(無断転載不許可) 伊良原の歴史と地名・地誌 福岡県教育委員会『伊良原--県営伊良原ダムで水没する福岡県京都郡犀川町伊良原地 区における民俗文化財調査-----』<福岡県文化財報告書143集> 177〜262頁 服部英雄(伊良原歴史編・後半、「宇都宮家のお家復興運動」)
D 宇都宮・城井氏とその家臣進氏の動向 中世にこの地域を支配したのは宇都宮氏=城井(きい)氏である。天正三年(1575)、 島津家久は彦山より下山し、帆柱を経由して紀伊(=城井)の内墻(=内垣)に宿泊した。 かれはその日記(「中書家久公御上京日記」)のなかで、 「一 七日紀伊殿といへる人の隠居所一見」 と記している。内垣近辺に隠居所があった。 城井(紀伊)氏の遺跡は木井馬場の神楽城、木井神社、城井谷の城井上(きいのこ)城、 天徳寺(城井・本庄城跡)など多数が残されている。則松弘明『鎮西宇都宮氏の歴史』 (翠峰堂、1996年刊)、『宇都宮氏と豊前の山城シンポジウム』(一九九八年)、 『犀川町誌』などに詳述されるように、鎌倉期以来九州宇都宮一族の残した文書は断片的 ながらも各地に残っている。しかしこの地域におけるその支配を示す文書は、戦国時代に なっても、なお決して多くはない。ながく伊良原に居住され、今は行橋市道場寺に移られ た進三郎氏宅に保存されてきた文書(「進家文書」)には、この宇都宮・城井氏に関わる ものが多数残されている。それはこうした伊良原に居住する城井氏につながる旧家の人た ちが一様に持ち続けた宇都宮家への憧憬、具体的には宇都宮家御家再興運動と密接に関連 するものである。それについては後に述べることとして、ここでは、まず進家文書のうち 戦国期に関わる史料を見ておきたい。 進家文書中の戦国文書 この家の文書については 有川宜博先生や永尾正剛先生によって 目録が作成され、整理されている。それによりつつ、該当期の文書を見よう。 1(目録19)十一月二十七日宗永書状(家来中・老中宛) 2(目録20)<天文二十四年>後十月二十四日鎮房書状(進主計允宛) 3(目録22)天文二十四年七月十八日長輔書状(進主計允殿宛) 4(目録23)六月六日鎮房書状案 5(目録24)卯月七日鎮房書状 6(目録128)天文十二年癸卯七月二十八日正房知行宛行状(針弥五郎宛) これらは中世末期の城井氏の動向を知る上で重要である。一群の文書中に、城井信房が 進氏らの求めに応じて提供した系図(目録15)がある。当主本人から出たもので信憑性 は高い。それには 正房<豊後守>--兼綱<長甫>--鎮房<弥三郎・民部>--朝房<弥三郎>--朝末<治部 >--信房 とある。 正房は鎮房の祖父。『系図纂要』や『太宰管内志』所収の城井系図でも正房-長房-鎮房 とある。正房子に該当する人物は兼綱・長甫・長輔・長房を名乗ったことになる。なお長 輔は一般には「長甫」という名乗りが通用しているが、進家の他の記録(目録143)は 長輔としている。 写と正文 ここには鎮房(宗永)と父親長輔(長甫)、そして祖父正房の三代の文書、計 六通が残っている。そのなかには同筆(同一人物の筆跡)のように思われるものもある。 目録19と22の宛書、そして目録20、23、24は「存知」「月」「鎮房」の字に共 通性がある。そのうちの一通(4:目録23)は「案文」(その時代に作られた写)と明 記している。3は長輔の発給であるが、宛書では子の鎮房が出したことになっている。本 文や花押にどことなく稚拙な感じもする。宗永の出した他家に伝わる文書、つまり吉川文 書、年欠十二月廿八日宗永書状(「吉川殿参人々御中」宛・『大日本古文書・吉川文書』 一ー六六九、正統叙目十<元長公>)と比較するとかなり印象が異なる。 このような一見しての印象は否定できないので、写が含まれていると考えるべきであろ う。歴代文書のうち、案(4)を除く四通には花押(影)がある。正房、長輔、鎮房、そ して鎮房出家後の法名宗永のもの四種である。このうち宗永の花押については、先にあげ た吉川文書にも花押があるから比較が可能である。その花押の部分を図示してみた。両者 の花押は酷似しており、花押は真正なものを写したと考えたい。鎮房の花押自体は印象と しては宗永のものに似るが、形は少し違う。出家した際に花押を変えたのであろう。 そこでこれらの文書については折紙の形態をとどめている史料6(目録128、但し目 録作者は写とする)を除き、いずれも写であると考えたい。以下そのことを前提として内 容を検討したい。各文書を紹介しておく。 -------------------------------------------------------------------------------- 写真1 (目録19) 写真2 (目録20) 写真3 (目録22) 写真4 吉川家文書 -------------------------------------------------------------------------------- 1 (宛書) 「家来中老中 宗永」 返々今月中不被上、宗永内意候へは、惣而不入事にて候之条、如此申事候矣、 内意之趣候之条、各々事足弱同心ニ聢寒田可令堪忍之段、申付候處、いかヽ各覚悟候哉、 忍<下々明年及候、不及是非候、内意無心元、則今月中不被上候へは、逆意迄候、向後為 届一札遣下候、為存知候、謹言 十一月廾七日 宗(花押影) 註:足弱=足弱衆 寒田:築城郡城井郷 2 (宛書) 「進主計允殿へ 鎮房」 一書之趣、得其意候、殊口能無余儀候之間、於然者、主計允事ハ、至高橋ニ可遣覚悟候、 為存知候、恐々謹言 後十月廾四日 鎮房(花押影) 註:口能=くのう、長々とした弁解 3 (宛書) 「進主計允殿へ 鎮房」 今度石州表至三隅*<鐘の誤写か>尾抽粉骨之段、感悦至極畢、仍主計允令挙状如件 天文廾四年七月十八日長輔(花押影) 4 (端裏書) 「両人ニ遣状案」 態令啓入候、自訴之儀、種実雖被成御分別候、元種無御同意之様、従雑掌所申越候、外聞 実儀不及是非候、雖然、実無御別儀事、於御真実者、為鎮房、毛頭不可有疎意候、此節之 刷候者、境目之儀候条、一積馳走不可有余儀候、猶針主計允用口上候間、不能重筆候、恐 々謹言 六月六日 鎮房 板左 兼前まいる 註:種実=秋月、元実=高橋、外聞=世間の噂 一積は一稜か。 針は進。 5 書状ノ趣、得其意候、先以其方抱候て可然候、弥為老足共候、此節辛労之段、頼入候、為 存知候、恐々謹言 卯月十七日 鎮房(花押影) 6 吉岡名八段并屋敷一ヶ所六郎次郎今持分申付候、早知行可仕之状如件 天文十二癸卯 七月廾九日正房(花押) 針弥五郎殿へ 註:針は進 石見三隅合戦 まず3を検討しよう。文中石見とある。この年の時代背景をみよう。陶晴 賢が大内義隆を殺したのは天文二十年(1551)九月、石見では天文二十二年秋には吉 見正頼が反陶方として戦い、二十三年春には毛利元就は吉見氏を助けて反陶氏の旗を揚げ る。3が作成された天文二十四年(1555)は十月二十三日に改元されて弘治元年にな る。この年の十月一日厳島合戦が行われ、陶晴賢は毛利元就に敗れ戦死した。石見三隅の 合戦はこの直前のもので、すでに前年の夏以来、厳島をめぐる攻防戦は始まっていた。石 見三隅は津和野を根拠とする元就方=吉見正頼の勢力の最前線であろう。吉見氏は益田藤 兼と対立していたし、三隅氏は益田氏と敵対していた。吉見に敵対した益田は陶方の支援 を受け、三隅は吉見方で、反陶方だった。 当時毛利元就は豊前までを支配下に収めることはできなかった。『陰徳太平記』でも城 井氏は陶=大内方が窺える。進氏も大内義長、陶晴賢に従う城井=宇都宮氏の意向に従っ て、遠い石見の地で益田藤兼のもとに参戦していたものであろう。なお文中の鐘尾(カ) は未詳だが、出雲月山富田城には鐘尾があった。三隅高城にも同様の施設・地名があった ものか。「挙状せしめる」とあるが、大内義長に対し進氏の「主計允」の名乗りを推挙し たと思われる。主計允は正七位下、従七位上に相当する。それまでは官途の名乗りはなか った。 陶晴賢の敗死後の状況 次に2の史料をみる。まず後十月つまり閏十月があったのは弘治 元年=天文二十四年(1555)である。この文書は実は3と同じ年の文書である。史料 3は長輔の発給だったが、その四カ月後には当主は鎮房になっていた。それだけではなく、 城井氏が依存した陶晴賢は敗死し、彼に擁立された大内義長は、毛利という強大な敵に直 面した。劣勢になり、引き締めに躍起だったはずである。この書状中の「口能」、すなわ ち「長々とした弁解」に余儀ないという事態にはそうした背景があった。ここで「進主計 允を高橋に遣わす覚悟だ」と記されている。高橋とは高橋鑑種であろう。彼は天文二十一 年から弘治三年三月まで、大内義長の奉行人だった(吉永正春『大宰府戦国史』)。城井 氏は進氏を通じて、高橋との新たな関係を模索していた。 即ち3と2の史料は厳島合戦をはさんで前後のものである。両者の間には大きな情勢の 変化があった。城井氏が頼っていた陶晴賢は敗死した。大内氏は直ちに滅亡することはな かった。しかし存亡の危機である。結果からすれば大内=陶を頼っての進氏の働きは無駄 骨に終わった。3の文書は戦功による取り立て、恩賞という役割は果たせなかった。そし て3の時期、状況は城井氏にも、進氏にもきわめて厳しく、のちになってもしばしば回想 される性質のものだった。進氏にとっては城井氏への貸しである。この文書は主従の間、 とりわけ進氏には大きな意味を持ち続けることになる。 なお高橋は大内氏奉行人という危険な立場にあったが、義長の自害後も無事に九州に戻 っている。大友氏との連絡、また毛利氏とも接触があったと考えられている。城井氏、そ して進氏にとって、彼らが高橋鑑種と一体化した行動をとっていたとすれば、不幸中の幸 いだった。 なお3の史料では長輔の発給した文書なのに、宛書でその子の鎮房が出したかのように 記述されていることが気にかかる。