弘安九年の大唐国軍人何三於と播磨国印逹北条天満宮について

「蒙古襲来と神風」で弘安九年の大唐国軍人何三於が 補整(寄進と同義)した大般若経を紹介しました。この経 巻はもともと播磨国印逹北条天満宮に所蔵されていたも のです。 何三於は弘安の役の捕虜であると考えています。 鎌倉幕府は捕虜から最新の元の軍事技術を学びたかっ た。硝石さえ得られれば火薬は作ることができる。彼らを 通じて中国大陸から硝石を調達する方法をさぐろうとした のではないでしょうか。 ところでなぜこの経巻が播磨国印逹北条天満宮にあっ たのか。播磨惣社の正式名称は射楯兵主神社で射楯(いたて)が 印逹に通じ惣社の一帯のようです。 広峰文書・応永21年12月8日赤松義則寄進状の中に 在所 平野北条 八本松三段 国衙庁作     印逹北条 天神西二段 同前 とあります。印逹北条の天神ですから、まさしくこの天満宮。 その周辺には国衙在庁の土地があったようです。 その播磨の弘安四年から七年までの守護は異賊防禁の 指揮をした北条時業(のちの兼時)。 なるほど幕府方の指揮官のもとに蒙古方の捕虜が預け られ、その管国の国庁近くに居住させられた。そこで厚 遇を得て、弘安九年には大般若経を国衙官人たちととも に寄進したということのようです。おそらくこのあと播磨国 守護は六波羅北方の兼務になっていきます。
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