多分今津;嘉禄二年の史料に「(今津宮)社殿 を政所近辺に建立」とある>にあったから、これをもとにいつでも照合できた。  ただ負担はこれだけではなく、さすがに交分延米など付加税的なもの、一石六 斗強が加算されたらしい。ほか田付布(代銭納)もあった。  楽観的に過ぎるかもしれないが、もし十四町五反の三分の二が満作され、仮に 反当三俵(一石二斗、かなり低めに見たつもり)の収量があったとすれば、百十 六石。恒吉名々主中村氏は名主として大半を手に入れることができる。生産者の 取り分ももかなりあったはずだが(おおめにみて生産者、散田請作者の取り分が 六割としても五十石弱が名主の取り分、実際は下人所従の耕作分も多く、これは 名主分になる)、全体に対する領家年貢が五石強。重税感はなかったろう。これ が駆け引きの成果だったならば、中村氏はほくそえんだかもしれない。 小地頭中村氏の像  恒吉名主(小地頭)中村氏について。彼は多分肥前あたりに本拠を持つ新入の 地頭だろう。瀬野精一郎『松浦党関係史料集』は中村氏を松浦党としている。も っとも松浦党も早くから怡土郡には入部しているから、その縁者かも知れない。 中村氏は御家人だった。だから単なる名主ではなく小地頭である。少ないながら も地頭給(二反半)を一族で配分してもいる。  彼の所領には天神田一反、井料田三反があった。一見すると免田にしては小面 積だ。中村氏は元来の村の祭祀や村の再生産・勧農行為に関わる免田全体のどれ ほどの割合を所有していたのだろうか。その比率によって中村氏が村の祭祀、勧 農にどの程度まで関わっていたかが推測できる。見通しとしていうならば、面積 は少ないが、免田を相続している以上、過半の責任を負っていたとみるべきであ ろう。村内の神社の規模、用水の規模が小さければ、この程度で全部であったか もしれない。中村氏は高祖村における祭祀、勧農の中心的人物だったともいえよ う。名主百姓クラスのうえに位置していた。  もっとも彼の軍勢と称するものは、馬に乗って参戦するものはたったの三人。 地頭とその弟と、若党一人。鎧を持っているものは一人、腹巻が一人。あとは武 具なしで、歩兵は七人いた<この注進文書・年欠中村続軍勢注進状案は下欠だが、 二段書きの上段で終わっているから、ここで記述は終わるはず>。彼らは傭兵か。 どうやらふだん彼の館に住む若党はたったの一人ということになる。  さて彼の所領のある高祖村は、古代怡土城の所在地。西に隣接する郡里は郡衙 推定地。古田である優良耕地には古代官人勢力につながる在来勢力(名主百姓) がいたはずである。譲状にみる中村氏の所領の中心はいわゆる荒野、新田。もし 中村氏が新入ではなく在来の領主だったとしても、古代以来の主流の位置にはな かっただろう。主流派が押さえていた土地には新たに入っていくことはできない。 川の近くなど確かに当時不安定だった耕地に依拠せざるを得ない。しかしそこは 事実上の免租地。多くの地頭たちが、開発領主として低年貢の荒野、新田(開発 地)を地盤としたように、中村氏も年貢の負担のない「川成」と呼ばれたところ を地盤とする。地頭館の周辺を流れる周船寺川(前川)は小河川。一時的な溢水 はあっても致命的なダメージは受けない。生産力が期待できる。汐井川は等高線 を引いてみれば確かに小扇状地。河道は動きやすかったかもしれないし、周辺に 川成はあっただろう。だが本来の河川敷を含め文書上の「川成」すべてが川にな ったとすれば、川幅が異常なまでに広くなりすぎる。本当は耕地であったことは いうまでもない。「川成」のなかには四図二十四里十五坪、二十二坪のように、 現在は微高地で、「川成」になるなどとは想定しにくいところもある。  また「白」(畠)とはあるが溝代の記載にみるように用水は引かれている(今 日の汐井川にはおりくち井手、後川井手、他多数の井手があり、その原形)。年 貢を計算する上では畑地扱いに準じていたが、実際は水田だったはず。従来の古 田の周囲、開発から取り残された地域に土木技術を導入、安定耕地化を進めてい く。マイナスをプラスに変えていくパワーをそこにみたい。 むすびにかえて  怡土庄故地の現地調査はわれわれに多くのことを教えてくれた。中世武士団の 実像を、現地を通して模索することができたと考えている。実は文学部演習では 高祖周辺に限らず、糸島地域全域を対象とした現地調査を継続して行ってきてい る。レポートを読む限りは多くの新しい知見が得られているようだ。この調査全 体を成果として公表できるよう現在準備をすすめている。最後にともにヂスカッ ションを行ってきた演習参加の学兄姉に感謝したい。 参考資料;高祖村の井堰名や地名 汐井川の井堰 かわら井手、中井手、うしろがわ井手、 コフカタ井手、ごうさ井手、 しおいがわいで1、しおいがわいで2、あきさんいで、つっとおり(つっとり) やとうご、おりくちいで1、おりくちいで2、まえだいで、ふくまるいで、なか がわら井手、榎木町井手、こじろし、つるがしら、したおおはし、うえおおはし、 さかもといで、さかもといで、いいづかいで、しょうやだいで、くるまいで、の ぞい、くちわり、やまぐちいで、こんごういで、一番井手(ながすえ井手)、 みだの谷(御田川);なかがわら井手、 椚の地名(字以外) 石谷、いらだに、流れだに、かりまた、しょうぶだに、かっぽうだに、おくのむ た、つかのした、よろいだに、 高祖の地名(字以外) デッポウ、イセキド、カサマチ、(以上は字屋敷の内のなか) クズマチ(榎木町のなか) イイヅカ タナカ コキド、オオトリイ、伊勢の山、 ゼンジョウジ、オオカイジ、ホッタ


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