実際に伝達されたのは代替わり後であって、新当主に よって主計允の官途が承認された旨、伝達されたものか。 以上戦国期の進家文書は、戦国武将への道、近世侍への道を歩んではいたものの、その 道を辿りそこねてしまった進一族の姿を端的に語って貴重である。 なお史料4は高橋元実が登場するから、天正七年(1579)以降のものである。秋月 種実の動きと、それとは一線を画した高橋元実の異なる動きが分かる。なおこの頃に城井 鎮房が毛利方に属していたことは、「長野助守覚書」(「神代長野文書」、『犀川町史』 二三〇頁)によって確認できる。 正房の文書は史料6、天文十二年(1543)に吉岡名や屋敷をあてがったものがある。 吉岡名は今日の豊津町吉岡近辺であろう。系図によれば、正房は豊後守を名乗ったという。 鎮房は民部(入道)を名乗った。系図では一族は民部少輔(従五位下相当)、左馬介(左 馬「佐」・正六位相当)、常陸介(「佐」・常陸は大国で正六位相当)等を名乗っている。 豊後は上国で、豊後守は従五位下相当。代々この程度の位階相当の官途を名乗る家柄だっ た。 なお『犀川町史』にはこの前後の時代の城井氏の動向のほか、宇都宮一族西郷氏の動き も詳述されているので参照されたい。 E 伊良原の「先祖の侍」「家来筋目のもの」 -------近世における宇都宮=城井氏憧憬--------- 豊臣政権に従順な態度をとらなかったために滅亡する城井氏については「城井軍記」 「城井谷合戦記」「城井闘諍記」等に詳しい。それをもとに大佛次郎が『乞食大将』(1 947)のような文学作品を書き、近年もまた石井進『中世武士団』(1974)でとり あげられるなど、近世の統一権力への編成に抵抗した在地に根を張る武将の典型として、 城井=宇都宮氏はくり返し見直されている。 抵抗を続けた城井鎮房は、結局は黒田長政の中津城に呼び出されて謀殺された。名門豊 前宇都宮家はここに在地豪族としては滅亡した。しかしその子孫は絶えたわけではない。 この伊良原をはじめとする地域では旧主の子孫を奉じての城井家=宇都宮家の御家再興運 動が行われた。 *宇都宮家の歴史を扱ったものには末松謙澄『宇都宮一党ノ豪勇並ニ其没落談』(< 『近世名家叢談』一七〜二四・明治三〇年一月〜八月>の合本・北九州市立図書館蔵)、 築城町史跡調査委員会編『築城町の史蹟と伝説』(第一集 宇都宮史)、小川武史『豊前 宇都宮興亡史』昭**海鳥社、松山譲『城井宇都宮氏の滅亡』昭58ライオンズマガジン 社、松山譲『豊前宇都宮氏』昭61ライオンズマガジン社、外園豊基「豊臣期黒田氏豊前 国入部と一揆」(『九州中世社会の研究』昭56所収)、外園豊基「宇都宮鎮房」(『黒 田長政』<歴史群像シリーズ38、1994>)等がある。 烏帽子親と烏帽子子 厖大な進家文書の中にある城井家歴代当主からの書状、とりわけ加 冠状(名字書出状)、そして彼が「先祖の家臣」と呼ぶところの宇都宮旧臣との交流を語 る書状類は、江戸時代におけるこうした運動を具体的に示すものとして注目される。まず 加冠状をみよう。 1(目録17) 寛文十二年壬子(1672)三月二十一日信房加冠状(進三郎右衛門宛 ・「房光」) 2(目録97) 寛文十二年(1672)八月五日信隆加冠状写(与吉右衛門宛、「房福」) 3(目録97) 延宝五年(1677)十月二十一日信隆加冠状写(与吉郎宛、「房有」) 4(目録16) 元禄八年乙亥(1695)年六月十五日種房加冠状(進久兵衛宛・「房 顕」) 加冠状とは冠を加える、元服に際し烏帽子をかぶせる時に出した文書である。つまり烏 帽子親が冠(烏帽子)を与える。このときに自分の名前の一字を与える。それによって、 烏帽子親と烏帽子子は主従の確認をし、親子に擬せられる関係を結ぶ。主従制にとっては きわめて重要な意味を持つ文書であった。これがなぜ何点も進家に保存されてきたのか。 進家が主家宇都宮家(城井家)がこの地を去った後も、主従の誓いを忘れず、主家の再興 を願っていたからであろう。進家は近世になってからも宇都宮の当主から、当主の名乗り の内、下の一字である「房」の字を貰っていた。このうち二通を紹介しよう。なお発給者 の信房と種房は同一人物である。 史料1 抑予累祖下野国数代保終後、豊前州為入国、祖父朝房迄至十余代相伝之、為家臣成忠功事 甚、雖然、当朝房代破国乱家、群臣生死離散事遥也、今暮齢及八十余歳存候故、先祖家臣 之末茂成後代者忠之志連続疑敷處、雖生替不忘古之重恩、予求有所成喜悦通志之忠儀事、 不可勝計、因茲一字与 加冠 進三郎右衛門 房光 寛文十二壬子年三月廿一日 信房(花押)(判) 三郎右衛門殿へ 史料2 加冠房顕 右任願令免許之畢、全可抽忠孝守五常者也 粟田関白道兼廿四代嫡 元禄八乙亥年 六月十五日 種房(花押)(判) 進久兵衛殿 -------------------------------------------------------------------------------- 写真5 (目録17) 写真6 (目録16) -------------------------------------------------------------------------------- 「先祖の侍」 信房のものには、家臣との絆の再生を喜ぶ気持ちが良くあらわれている。 