解説(石井進の旅と歴史学)
(一) 学問と旅の軌跡
 石井進は旅する歴史家だった。旅は石井歴史学の全てではないかもしれないが、
最も重要な骨格である。本巻には、現地にたって中世史群像をみつめた論考を集め
た。中世史を歩き続けた石井進(以下「先生」とする)の足跡を、最初にたどって
みたい。先生は早い時期から、現地・むら・ひとに深い関心を寄せていた。いまで
は有名なエピソードになった中学生(旧制、高校生)時代の多摩丘陵の村での聞き
取り体験、柳田国男私邸での研究会報告はスタート、原点に違いない。柳田国男最
後の弟子と評する人もいる。この柳田研究会には歴史研究者の参加もあって、中世
史研究者である渡辺澄夫氏の発表(のちに「九州地方のヒカリについて」として『民
間伝承』一四の六、一九五〇に掲載)を、高校生の石井進が聞いていた。
 昭和二五年(一九五〇)大学進学後、東大駒場の歴史学研究会に所属した。のち
の映画監督山田洋次氏(法学部)、東洋史家池田温氏、近世史家大野瑞男氏らがい
た。この研究会は実践活動を重視していたと考えられる。自身作成の年譜によれば
「歴研に籍はおいたが、あまり積極的には活動せず」とある(『私本塵芥集』、非売
品として一九九二刊)。「活動できなかった」ということであろう。柴田翔『されど
われらが日々』は「当時学生の間でも最左翼として知られていた駒場の歴研」と、
六全協(一九五五)後の挫折を舞台装置とした創作である。柴田氏は先生の五年後
輩である。先生が在学した駒場はまさしく学生運動の高揚期であった。青年石井進
も、朝鮮動乱後の政治情勢や思想潮流から大きな影響を受けた。当然それなりの問
題意識を持って入部したはずである。一度だけだが興に乗った先生が、「保安隊す
りこぎ歌」を歌った。戦争を放棄したはずの日本が、旧帝国職業軍人を再雇用し保
安隊を創設、再軍備を始めた。(自衛隊の前身、一九五二−五四)。揶揄する戯れ歌
が仲間うちで歌われていた。
 海老澤衷氏(早稲田大学)は奥多摩・棚沢(東京都西多摩郡奥多摩町)の出身で
ある。それを知ったときの先生を鮮明に記憶する。先生にとって、あきらかに「棚
沢」は格別な意味のある地名であった。海老澤氏の記憶によれば、棚沢の奥、山の
上の方にこどもたちに紙芝居をみせ、勉強を教えてくれる学生たちがいた。遊びに
行く児童もいた。すなわち棚沢は山村工作隊の一拠点であった。「国民的歴史学運
動」「山村調査」らの運動に「敢然と参加していったすぐれた友人たち」のことが
『日本中世国家史の研究』序章に記されている(本著作集1)。おそらくは周囲に
棚沢を志向した先鋭的な学友がいたのであろう。山林地主への「盗伐闘争」やその
支援行動も行われていた。だが先生には闘争に向かう友人たちへの完全な共鳴はな
く、むしろ距離があった(『中世の村と流通』における網野善彦氏との対談、本著
作集四・月報、保立道久氏の記述)。「事実への尊敬の念を欠く主観主義」「敵か味
方かの二者択一」への疑問は次第に強くなる。理論との合致が要請される「歴史」
ではなく、事実そのもの、事実の探求を重んじる姿勢は生涯を通じてかわらぬもの
であった。
 国史学科への進学と中世史専攻を選ぶに当たっては、石母田正『中世的世界の形
成』の強い影響力があった。伊賀国黒田庄を舞台に中世の人々の葛藤、そして成長
を描いた作品である。「高校時代、本書を手にしたときの感激がなければ、日本中
世史を専攻することはなかったと思う」と記されている(『私本塵芥集』六六頁)。
卒業論文のテーマは当初、伊勢神宮を考えていた。一夏、神宮文庫に通ったと聞く。
本著作集五巻月報の須磨千穎氏の回顧によれば、伊勢国の荘園研究を考えていたと
いう。やはり地域に密着した歴史(荘園史)を考えておられたのであろう。荘園へ
の強い思いはあったが、方向を転換(おそらくは神宮関係の史料が膨大にあって、
しかもほとんど活字化がなされていないという史料の状況からだったと思われる
