(無断転載不許可) 伊良原の歴史と地名・地誌 福岡県教育委員会『伊良原--県営伊良原ダムで水没する福岡県京都郡犀川町伊良原地 区における民俗文化財調査-----』<福岡県文化財報告書143集> 177〜262頁 服部英雄 水の底になるという伊良原。閉じられようとしている伊良原数千年の歴史の中で、しかしいまこ そ村は最後の輝きを見せているのかもしれない。あたかも日没前にひときわ輝く太陽のように。 ダム建設計画の発表以来、あらゆる公共事業が凍結されて、今私たちの目の前にある伊良原の村 の姿は、昭和の初期と変わらぬような感さえある。いや大正、明治、そして江戸時代とも変わらぬ 部分も多いのかもしれない。だが一方、かつて二十年、三十年前の水田は、天に到るかのごとく稜 線近くにまで作られていた。いま減反でそれらは植林された杉山にかえっている。水田に接してい た干草(ひくさ)切り場と呼ばれる草原があり、牛馬の飼料を提供した。続いて萱切り場がある。 萱山は東の山では稜線まで続いていて、毎年平尾台や阿蘇のように野焼きがくり返されていた。そ れらも山にたちかえった。 労働力の減少が水田を減少させた。過疎による人口の減少は、同じ程度の労働力しかなかった時 代、それが近世前期であったのか、中世だったのかはよく分からないが,そうした時代にまで再び村 の姿を引き戻したのかもしれない。反当収量も三俵前後と少なく、耕作に手間ばかりがかかった山 田は、真っ先に放棄された。かつてはそうした不便さや収量の多寡よりも、まず食料の不足を補う ことが優先された時代があった。人々は多くの経費を投入しての棚田づくりや、用水の開鑿も苦と しなかった。水とわずかな平坦地さえあれば,どこまでも水田を切り開いた。そして田の面積を少し でも広くするため、石垣の棚田を築く。技術的な困難と戦いつつ、急崖の斜面をいく用水をも難工 事の末に作った。自分たちの努力は将来ともに、何代も続いていく子孫たちに有益になる。そう信 じての投資だった。 私たちはこの間、伊良原の民俗調査、歴史調査を通じてこの村にもう一度光を当てる作業に参加 してきた。ここでは伊良原の歴史のうち、1章歴史編では,おもに中世に関わることがらを、まず文 献史料を中心に述べ,つづいて2章復原編では用水や耕地のあり方、また交通路などから考えた伊良 原の村の景観、暮らしの復原を試み、そして3章地名(地誌編)では,地名ほかによる伊良原のそれ ぞれの地域の地誌的な叙述を行いたい。こうした作業を通じて古代末から中世以降今日までの長い 伊良原の歴史、変化を考えてみたい。 また水没地区の周辺の村々でも、ダム関連事業や圃場整備事業等で大きな変化が生じている。よ って本章では、水没区域周辺をも視野に含めつつ叙述を進めたい。 *なお3章のうち一部には東昇・前原茂雄両氏による分担執筆部分がある。 ---------------------------------------- 写真 蔵持山稚児落としからみた秋の伊良原 ---------------------------------------- 第1章 文献史料から(歴史編) 伊良原の歴史を考えるための材料、すなわち史料----とくに中世以前に遡って考えるための文献 史料は、決して多くはないが、全く何もないというほどにない訳ではない。むしろわれわれは文献 から、断片的とはいえ古代末期の姿を知ることができることに驚く。都から遠く離れたこうした地 域で、この時代の歴史が分かることは珍しい。全国的に見ても希有で貴重な例ではないか。それは 伊良原の北西、豊前国仲西郷、おそらくは蔵持山を拠点とした修験僧に関わる、今から九百年ほど 前、嘉承年間(1106〜)の史料である。 