「離散して以後、八十余年になっている。先祖の家臣もその次以降の代になってしまえば、 忠義の心が連続するかは疑わしいと思っていた。ところが生まれ変わっても、いにしえの 重恩を忘れないとは---」儀礼の文書にしては、いくぶん興奮の混じった文章ではなかろう か。主君も家臣も一丸となって、お家再興運動に燃えたことだろう。以後「先祖家臣」 「先祖の侍」「家来筋目の者」といった言葉は彼の手紙などにしばしば出てくる。 ところが元禄八年のものは位署部分の花押・印判に、くわえて「粟田関白道兼廿四代嫡」 と加筆し、加冠の部分にも三つ巴の判を押すなど仰々しくなっている。尊大な印象を与え ようとしたことが分かる。信房と種房が同一人物だとすると、なぜこのような変化が起き たのだろうか。以下にそのことをみておきたい。 改名の多い城井氏当主 宇都宮系図は何種かあるが、以下のようになっている。 <系図A> 長甫--鎮房--朝房(室秋月種実女子)--末房(朝末)--信隆(春房)--信綱(『築上郡 誌』ほか)。<系図B> 兼綱--鎮房<弥三郎・民部>--朝房<弥三郎>--朝末<治部>--信房(目録15) また後述する加来文書中の系図では信房が種房になっている。 信房は史料17で「祖父朝房」といっている。信隆、春房、種房に該当しよう。彼らの 発給した文書のうち、年記が明記されたものを順に並べてみる<第一表、年齢は元禄十年 (1697)七十二才で遠行とあることから逆算。>。 <以下は表に>------------------------ 寛文十二年(1672)信房 四七歳 →寛文十二年(1672)信隆(?) 四七歳 →延宝二年(1674)信房 四九歳 *延宝二年(1674)信隆と改名 →延宝五年(1677)信隆 五二歳 →天和元年(1681)春房 五六歳 →貞享五年(1688)春房 六三歳 →元禄八年(1695)種房 七〇歳 ---------------------------------------- 寛文十二年の信隆のみ時系列に合わない。ただしこれは後世の写である(前掲目録97)。 延宝のものと寛文のものを二つ書並べてあるが、写した際に同一人物ということが分かっ ていたので、本来信房とあったものを信隆に統一して、書直したものだろう。 *延宝五年に信隆が自身の名乗りにはないにも関わらず、旧名の一字「房」の字を与え た理由は 未詳。進家側の要望によるか。なお尾立維孝氏による「宇都宮系譜」(天徳寺 所蔵)では寛文段階で既に信房が春房を名乗っているが、尾立氏が信房は春房の誤記と誤 認したことによる。 また藤一郎重房(目録113)は春房の子であろう。加来家の系図では高房となってい る。他の系図では信綱とある。 花押の変化と共通性 このように名乗りの変化が著しいが、同一人物の改名であることは 使用した花押からもある程度いえる。信隆は二つの花押が確認できるが(A型:目録84、 115、C型:目録87、134)、そのうちのひとつ(A型)は信房の花押A(目録8 8、93)と同一の花押とみなせる。また信隆のCタイプの花押と春房及び種房の花押と は形状、運筆にはかなりの共通性がある。同一花押の変形といってもよい。信隆も春房も 種房も信房の改名であることが花押でも裏付けられる。 信の一字のみの位署で花押のあるものが三通ある(目録32、66、135)。目録3 2、66は目録168の信房の花押に一致する。よって一字名「信□」は信房である。信 房の花押は二種確認できるが、一つのものは堂々たる花押A。しかしもう一つの花押Bは 名前を一字省略した時に使っているように、形も簡略な印象がある。時期によって花押を 変えたというよりは、用途により正式のものと、略式のものを使い分けたということらし い。目録135のものは信の一字における使用で、簡略形の花押になるように思うが、実 際はかっちりした「信隆」の花押C(目録87)である。 -------------------------------------------------------------------------------- <以下写真> 花押一覧 信房の花押 花押A 花押B 信隆の花押 花押A 花押C 春房の花押 種房の花押 重房の花押 -------------------------------------------------------------------------------- 他家の加冠状 なおほかに『郷土史城井』六三頁に写真が掲載された白川氏宛の春房加冠 状がある。