が、未詳)、大宰府と鎌倉幕府の関係をテーマとし、さらに修士論文は国衙と鎌倉
幕府の関係としたことは本著作集で周知の通り。こうした関心の推移、政治制度へ
の傾斜のなかで、旅、調査、聞き取りから歴史像を復原する作業は、一見すると遠
のいていたかの感もある。しかし実際には卒論を公表したその年に、宗像社領にお
ける在地領主法を通じて、領主と民衆像を描き出した論考を『中世の窓』に公表し
ている(同上収録)。上記著書において「上からの権力」「下からの権力」と表現さ
れているが、「下から」こそが、つねに伏流にあった在地(現地)への関心である。
「下からの視点」は潜行ばかりしていたわけではなく、ときに顕在化した。『中世
の窓』には「惣領制の成立は平安期にさかのぼりうるか―長寛三年清原兼次譲状の検討」
(同上六、本書未収録)など、おりに在地への関心が綴られた。
 一九六〇年四月、東京大学史料編纂所・古文書室に勤務。この六月、研究室の後
輩である樺美智子が安保反対・国会デモの中で死んだ。
 一九六一年四月には薩摩国入来院調査に参加。入来院文書は朝河貫一による英訳
によっても知られ、中世武家文書の代表格であった。永原慶二「中世村落の構造と
領主制」(『中世の社会と経済』一九六二、二)のあとがきによれば、昭和三五年度
科学研究費によって、入来出身古川常深氏のほか関口恒雄氏、そして両先生の四人
による調査で、現地では入来町長松下充止、入来町史編纂主任本田親虎両氏の協力
を得たとある。石井先生は「わたしにとって最初の調査だった」と記している。現
地そのものの調査であり、現地で研究する人との交流があった。このとき以降本田
親虎氏との親交が続く。本田氏はのちに『近世入来文書』(一九八一、阿部善雄氏
と連名)を編纂する入来在住の歴史家だった。石井先生は地域に根付いて研究を続
ける人たちを尊重し、その影響も強く受けた。調査に対する先生自身の回顧は本著
作集五の解説に引用されている(三五九頁)。
 永原先生はつねづね「入来に行って、現地の景観やらよく残っていることにも感
動したが、なにより驚いたことは石井くんの博覧強記、文書の一言一句、何からな
にまで、頭に入って整理されていること。あれに一番驚いたね」といっておられた。
編纂所勤務で島津家文書の編纂を担当されていたから、入来院文書については当然
に丹念にみておられたであろう。現地調査に当たっては再度、諳んずるまでに読み
込まれたと考える。石井先生のほうは「入来から帰って、永原さんがあっという間
に論文を発表したことに驚いた」といっておられたが、それは後述する。石井先生
の調査成果が発表されるのは、一〇年ほど後のことである。永原論文は現地の情報
が村落像構成におおいに貢献することを明らかにした。永原論文以降、荘園研究に
現地調査が不可欠になったともいえるだろう。

 史料編纂所は毎夏、京都・醍醐寺での史料調査を継続していた。宝月圭吾・稲垣
泰彦・弥永貞三・永原慶二・笠原一男らが参加していたが、宝月先生の提案で佐和
隆研氏(美術史)、谷岡武雄氏(地理)、日下雅義氏(地理)、須磨千穎氏らが加わ
った学際的な荘園調査が行われ、醍醐周辺の山村である山城国笠取庄、別の年には
京郊・山科の調査を行っている。この調査については「中世荘園のあとをたずねて」
「寶月圭吾先生をしのぶ」(ともに『私本塵芥集』一九九二所収、本書未収録)に
簡単な報告がある。このときに収集された地籍図類、写真は東京大学史料編纂所に
稲垣泰彦氏資料として保存されている。宝月・稲垣先生らの現地調査方法、地理の
谷岡先生の方法から多くを学んだとある。
 一九六三年には「『政基公旅引付』にあらわれた中世村落」が『中世の窓』廃刊
号となる一三号に掲載された。京都の貴族が和泉の寒村に行き、三年を暮らして詳
細な日記を残した。中世の村のようすが詳細にわかる、この『政基公旅引付』の刊
行(宮内庁図書寮叢刊。刊行奥付は「昭和三六年」つまり一九六一年)は学界に衝
撃を与えた。刊行されるや否や、三浦圭一氏の案内で佐藤和彦氏、稲生晃氏らとと