周辺に目を向ければさらに史料がある。伊良原に接する伊良原川の下流域、横瀬浦や城井浦そし て隣接する仲西郷高屋の橘社などと宇佐神宮との関わりを語る史料に『宇佐大鏡』(到津文書・ 『大分県史料』や『宮崎県史・史料編』に収録)がある。ここに登場する地名「高座」は下伊良原 の高座に比定できる。『宇佐大鏡』は鎌倉初期に成立した記録で、そこには平安末期の九州各地の 宇佐宮領荘園の状況が記されている。難解な史料だし、いくぶん煩雑ではあるが、伊良原と伊良原 川(祓川)の流域を考える上での重要な手がかりである。そこでまず蔵持山に関連する嘉承年間の 史料を、次には『宇佐大鏡』を検討したい。彦山(のちに「英彦山」と表記するようになる)と結 びついた宇佐八幡宮、それと大宰府安楽寺との対立、山岳に依拠する宗教的権威と、それを支えた 里の生活との関わりなど、伊良原の古代末期から中世の歴史を考える上でも、貴重な手がかりが得 られるだろう。 A 仲西郷と宇佐宮・彦山・蔵持山---嘉承二年・僧頼源解から 豊前国仲西郷、つまり今日の京都郡犀川町域に関して一点、平安時代の史料がある。『平安遺文』 四ー一六七九、山口光円氏本「打聞集」裏文書のなかの僧頼源解である。なお「打聞集(うちぎぎ しゅう)」は宇治大納言物語を祖本とする今昔物語系の説話集である。 天台山二宮御油検校僧頼源解 申請 当時住所在地随近刀禰郡司図師裁事 請被殊任 実正署判、嘉承二年潤十月五日夜、為強盗、悉内財雑物并私領田畠 公験、 且被盗取、且放火焼失子細状 在仲西郷 一 田畠坪付一通正文有国印 一 私宅并垣内倉并雑物分 宅五宇、資財雑具馬牛等焼亡紛失事 一宇三間四面 一宇五間三面 一宇三間 一 天台山千僧供三箇度洩進九千供往来度別三千口 一 倉二宇一宇五間一宇三間 一 資財物 綴牛皮一領直八十疋 腹巻一領直廿疋 打刀一腰直十疋 綾二端直六十疋 錦衣五領各直百廿疋 (以下中略) 一 薬師記衣服 狩衣袴一下直十疋 袙二領直十疋 一 行貞服物 水旱袴一下 烏帽子一領 絹二疋 帷二領 水旱鞍一口直十疋 夏毛行騰一腰直五疋 冬毛行騰一腰直三疋 泥障二懸 水旱鞍骨一口直□□ --------------------------------------------------------------------------------------- 大分宮大宮司佐伯有判 別当丹治 有判 別当坂本 有判 橘宮大宮司清原 有判 別当佐井 有判 護得庄司客 有判 護得田所僧 有判 宇佐宮御馬検校小野 有判 弥勒寺権都那 有判 大分宮政所別当坂本 有判 定使判官代□宗 有判 大分宮検校正六位磯上 有判 依有在地随近与判、図師郡司加署判之 図師橘朝臣 有判 郡摂使検校藤原 有判 仲西郷は豊前 僧頼源が嘉承二年(1107)、強盗のために私宅を放火されて資産を失った。資 産の内容を書き上げて、近隣の有力者(=随近)や役人(=図師、郡司)に証明してもらった文書 がこれである。この頼源の宅が所在した仲西郷についてはどこの国なのかの記載がない。仲西郷は 仲津郡、仲郡の西郷という意味だが、仲津郡、また中郡(那珂郡)のあった国は多い。はたしてこ こにいう仲西郷を豊前と断定して差し支えないのだろうか。豊前国管内に仲西郷が存在したことは、 後述する『宇佐大鏡』で確認できる。また位署者の中には宇佐宮関係者が多いが、大分宮の人物も 多数いる。これは筑前国穂波郡大分宮であろう。宇佐八幡の五別宮の一つとされ、石清水八幡の末 社でもある。位署者の前段ではまず十二人中八人まで、大半が宇佐宮関係の人物であることがわか る。次に橘宮であるが、同じく宇佐宮の関連であろうと推定できる。