これは天和元年(1683)に春房が筆をとった「(木井神社)神祠記」所収 のものと解説されるが、実際には春房を名乗る貞享五年(1688)より以降の時代のも のになることは改名の項に述べたとおり。 実はこの文書の原本が横瀬、加来幾継氏所蔵文書中に残されている。この加来文書は白 川系図や白川氏に宛てた文書などが多数含まれており、何らかの事情、例えば姻戚関係な どにより、白川家に伝来していたものが加来家に移動したものであろう(写真版は福岡県 立図書館所蔵)。 5 貞享五年(1688)戊辰正月六日春房加冠状(白川半四郎宛、「房弘」) (史料3) 加冠房弘 半四郎 右之通令免許畢、全守五常可申者也 貞享五年戊辰正月六日 春房(花押) 白川半四郎殿 左近 このように宇都宮氏は近世初期、元禄期頃までは進氏や白川氏などの旧家臣筋の家に、 加冠状を出して主従制の確認をしていた。そしてそれは謝礼としての金銭の授受も伴なっ ている。みたように元禄八年(1695)年六月、江戸にいた種房は進久兵衛に「房顕」 (目録16)と房の一字を与えたが、それを受け取った進家では「一字免許の祝儀」とし て「銀一包」を出し、その年の十二月に種房からの礼状(目録80)が届いている。進家 や白川家は「房」の字を貰い、礼として銀一包など金銭を出した。ほかに緒方氏、池永氏、 神崎氏らも一字をもらったか。 白川家は代々「房」の字を名乗った。上高木神社の正保三年(1645)棟札写に登場 する人物は「白川六之丞房重 同次郎左衛門房行」がいた。但し惣庄屋白川十左衛門藤原 鎮兼 願主白川次郎左衛門藤原鎮信 同半兵衛鎮忠 同百助信氏らの名前もみえる。この 内の「鎮」は城井鎮房の一字の世襲なのか、あるいは大友義鎮より拝領した「鎮」の字を 世襲したものなのか。後者ならば城井氏にのみ賭けたわけではなく、もう一つの選択肢に 大友氏への仕官という道を考えた家もあったことになる。実際城井家残党は石垣原合戦で は大友方に与して共通の敵黒田長政と戦っている。また明秀寺誕生仏の底に「潅頂尊形施 主白川宗左衛門房吉 天保第八丁酉(以下略)」とあって幕末の天保八年(1837)に 至っても、房の一字は継承されていた(以上金石文は本書錦織亮介氏調査による)。実際 に白川亘氏所蔵の白川家文書中の系図、またほぼ同文の加来文書中の白川系図によっても、 房の字が連綿と継承されていた。彼らは最後まで「城井家先祖の侍」だったことを忘れな かった。またたとえば進房茂が武家風の花押を使用するなどして(目録89)、気持ちは いっそう侍に近づいていった。 城井氏との交流文書の編年と城井氏の行動 加冠状だけではなく、進家には城井氏との交流を示す書状が夥しく残されている。また 量はそれよりはるかに少ないが、加来文書中にも数点、城井氏との交流を示す文書がある。 進家文書目録(永尾正剛先生作成)によりつつ、加来文書も併せて該当期の文書を見よう。 なお文書には紀年銘があったり、また無くとも信房の改名時期や行動した場所によって、 その年次が推定できるものがある。たとえば加来文書中の白川系図に書かれた記述や、進 家文書中の書き上げ(目録34)は詳しい。ほか天徳寺所蔵「宇都宮家系譜」(尾立維孝 校訂)中にも、寛文十年(1670)以降の信房と旧臣との交流が具体的に綴られている。 それについては『郷土史伊良原』の二三頁、また前掲松山譲『豊前宇都宮氏』の二四二頁 以降に詳しい。 進家文書(目録34)は、名乗りが春房でも信房でもなく善助になっているなど、より 原形に近い。さらに加来文書中の白川系図では善助が当初は「熊本御牢人」として登場す る。当時に書かれた記録であろう。以下まずこの記録をみたい。 この記録によれば、築城郡奈子村に帰農した宇都宮家臣で、かつては安枝と名乗ってい た侍の子孫の一人が、牢人して熊本に住み、売買人になっていた。その子の半左衛門が奈 子に見舞いに帰った際、熊本に「城井善助殿」という御牢人がいることを報告した。それ が発端だった。最初に動いたのは天徳寺。熊本まで見舞いに行く。すると善助も天徳寺に やってくる。旧臣は感激して系図を見せ、書付、また足利尊氏の感状までも、この浪人に 見せたりした。それをきっかけに両者の交流が始まった。善助は城井の者とも書簡の交流 をしつつ、時には天徳寺を訪ね、白川氏など旧臣筋の家にも宿泊していた。そのうち一回 は寛文十一年十一月十八日から二十二日まで、豊前の旧領に、第二回は十二年の四月二十 日から二十八日までで、主たる目的は彦山登山だった。第三回は寛文十三年(1673) 四月十六日から翌延宝二年(1674)二月七日まで長期に彦山に滞在した。彦山座主の 後家に遠戚が入っており、頼ったのであろう(朝房の妻は秋月氏息女、妹は彦山座主の後 家、善助には大伯母になる。その養子は日野大納言三男入婿忠有<目録100>*)。そ の後寒田を経て二月九日中津へ。以後京都。ここで参勤途中の彦山座主僧正と合流。善助 にも彦山座主にも親戚筋になる日野家を頼り公家を通じて運動をする予定だったが、座主 が疱瘡のため死亡して頓挫。