伊良原正誤表 179頁21行 また位署者の中に大分宮の神官が多数いる。これは筑前国穂波郡大分宮であろう。 宇佐八幡の五別宮の一つとされ、石清水八幡の末社でもある。位署者の前段では まず十二人中八人まで、大半が宇佐宮関係の人物であることがわかる。次に橘宮 であるが、 → また位署者の中に大分宮の神官が多数いる。これは筑前国穂波郡大分宮であろう か。宇佐八幡の五別宮の一つとされ、石清水八幡の末社でもある。もっとも豊前 管内の行橋市稗田にも大分八幡社があるが、旧京都郡で仲津郡ではない。いずれ にせよ宇佐社に関連することはちがいない。こうして位署者の前段ではまず十二 人中八人まで、大半が宇佐宮関係の人物であることがわかる。次に残る四人につ いて。まず橘宮であるが、 179頁27行 (誤)護得庄については未詳だが、筑前国鞍手郡、今の小竹町御徳周辺にあった 荘園であろうか。沿革不明で宇佐宮との直接の関連は分からない。おそらく頼源 の縁者がいたものか。大分も御徳も仲西郷、つまり今日の犀川町からは30キロ メートル弱の距離になる。国境は越えるが、大半の人々が宇佐宮との関係で深い つながりがあった。 → (正)護得庄は犀川町山賀の宮田に五徳宮(みやださま)の旧社地といわれる場 所があり、そこを中心にして、いまの五徳の集落にかけての一帯であろう(1999 年の発掘調査で錫杖鋳型が検出された宮田遺跡がある、付近には細工殿地名もあ った)。 このように位署した一二名は宇佐宮そのものの人物も含めて、宇佐と深いつな がりがあった。宇佐宮御馬所の所在地や弥勒寺権都那の実際の居住地はわからな いが、大分・護徳・橘社は近接しており、彼らも含めて居住区域が近接していた 可能性もある。 180頁5行 (誤) 次に天台山二宮だが、そこの御油(所)検校を勤めていた頼源が仲西郷に 居住していたことが大きな手がかりになる。二宮は彦山ではないか。 彦山と比叡山 延暦寺との共通性・一体性については川添昭二・広渡正利編『彦山編年史料・古 代中世編』517〜18頁に詳説されている。堂の名や地名に著しい共通性があ り、伝教大師御忌を彦山の年中仏事として執り行ってもいる。また比叡山僧の彦 山参詣、木練上人の阿蘇登攀記事中に「比叡山座主良源」の名が登場することな どが指摘されている。仲西郷周辺で比叡山に特に深い関わりを持つのは彦山以外 にはない。ここでは彦山が天台山の二宮と位置づけられていたと考えておきたい。 → (正)次に天台山二宮だが、そこの御油(所)検校を勤めていた頼源が仲西郷に 居住していた。二宮は比叡山山内の宮と考えれば、その二宮の荘園でえある御油 所が仲津郡近在にあったことになる。あるいは彦山そのものと考えることもでき る。彦山と比叡山延暦寺との共通性・一体性については川添昭二・広渡正利編『 彦山編年史料・古代中世編』517〜18頁に詳説されている。堂の名や地名に 著しい共通性があり、伝教大師御忌を彦山の年中仏事として執り行ってもいる。 また比叡山僧の彦山参詣、木練上人の阿蘇登攀記事中に「比叡山座主良源」の名 が登場することなどが指摘されている。 218頁35行 (誤)元和の時代、村には牛馬が少なかった。上伊良原では庄屋3・本百姓16に対して 牛馬16匹しかいない。本百姓でさえも牛馬をもたないものがいた。下伊良原や横瀬では 本百姓の四倍の数の牛馬がいる。名子の数と比較した場合では牛馬の方がだいぶ少ない。 荒仕子の分もあったから、牛馬の絶対数は足りなかった。 → (正)元和の時代、村には牛馬が少なかった。上伊良原では庄屋・本百姓12、名子45 に対して牛馬31匹だった。牛馬の絶対数は足りなかった。 221頁(写真キャプション) 緒方寅雄→緒方寅夫 237頁 写真34キャプション (誤)ダムの現場事務所→(正)県同和会研修施設 255頁 写真61キャプション (誤)庚申 →(正)庚申塚 付図4 伊良原地区字名調べ4 (修正内容) えんどう畑という地名は今原の西200メートル。今原とえんどう畑の間に「草 つかい場」地名。おこぎ場の周辺をジューキイ。 付属地図 凡例で赤色は小字となっていますが、ほかに神社名なども含まれています。