実は『宇佐大鏡』では、豊前 国仲西郷の橘社は宇佐宮の供領と定められていると明記されている。橘宮はその社に該当しよう。 今日犀川町高屋に橘神社が現存する。嘉承文書の橘宮もこの宮にまちがいなかろう。以上によって 位署者十二人中の十人が宇佐宮にゆかりのものになった。護得庄については未詳だが、筑前国鞍手 郡、今の小竹町御徳周辺にあった荘園であろうか。沿革不明で宇佐宮との直接の関連は分からない。 おそらく頼源の縁者がいたものか。大分も御徳も仲西郷、つまり今日の犀川町からは30キロメー トル弱の距離になる。国境は越えるが、大半の人々が宇佐宮との関係で深いつながりがあった。仲 西郷は豊前国管内と見て誤りはない。 天台山二宮はどこか 天台山とは本来は震旦国、中国浙江省の霊山だが、日本では比叡山のような 霊地をもいった。平安時代の記録、文書には多くの「天台山」が登場するが(東京大学史料編纂所 「平安時代フルテキストデータベース」)、そこでの天台山は中国か比叡山に限られる。『小右記』 のように記録はみな京都で書かれている。京都では天台山は比叡山を指した。 ところで打聞集裏文書は他にも十点ほどある(『平安遺文』解説編、『打聞集の研究と総索引』 影印篇)。そのなかの二点は「大和尚御房政所」に宛てられた解状(上申文書)である。よって打 聞集が大和尚政所にあった反故紙の裏を利用して作成されたことが分かり、この頼源解状案も同様 であったと推測できる。またそこには日吉社に関わる内容が多く、登場する地名は(1)近江・伊 香郡、犬上郡、愛智郡(2)東塔西谷・根本法花堂(3)因幡国大江社となっている。大和尚政所 は日吉社に関わりが深い寺院であった。だから頼源解状案での天台山も地域的なもの、ローカルな ものではなく、京都近郊、全国区での天台山、すなわち比叡山となろう。 次に天台山二宮だが、そこの御油(所)検校を勤めていた頼源が仲西郷に居住していたことが大 きな手がかりになる。二宮は彦山であろう。 彦山と比叡山延暦寺との共通性・一体性については 川添昭二・広渡正利編『彦山編年史料・古代中世編』517〜18頁に詳説されている。堂の名や 地名に著しい共通性があり、伝教大師御忌を彦山の年中仏事として執り行ってもいる。また比叡山 僧の彦山参詣、木練上人の阿蘇登攀記事中に「比叡山座主良源」の名が登場することなどが指摘さ れている。仲西郷周辺で比叡山に特に深い関わりを持つのは彦山以外にはない。彦山は天台山の宮 と位置づけられていた。 さらにその家は仲西郷にあった。彼の日常の布教拠点は蔵持山にあったと考えたい。もしそれが 彦山そのものなら居住地は仲東郷か田川郡になるはずだからである。彦山と仲西郷を直接に結びつ ける主要な道はなかった。城井浦は仲東郷だった。仲西郷は蔵持山の西から北にかけてであろう。 合併前の旧犀川町域に該当し、今日の鐙畑以北と考えられる。仲西郷での修験霊場は蔵持山以外に はない。のちに見る「彦山流記」のなかには「第二蔵持山窟」とある。蔵持山は第一の般若窟(玉 屋窟)に次ぐ彦山信仰体系での第二であり、重要な位置を占めていた。 ---------------------------------------------- 盗難・焼失動産は今の金で三千万円以上 さて頼源にはかなりの資産があった。この史料は途中に 紙継目がある。現存部分で解状の全てだったとはいえまい。位署者に彦山関係者がいないこと、解 の本文や日付、作成者の姓名・署判を欠くことからすれば、料紙一枚程度の脱漏があるようだ。し かし冒頭の事書から判断すれば、焼失、盗難品はほとんどが記されていた。 