信房はこの間に信隆と改名する。この後京都に二年滞在して 日野の伝(つて)で飛鳥井大納言より越前に手引きしてもらう。以後は五月に江戸に向か い、八月日光山僧正、宇津宮藤太夫に会い、幕府浪人帳に登録などするが、三年間は福井 にいて、その後再び江戸に出る。その子藤一郎が元禄三年(1690)越前福井藩主松平 昌親から五十人扶持を受け、正徳二年(1712)五百石を得た。白川系図では「越前太 守公は我等(信房)祖父に付き」とある。血縁があり侍になることができた。しかし公儀 への仕官は遂にかなわなかった。この在豊前、在京、在江戸といった記事、また著しい名 乗りの変更は、年次の記載を欠く文書の編年にかなり役に立つ。 *永尾正剛「近世熊野・彦山修験本末論争の素描」(北九州歴史博物館『研究紀要』1、 1979)、 秋月種長女子昌千代姫の婿が日野大納言輝資三男忠有である。 なお宇都宮氏の任官運動は父治部左衛門朝末の時にも行われていたが、その病死により 頓挫した。貞享四年(1687)に左近が書いた由緒書上(「目録」9)にその詳しい経 過が記されている。 さて以上を前提として、以下進家と城井家の交流に関わる文書群を編年順にみてみたい。 *<年欠>についての年次比定は推定になる。 1 年次があるか、または推定できるもの 信房の名乗りの時代 寛文十年・1670 1 かのえいぬ<寛文十年・1670>紀井善助信房書状写(天徳寺宛):城井弥三郎は 馬が岳にて相果てる。拙者五歳の時父は四十余歳で病死。先祖帰名・海名(戒名)を知り たし(目録79)。 *弥三郎は肥後木葉で討たれたはず。城井家自身にも既に伝承に混乱があった。なお馬が 岳で城井家が滅びたとする伝承は『陰徳太平記』にもみられる。『黒田家譜』や「城井闘 諍記」では中津城で殺されたとあり、これが定説である。 2 <寛文十年・1670>十月七日信房書状(先祖之侍中宛):天徳寺来訪、各人の厚 志を謝す(目録96:花押A*年次は「進三郎右衛門日記」による)。 寛文十一年・1671 3 <年欠>亥ノ十二月四日進三郎右衛門房光・覚:歴代の名乗りと判。信房は寛文十一 年十一月十八日に肥後より築城郡本庄村の天徳寺に参詣あり、「東西城井谷」の「数代以 前、家来筋目ノ者」お目見えす、取次は白河次郎兵衛(目録143)。 寛文十二年・1672 ○前掲寛文十二年壬子(1672)三月二十一日信房加冠状:進三郎右衛門に「房光」 (目録17) 4 <*寛文十二>子年ノ四月二十五日書上げ(作成、送付は後日)(目録91) 上伊良原、進久兵衛・理兵衛・三郎右衛門ら・緒方平右衛門、喜左衛門、市左衛門ら、綾 野村進与左衛門など合計十人が帆柱村まで「御送り酒」に行く。その名簿を信房に送る。 5 <年欠>五月二十七日<善助>信房書状(進三郎右衛門宛):先般の逗留の際の造作、 馳走、彦山逗留のお礼(目録55:花押A)。 ○前掲寛文十二年(1672)八月五日信隆<正しくは信房>加冠状写:与吉右衛門宛、 「房福」(目録97) 6 <年欠>九月十四日進三郎右衛門書状(信房宛):彦山より便あるよし、堅固である 旨白川二郎兵衛に仰せ遣わし大慶。(進)久兵衛も無事。当春不思議に御登駕遊ばされ、 私宅までお越し。そのご来訪の礼(目録93)。 7 <年欠>九月十九日信房書状(進三郎右衛門宛):四月の厚情に返礼、来春には彦山 に登りたい(目録141:花押A)。 寛文十三年・1673 8 <年欠>卯月十八日信房書状(進三郎右衛門宛):四月十六日に登山仕候、皆無事に 満足。久兵衛方へも加筆。差し合いこれなく候てちと登山まち申し候次兵衛、同名太左衛 門相果て候て、登山なり申さず、談合申したし、公儀に隙入無用存候(目録88:花押A)。 9 <年欠>六月二十日信房書状(進三郎右衛門宛:花押B)作所大分損、気の毒。先日 の野菜の礼、毎度の心入り過分の至り。当方も無事、相替わることあればこの方より申し 入れる。登山の必要はない。次に無心だが、土用の内に「あかさ」とり候て、雨露の当た らぬ所に干してほしい(目録168)。 10 <年欠>七月三日「信」書状(進三郎右衛門宛:花押B)同名久兵衛、進三郎右衛 門に対し、登山の折りの鮎、麦粉一鉢二持参の返礼、正音坊、本笠坊への心遣のお礼、早 々の「あかさ」別而満足(目録32) 11 <年月日を欠く>暑気時分に登山し満足、帰宅の節暇乞せず残念(目録174)。 参考<進三郎兵衛とともに彦山の信房のところに登山したものの書状か> 延宝二年・1674 12延宝二年正月十一日奉射之次第并的絵図:進三郎右衛門宛、「表書以可稽古事也」 (目録145) 13延宝二年正月二十七日書上げ:朝房、秋月息女三人ノ内、一人座主の内室、一人宇都 宮朝房の内室、一人座主後家養子、日野大納言男入婿、忠有僧正(目録100) 14 延宝二年正月二十五日信房送状(進三郎右衛門宛):宇都宮系図を配り置く(目録 15)。 