もに現地を訪れる。『旅引付』の豊富な記述とあいまって、現地から得られた情報
が多かった。
 二〇代、三〇代を通じて、旅は継続され、村の生活への関心も継続されていた。
当時は気のあった友人と調査に行くことが多かったようである。同じ場所に何度も
行き、同じ人から何度も話を聞き、同じ宿に何度も泊まった。やはり近郊・関東が
多かった。文書所有者のお宅を訪ねて、あわせて現地を歩き、お話を聞くというス
タイルが多かった。とりわけ常陸国が多く、真壁郡や霞ヶ浦周辺が好フィールドで
ある。先生の回顧によると、真壁の場合、同行されたとある方は石田祐一、内田(高
田)実、宮田登、たずねたとある方は大関さた氏、塙世・榎戸氏、長岡ゆう氏、泊
まったと名前のある宿は大関旅館、橋本旅館、伝正寺温泉桜井館などである(石井
進編『真壁氏と真壁城』に収められた記念講演「真壁城跡の国(史跡)指定に寄せ
て」による、本書未収録。なお榎戸氏とある人物は惇一氏にちがいないが、当時所
在したとある室町期の伏見院領目録は『茨城県史史料』『真壁町史史料』ともに未
収録)。旅行嫌いなはずの笠松宏至氏もそうした旅には加わっていた(本著作集五・
月報)。
しかし現地調査の軌跡が活字となって報告されることは意外に少なかった。三〇
代まではそうした調査成果を論文にされることには、どちらかといえば禁欲的であ
った。昭和四二年(一九六七)、先生は三六歳の時、史料編纂所から文学部勤務に
変わった。以降は学生と一緒の調査が増えた。フィールドは関東近郊が多かった。
「東京に比較的近く、まとまった中世文書があって、中世以来の史跡や景観も残っ
ているところの見学旅行」とある。千々和到氏の卒論のフィールドである飯能市中
山智観寺ほかの板碑調査(昭和四六年)、常陸国府調査、行方・芹沢文書調査、鳥
名木文書調査、真壁長岡文書調査、筑波水守営所、そして鎌倉などは当時学生であ
った編集者も参加する機会を得たものである。当然のことながら事前の先方への連
絡など綿密な準備がたいへんだったと思われる。このあと昭和五〇年には二泊三日
で福井県への旅行もあって、先生は年譜(前掲『私本塵芥集』)で「もっとも「教
育」に熱心だった時期」としている。
 蓄積されていた豊富な調査成果が、一気に花開いたのは、『中世武士団』(一九七
四、小学館、「日本の歴史」)によってである。この名著は、いまでは文庫本(一九
九〇、小学館・「社会史の集団」)にもなっており、入手しやすい書物であるから、
本著作集への掲載は見合わせたが、石井進の歴史学と現地の関わりを考える上では
欠かすことのできない著作である。
『中世武士団』の中で鳥名木文書の伝来者・所有者との交流が紹介されている。
最初は昭和四七年学生との調査だった。鳥名木家には文書箱があった。鎧櫃を兼ね
たもので、背負うことができる。鎧と文書こそが火急の際に持ち出すものであった。
そのなかに軍陣長襦袢も収納されていて、縫い目には八幡、鹿島、賀茂、貴船、稲
荷などの守護神の名前が書き上げてあった。出陣時にはその長襦袢を着用して矢の
当たらぬよう武神に祈ったのである。神々は鳥名木家の屋敷神でもあって、鳥名木
館の四周にもその神々が祀ってあった。中世武士の家風をよく伝える家といえ、中
世がまさに息づいているお宅であった。鳥名木家調査には編者も同行を許された。
一年後先生は一人で再度鳥名木家を訪問された。そのとき鳥名木家のおばーちゃん
から、ご子息の交通事故の話をきかれたようで、先生には慰める言葉もなかったよ
うだった。歴史の調査が遠い昔のことだけではないということと、人間の関わりの
大切さをみなも学んだ。
 入来院での本田氏との例のように、やがて各地研究者との交流が盛んになった。
安芸国沼田庄、備中国新見庄、信濃・越後の各地域、国東半島での調査が進むなか、
地域に密着するタイプの研究者を特に大切にされた。初期の研究者仲間・友人とと
もに行う調査から、次第に現地研究者との共同研究のスタイルに移行していった。