書き上げられた焼失物は(一部は引用を省略したが)、例えば錦衣五領(直各百二十匹)や、そ のほか襖三領や衣袴一下を始めとする高価な衣類や、ほかにも綴牛皮(敷皮か、ただし敷皮は虎、 豹、鹿、熊の皮が多かった)、また布や苧のような原材料、そして五帖袈裟(五条の袈裟)のよう な法衣であった。打刀もある。刀一腰の直(値)は十疋となっている。*襖、紺*襖もある。*は ユゴテ(弓篭手)、襖はアオ、およびそれを紺色に染めたものが紺*襖だった。ユゴテは武具であ り、前者は二領で十疋。後者の紺色染めは一領で十疋と高価だった。腹巻一領は刀や紺のユゴテの さらに倍、二十疋だった。腹巻、裳腹巻は僧兵の姿からすれば、やはり鎧か。 これらは一体いまの時価でいくらなのか。刀をもとに検討したい。大量生産されていたこの時代、 刀はピンキリだった。お茶の水女子大学の安田次郎氏が著者の質問に対し、福智院家文書中の新出 史料中の質入れ文書によって、以下の表を作成してくださった。 借入額 もの 借り手 応永7(1400) 1石6斗 カケムキノ刀1腰 当山聖賢房 応永10(1403) 2石 白太刀1腰、カエラキノ刀1腰 応永11(1404) 1貫文 刀1 行信房 同年 6斗 太刀1 結崎・左近次郎 応永13(1406) 1石2斗 打サメノククミノ刀1腰 豊田・浄栄房 同年 3斗 カエラキノ刀1腰 聖賢房 応永14(1407) 5斗 太刀1振 当山・瞬淵房 応永15(1408) 2石 白ウチクグミノ太刀1 浄宗房 同年 8斗 太刀1 田井庄・田中 応永19(1412) 4貫文 カイラキノ白太刀1 もっとも高いもの、梅花皮(かいらぎ・鮫皮)の白太刀(銀作り)で四貫文、安いものは三斗で ある。ふつう米1石=銭1貫、およそ十万円に換算できる。高いもので四〇万円、どうしようもな い安物で三万円といったところか。質入れしたのは庶民。こうした刀の所有者は庶民ばかりだった。 頼源は以下にみるように宗教界の支配者である。打刀とはいえ高級品を使用していただろう。現代 の時価にして腹巻鎧を六十万円、刀を三十万円と仮定しよう。こう仮定すれば、その十二倍だった 錦の時価もおよそ推定できる。つまり錦は三百六十万円相当で、それが計五領あったから、それだ けで千八百万円という計算になる。書上げられた盗難物、焼失物全体の中には「直」が書かれてい ないものもあるが、ざっと合計千疋以上はあっただろう。先の仮定で計算すれば家屋を除いても三 千万円以上の損害である。この書上(「紛失状」)には在地随近、そして郡司が証判した。焼失状 作成の目的には盗品発見時の確保などもあろう。後述する「千僧供・往来」の保全に最大の目的が あったか。ほかにも頼源の宗教活動が滞ったときの代替品の一時支給の請求などの目的があって、 こうした焼失状を作成し、公的機関の承認を求めたのかもしれない。 広大な私宅 彼の宅は三間四面(庇が四面にあったの意か)、五間三面、三間の三宇と倉二宇(五 間の倉と三間の倉)からなっていた。普通の家では決してなかった。ここに書かれたのは焼失した 部分だから、もしかしたら他にも焼けなかった建物があったのかもしれない。 三度の千僧供を勧進 さらに家に次ぐ物として真っ先に書き上げられた「天台山千僧供三箇度洩 (*曳か)進九千供往来度別三千口」に注目したい。千人の僧が参加する千僧供を三度実施し、一度の 参加僧が三千人、計九千人だったという。頼源はその「往来」を所持していた。往来は手紙類ない し記録であろう。三千人とは多少の誇大宣伝もあるような気さえするが、その事実を第三者、関係 者が位署し承認している。「天台山千僧供」とあるから、千僧供は天台山=比叡山で行われた。 頼源は、比叡山での大規模な法要、千僧供に関わる書類を持っていた。千僧供を実施するには相 当数の勧進僧が必要だった。