15 延宝二年寅正月廿八日進三郎右衛門・銀子渡し覚:一、四百三十*文は肥後より御 持参銀子残、一、八十六匁は進少右衛門方より銀 一、百七十二匁六歩ハ白川等、進等、 池永等より之銀 宛先は神崎与左兵衛、進権兵衛殿(目録68) 16 <年欠>正月二十七日信房書状(進久兵衛宛):上京の餞の銀銭一包が到来した返 礼、あわせて同姓(進)三郎右衛門方に苦労になり候ことを謝し、謝儀伝言を依頼する (目録14:花押A)。 17 <年欠>三月十四日信房書状(進久兵衛、進三郎右衛門父子宛):二月二十九日に 無事に京都に着いたことの報告、白川などと申し談じて然るべし、京都はよろずの首尾よ し。江戸への仕合を相調えるつもり(目録41:花押A)。 信隆の名乗りの時代 (花押C) ○前掲 延宝五年(1677)十月二十一日信隆加冠状写:与吉郎宛、「房有」(目録9 7) 貞享四年・1687カ 18 正月二十一日信□書状:芳賀伝兵衛下る。一類中、帆柱の者へ年賀(目録135)。 <芳賀伝兵衛は福井藩重臣村上三太夫武雅が元禄初年に九州入りした時の案内役。信隆は 貞享五年(1688)正月六日には春房を名乗っているから18、19とも貞享四年(1 687)か>。 19 十月二十日信隆書状:芳賀伝兵衛より銀十匁贈(目録173) 20 貞享四年(1687)<月日欠>奉願御由緒之書上:宇都宮左近・将軍家へ弓献上 の願い(目録9)*左近とのみあり。実名を欠く。 春房の名乗りの時代 貞享五年=元禄元年・1688 ○前掲加来文書 貞享五年(1688)戊辰正月六日春房加冠状 21 <年欠>六月十一日春房書状(進三郎右衛門宛):四月に行った天徳寺での先祖百 回忌追善の法事に参寺を感悦、霊前の感応もこれにしかず(目録54)。 *鎮房、長甫、朝房の死は天正十六年(1588)四月二十日〜二十三日。百回忌は元禄 元年(1688)<天徳寺・宇都宮系譜>。 元禄三年・1690か 22 <年欠>五月二十五日春房書状(進三郎右衛門宛):松平兵部太輔殿(=越前藩主 松平昌親)より藤一郎方へ当分合力す(目録113)。 種房の名乗りの時代 元禄八・1695 ○前掲 元禄八年乙亥(1695)年六月十五日種房加冠状:進久兵衛宛・「房顕」(目 録16) 23 <年欠>十二月十六日種房書状(進久兵衛宛):今度一字免許の祝儀として銀一包 差越し祝着。その返礼(目録80)。 2 年次の推定がむずかしいもの 信房の名乗りの時代 24 二月十八日信房書状(進三郎右衛門宛)炭一俵・大根「大分」の礼(目録94:花 押A) 25 八月朔日信□書状(進三郎右衛門宛):伝兵衛帰候間、申入候、弥其元皆々無事と 存候、我等も相替事之無し(目録66:花押B)。 信隆の名乗りの時代 その1・花押A(信房の花押Aに一致) 26 六月十七日信隆書状(進三郎右衛門宛):二(カ)月二十六日の答銀(=当銀)八 匁贈給のことの返礼、今度在京仕候、白川二郎兵衛申達候(目録84) 27 正月六日信隆書状 (進久兵衛、進三郎右衛門父子宛):来札京着一見申、米一斗五 升の礼(目録115) 信隆の名乗りの時代 その2・花押C 28 二月二十五日信隆書状(進三郎右衛門宛):其元の鍛冶屋に「なたかま一つ」(渡 り五寸、柄は一勺三寸)、なた一丁を作らせ、備後守(小笠原真方)参府の節、持参を依 頼(目録87)。 29 七月十一日信隆書状(進三郎右衛門宛):六月七日付の目録白川二郎兵衛持参にて 同晦日に京着、銀八匁到来、毎度合力過分を謝す。各々志を以て所存相達可申、委細白川 二郎兵衛より相達べし(目録134)。 信隆の名乗りの時代 その3(信隆宛の書状) 30 十月七日進三郎右衛門書状(信隆宛):挨拶、御公儀様御首尾よく珍重、親久兵衛 も変わることなし(目録78)。 春房の名乗りの時代 31 七月二十八日進平次良<房茂>書状(進久兵衛、進三郎右衛門父子宛):江戸にて 段々結構仰せられありがたき仕合。春房公機嫌よし(目録89)。 32 正月五日春房書状(進三郎右衛門宛):銀二十目の礼、父子ともに江戸に滞在(目 録92)。 33 八月二日(春房・花押のみ)書状(上伊良原・進三郎右衛門宛)河崎九左衛門より 差下候間令啓候、我等も異儀なく江府に在り候、公儀向きも能罷成候(目録110)。 高房(重房)の時代 34 正月二十八日藤一郎書状(進三郎右衛門宛):扇子送り給り誠に深志過分不浅、願 書御公儀へ納まり大慶(目録90)。 <参考>加来文書・正月二十八日藤一郎書状(白川半四郎宛):扇子のお礼 35 (目録127)九月二十一日藤一書状(進三郎右衛門宛):我等婚儀調候、祝の肴 到来につき礼 <参考>加来文書・九月二十一日藤一<高房>書状(進三郎右衛門宛):我等婚礼調候、 祝の肴贈給満悦 信房<=信隆、春房、種房>が二十二通(うち左近一通)、高房二通となっている。と りわけ信房の時代には、城井氏と伊良原との関連は深かった。文書を残した進氏は「宇都 宮鎮房家臣進某由来」(目録13)に系図があるが、久兵衛または三郎兵衛を歴代襲名し ている。 