都会に住む研究者の短期間の調査に疑問を感じ、不信をいだくという発言もある
(「荘園景観復原研究の課題」『九州史学』一二〇・一九九八、本書未収録)。若手研究
者との交流にも積極的で、山梨県の甲斐丘陵考古学研究会の現地見学や、中世城郭
研究会の城郭セミナーなどによく参加されていた。
 備後国太田庄調査は田中稔氏、水藤眞氏が主催された国立歴史民俗博物館共同研
究(中世荘園の現地調査と記録保存法の研究、昭和五六〜六一、一九八一〜八六)
への参加が契機であろう。大分県教育委員会による国東半島荘園村落調査は当初海
老澤衷氏、のち飯沼賢司氏らが主体となっての調査だった(昭和五五年から、当初
は田染庄、都甲庄、香々地庄など)。それへの参加によって、国東半島への訪問回
数が増えていった。また『神奈川県史』『千葉県史』『静岡県史』『山梨県史』など
自治体史編纂に参加、その過程で行われた調査も多かった。本巻にたびたび登場す
る新見庄故地在住・竹本豊重氏と出会ったのは昭和五八年、松本での地方史研究全
国大会においてで、以後新見にはたびたび個人的に調査に行かれている。竹本氏は
祖母に育てられて、山間の貧しいむらにおける伝承の語り部であった。先生はそう
した伝承にも多くの関心を寄せておられたが、その部分は記録になってはいない。
昭和五七年から六〇年にかけて、史学会大会シンポジウムで現地調査、村落景観、
遺跡遺物をテーマにとりあげられたことも特筆したい。
 昭和五三年以来、文化庁の文化財保護審議会専門委員(史跡部門)も務められた
から、文化庁からの調査が契機となって、各地の教育委員会が文化財保護のため、
先生の指導を求めることも多くなっていった。北海道上ノ国勝山館跡、越前一乗谷
朝倉氏館跡はその代表的なものである。熊本県玉名郡三加和町にある田中城(和仁
城、のちに国指定史跡)へは指定以前からしばしば足を運ばれていた。竹崎季長研
究以来、熊本県とは九州高速道建設に関わる球磨郡山江村山田城の発掘調査指導な
ど、関係が深かった。三重県南牟婁郡紀和町には赤木城という城があって、小規模
ながら中世から近世に移行する過程をよく示す城跡として平成元年(一九八九)国
指定史跡になっている。東京から片道八時間はかかる奥熊野の村に、保存整備委員
会の座長として出かけられてもいた。この城跡の近くには丸山千枚田というみごと
な棚田がある。先生は棚田につよい関心を示された。
 公務の方は殺人的に忙しくなっていった。とくに一九九三年、国立歴史民俗博物
館々長に就任以後は多忙を極めて、自由な調査時間は確保しづらくなっていったが、
歴博主催の調査、たとえば津軽十三湊や紀伊国隅田庄荘園調査などに主体的に関わ
った。
 多忙の中をぬって、『みすず』連載の「たたみなす風景」のように、旅の記録は
継続されていた。連載の最後となった下総国千田庄の記述は先生自身の語りという
よりは、お話を聞いた話者(ものしりな老人たち)の語りになっており、柳田門下
として出発した原点にたち返ったかのごとき感がある。
 高知県高岡郡檮原町が全国に先駆けて棚田保存のための集会を呼びかけて、国立
歴史民俗博物館員の参加を要請してきた時には、みずから参加を表明された。一九
九九年に初代棚田学会会長に就任された背景にはこうした経過がある。棚田は多く
が近世末期の造成(耕地整理)で、中世史研究に直接結びつくわけではないが、農
民が残した土地に刻まれた貴重な文化遺産であった。棚田学会の見学例会はできる
かぎり時間を作って参加されたようであり、急逝された次の日も新潟県東頸城郡安
塚町(現上越市安塚)での棚田見学会が予定されていた。
 石井進の旅を駆け足で考えた。以上を前提につぎには本書収録の論考に簡単に言
及する。
-------------------------------------------------------------------------
(二)本巻所収論考の解説

(以下省略)

一覧へ戻る