頼源は彦山の側における比叡山千僧供の勧進責任者、勧進主体だった。 法要を支えた信者は、その数も何万人といたことだろう。往来は膨大な数の九州一円の信者との間 に交わされた書簡、そして行事の記録だった。信者の基本台帳ともいえる。 頼源は多数の信者を率いることができた。私宅は仲西郷にあった。蔵持山を拠点とする大先達だ ったとみたい。 何度も使った旅行用衣服 さらに焼失物は一般の「資財物」と「薬師記衣服」、そして「行貞服物」 に区分されている。水旱袴、袙などはそれぞれの項目に分けて書かれている。使用目的が違ったの だろう。このうちの「行貞服物」には特色がある。夏毛行騰、冬毛行騰があるが、行騰(むかばき) は外出、旅行、狩猟に用いる。馬上での下半身用雨具だ。水旱鞍、水旱鞍骨はむろん馬具である (水干装束に対応するような略装、軽易な馬具)。泥障は「あおり」(「障泥」とも書く)。馬具 の一部、泥除けである。したがってこれらはみな旅行用だったと分かる。つまり「行貞服物」とは 「行程<ギョウテイ>服物」の宛字ではないか。「一遍上人絵詞」や「法然上人絵伝」をみても、 馬に乗った僧侶はいない。頼源の格別の地位、資産力が分かるだろう。 ところで、この「行貞服物」には多くに「直」が書かれていない。水干袴は「資財物」とこの 「行貞服物」の両方に記載があるが、「直」は前者のみに記されている。一旦書かれた物は以下の 記述ではそれを省略したのか。そうともいえない。袙などは「資財物」の項にも「直」が書かれ、 「薬師記衣服」の項にも「直」が記入されている。「行貞服物」では「直」が書かれにくい物、値 段のつけようがないものがかなりあったとみたい。 しかし「直」が書かれたものもある。行騰と鞍である。行騰は旅行時の馬上雨具である。ここで は夏毛、冬毛といっており、鹿皮である。鹿皮は水を通さない。夏皮は夏(旧暦の四月から六月) の鹿にのみ出現する鹿子斑(かのこまだら、白斑)の模様が入り美しい。冬毛は厚いがファッショ ン性がない。皮としては実用本位だった。夏用が一腰直五疋であったのに対し、冬用が三疋と安か ったのはそうした理由によろう。 しかしそれにしても刀や狩衣袴の十疋に較べると格段に安く、夏皮で半額である。水旱袴の二下 で十五疋と較べても、冬毛で半額以下。少し安すぎるのではなかろうか。今も当時も大型動物の毛 皮は捕獲や製作に手間暇がかかり、刀や衣類に劣らず高価だったはずだ。安価だった理由は行騰が 新品ではなく、むしろ使用頻度が多く、かなり消耗していたためではないか。そしてそのことを頼 源自身が意識していたからではないか。多分に想像が混じるものの、先の「直」が書かれていない ものが多い点と合わせれば、それなりに合理的な解釈ではないか。そしてそれは頼源の旅行頻度の 多さ、すなわち外に出ての積極的な宗教活動を物語っている。 「行貞服物」の大半に値段が付いていなかったのは、それが消耗品であったからであろう。恒久 性のある馬具と行騰のみには資産価値があった。そしてこうしたことは随近として加判した周囲の 人間には周知のことだった。豊前・筑前はもちろん中国、九州を行脚し、中央比叡山とのパイプの ある大先達。それが頼源だった。 治療用に使う特別衣服 もう一つの項目は「薬師記衣服」であった。これも特定の目的に応じて用 いる品物(衣類)だった。薬師はなんと読むのだろうか。もし「くすし」と読めば医者である。医 者は治療行為の時には特別の衣服を用いた。神聖性を強調し、呪術性・宗教性を高めたのだろう。 白衣にも同じ効果があると思うが、よれよれの平服での治療では患者も直る気がしなかった。そう した医療用の特別な服の存在は広く社会に浸透していた。