久兵衛房秋 久兵衛房行 三郎右衛門房顕 三郎右衛門房光 といった具合である。関連史料には取次として白川二郎左衛門の名が頻繁に見える(目録 41、84、93、134、143)。ほかに緒方氏(目録91)池永氏、神崎氏ら協力 した旧臣一族の名前も見えている(目録12、110)。 伊良原からは頻繁に資金また物品を送っている。最も盛り上がりを見せた延宝二年の正 月廿八日、城井善助が持参した肥後からの持参分四百三十匁に加える形で伊良原の旧臣が 銀二百五十匁を負担した(no15、目録68)。その内訳は進少右衛門は銀八十六匁、白川 等、進等、池永等は百七十二匁六歩である。しかし実はこれだけではなかった。天徳寺の 「宇都宮系譜」中に次の史料がある。 宇都宮左近様へ指上候銀 覚 進三郎右衛門 一、銀壱拾匁 十月 一、同八匁 六月十七日 一、同壱匁 正月廿七日 一、同八匁 七月十一日 一、八匁□□五朱 正月六日 貞享四年卯ノ十月三日 一、銀弐拾壱匁 使 川崎九右衛門 元禄三年かのへ午ノ八月廿一日 一、同壱匁 白川次郎兵衛渡 但藤市郎様に松平兵部大夫様より御合力之時 計五十七匁になる。こうした旧臣からの資金援助はまだまだあった。今判明する伊良原 負担分は三百匁。ほかに芳賀伝兵衛よりの銀十匁贈(no19、目録173)、二月二十六 日の当銀八匁(no26、目録84)、六月七日付の目録にあった銀八匁(no29、目録1 34)や銀二十目(no32、目録92)などがある。あわせれば善助(信房)の持参した 四百三十匁よりははるかに多かった。また一字拝領の礼金もかなりの額だった。 ほか儀礼的なものに婚儀の祝儀など。婚礼祝いを受け取った重房は、幼少時には進家で 育ったといわれて、親密な関係にあった。伊良原からは銀(二十目)(no32,目録92)、 米(一度に一斗五升ほど)(no27,目録115)、大根など野菜、そして炭(一俵)(no2 4,目録94)などが送られた。彦山に滞在中は生活必需品に近いものも送った。具体的に 城井氏の側から要求されたものもある。これは城井氏が代金を支払ったものだろうが、 「なた・かま」(no28,目録87)。夏には「あかさ」が欲しいといってきている(no9,1 0,目録168,32)。「あかざ」<アにアクセント>は夏の野に生え、一部では畑にも作 る。「年とったのは固いきぃ若いのが良い。ゴマをよう塗りつぶして、ヒィという草と混 ぜておかずになる。干すのは知らない」とのこと。彦山では野菜が不足したのだろうか。 高房の時期には進家にも白川家にも同じ内容の書状が城井家から出されたことが確認で きる。伊良原の人たちが、相談してともに行動していることが確認できる。 地誌編(西の塚の項)にも述べるが、当時宇都宮家からの「お墨付き」をいただくのに は金二十両が必要だったという伝承がある。今の金にして一両=8〜15万円としておよ そ二百万円程か。名字書出をもらうためにはその程度が必要というのは本当の話ではなか ろうか。ずいぶん価値があった。元手がかかっている。名字書出が大切に保存されたはず である。だが当初は感激に満ち満ちた文章を書いていた信房も、種房と名乗る晩年には、 権威を強調するようにもなっていた。 宇都宮家では先祖の供養を菩提寺天徳寺で行った。そこには縁ある家臣一同が集まった。 そしてそのお礼状の宛先は「先祖の侍中」だった。自身の家臣ではないが、先祖の家臣だ った。「先祖の侍中」「家来筋目の者」。この言葉にこそ城井氏と伊良原ほかに分布する 旧臣の関係がよく表れている。先の「進某由来」(目録13)は後世の記述かも知れない が、その祖進右近について「天正十七年四月廾五日親子仲津ニ而殺害」と記す。主君と同 じところで一族もろともに黒田家のために滅亡した。その忘れえない記憶が旧臣たちの連 帯意識、旧主への求心性を強めた。進家のみならず、ともに討たれたといわれる何十もの 家のものたちは皆同じ気持ちだった。くわえて鎮房公がまともに判断してさえいれば、今 頃は伊予今治で数百石から千石取りの侍。そんなちらりと欲のはった気持ちも一〇分の一 ぐらいはあったか。 大きな盛り上がりをみせたお家再興運動だった。その結果城井宇都宮氏は信隆(高房) のときに越前松平氏に取り立てられるが、石高は正徳二年(1712)に五百石。享保七 年(1722)に加増されたが、六百五十石。伊良原や城井谷の人々の期待にこたえうる 復帰には遠く及ばなかった。 以後は城井家との交流を示す史料は激減する。だが伊良原の人たちの「城井殿さま」に 対する思慕の念が消えることはなかった。それは今日、いまにも継承されている。 補注 *戦国時代の領主と旧臣の結びつきがその後の近世にも継承されたことは、筑前高祖城主 原田氏と怡土・志摩郡の旧臣との間にもみられた(中村正夫「主従の絆」<『福岡県史・ 近世研究編福岡藩(二)』所収>)。 **上記史料の読みについては複写からの解読になったこと、及び著者の読解能力の欠如 から、不正確なところがあるかもしれない。