この項目から頼源は薬を扱い、祈祷によ る治療をして人心を引きつけていたことが分かる。まさしく頼源の人間像は、肥大化し富を蓄積す るやり手の宗教者の姿そのものであった。彼は「強盗」に襲われて全財産を失った。富裕であるが 故に襲われたともいえるが、はたして単なる物取り強盗であったのかどうか。千僧供の往来などは それを利用できるのはごく限られた一部の人間である。ふつうの人間に利用価値はない。故意に盗 まれた可能性も大いにある。頼源は敵も多い人物だった。 郡司の証明を受けたこの文書の正文は国司に送られただろう。そして案文は比叡山周辺の関係者 に送られた。そのことには盗んだ可能性のある敵対勢力への牽制という意味が多いにあった。 以上、検討の結果、仲西郷に住む天台山二宮御油検校僧頼源については、彦山第二の霊場、蔵持 山に拠点を持ち、北九州一円に広範な信者を持つ富裕な勧進僧であろうと推測することができた。 また中央の比叡山においても千僧供を通じて一定の発言力を持った僧だった。 治療用に使う特別衣服 もう一つの項目は「薬師記衣服」であった。これも特定の目的に応じて用 いる品物(衣類)だった。薬師はなんと読むのだろうか。もし「くすし」と読めば医者である。医 者は治療行為の時には特別の衣服を用いた。神聖性を強調し、呪術性・宗教性を高めたのだろう。 白衣にも同じ効果があると思うが、よれよれの平服での治療では患者も直る気がしなかった。そう した医療用の特別な服の存在は広く社会に浸透していた。この項目から頼源は薬を扱い、祈祷によ る治療をして人心を引きつけていたことが分かる。まさしく頼源の人間像は、肥大化し富を蓄積す るやり手の宗教者の姿そのものであった。彼は「強盗」に襲われて全財産を失った。富裕であるが 故に襲われたともいえるが、はたして単なる物取り強盗であったのかどうか。千僧供の往来などは それを利用できるのはごく限られた一部の人間である。ふつうの人間に利用価値はない。故意に盗 まれた可能性も大いにある。頼源は敵も多い人物だった。 郡司の証明を受けたこの文書の正文は国司に送られただろう。そして案文は比叡山周辺の関係者 に送られた。そのことには盗んだ可能性のある敵対勢力への牽制という意味が多いにあった。 以上、検討の結果、仲西郷に住む天台山二宮御油検校僧頼源については、彦山第二の霊場、蔵持 山に拠点を持ち、北九州一円に広範な信者を持つ富裕な勧進僧であろうと推測することができた。 また中央の比叡山においても千僧供を通じて一定の発言力を持った僧だった。 求菩提山先達、頼厳との共通性 さてこうした修験僧、頼源のイメージには、同じく彦山修験の勧 進僧であった求菩提山の頼厳が重なってくるのではなかろうか。頼厳はこの後の保延六年(114 0)に求菩提山に納経(経筒を埋納)し、つづいて康治元年(1142)には「大勧進金剛仏子頼 厳」として、三十三枚の銅板法華経を奉納した。現在この銅板経は国宝に指定されている(『平安 遺文』金石文編、257、268〜276)。 頼源の登場したのは嘉承二年(1107)で、頼厳とは三十年余の差がある。むろん用字も異な っており、直ちに両者を結びつけることはできまい。しかし読みがともに「らいげん」であったな らば、同じ彦山にいた大先達として同一人物の可能性は高まるのではないか。銅板経の執筆僧「厳 尊」は頼厳の一字をもらっているはずで、その場合には「げんそん」と読むのがふつうか。それで あれば頼厳の読みは「らいげん」だった。また重松敏美「求菩提山の歴史」(『英彦山・求菩提山 仏教民俗史料』)でも近世史料では頼玄とあり、寺内に伝わる呼び方も「らいげん」であるとする。 彦山に「ライゲン」といわれる重要人物が二人もいるのは都合が悪かったのではないか。 求菩提山の銅板経の作者が一年前の保延七年(1142)、国東の長安寺の銅板法華経(重要文 化財)作成者や太郎天の胎内銘の人物と四人までも共通することが指摘されている(前掲重松論文)。 国東六郷満山と求菩提山に共通するものは宇佐であろう。宗教者にとっては相互の距離は短かった。 もしライゲンが同一人物ならば、嘉承文書は作成者つまり頼「厳」に依頼された右筆、または案文 作成者が、音のみに頼って頼「源」と書いたものかも知れない。 この推定はいささか強引かも知れないが、少なくとも「頼」の一字は共通している。多くの信者 を有する先達、大勧進であり、彦山が活動の舞台だったことも共通する。彦山修験の世界で活躍し た「頼源」と「頼厳」は、仮に別人だとしても師子相承など何らかの密接な関連があったはずであ る。 ------------------------------------ 写真 周辺には仏岩のような山岳修験の遺跡もある。 写真 仏岩からみた鐙畑 写真 鳴滝----英彦山の修験霊地 ---------------------------------- B 『宇佐大鏡』が叙述した世界 次にこの周辺、祓川流域の城井郷、横瀬浦についての詳細な記述がある『宇佐大鏡』を検討した い。鎌倉初期に記された、今から八百年前の貴重な記録である。この記録は膨大な量がある。以下 に該当部分の一部を引用しておきたい。 一國々散在常見名田 豊前國 (略) 築城郡 田数 但半不輸之時、宮召加地子起請田 四百八十二丁九反* 大野郷 田数二百三丁三反卅 但半不輸之時、宮召加地子起請田 二百卅丁三丶卅 用作七丁 近来八丁八反 高墓(略) 桑田郷 田数百廿丁 已國半不輸之時、宮召加地子定、彼國半不輸之時牢籠畢 仲西郷 用作八反 末武三反 時末五反 公田十二丁四反廾 所当加地子稲二百四十九束四把 之外、無宮召物也 仲東郷 丁別米召田六丁 加地子田公田廿六丁九反 所当加地子稲五百三十八束也 外無宮召物也 仲北郷 (中略) (中略)--------------------------------------------------------------------- 處分豊前國私領田畠等事、田地二百八十七丁八反卅之内、築城郡桑田郷田二百六十二丁六反*代 四至 傳法寺 本庄四十町 加納三百余町 大宮司公順令處分七男公経状 以仁平二年、立券成勝寺御庄也、近来本家八条女院、但依院宣相博肥後國阿蘇宮歟、 處分豊前國私領田畠等事、 城井 仲東郷城井浦四至 限東屋岡 限南高座 限西仲西郷高屋浦上道 限北加女淵 田地二百八十七丁八反卅之内 築城郡 桑田郷 田百六十二町六反*代 畠 四至 東限赤幡社 南限傳法寺堺二石 西限船坂峯 北限熊瀬木大路 広幡社 田十町 或注文六丁 近来被押領奈古庄天、所残僅一丁余也云々 仲東郷城井浦横瀬浦 田二丁六反*代 畠 橘社 田十一丁 本田四丁 浮免七丁 近来国衙押止之 四至 東限高山嵩 南限幡野渡瀬 西限高山嵩 北限逆清水堺 赤幡社 田六丁 本ハ府領也、近来被押取桑田庄也 以下、仲津郡及び築城郡内にあった宇佐宮領の由来が詳述されている。掲示した部分には築城郡 の名しか登場しないが、文中には「築城郡仲東郷両郡内」とあって、ここに登場する地域が二つの 郡域に関わることが明らかである。仲東郷の名は仲津郡の東部にあったことに由来しよう。これに よると ○仲津郡仲東郷に所在した宇佐宮関係の所領 城井浦(城井郷) 城井郷字横瀬浦 幡野浦(引用箇所にはない) ○築城郡内外の宇佐宮領 桑田郷 傳法寺 大野郷(引用箇所にはない) 広幡社 赤幡社 橘社 ○他領の荘園 桑田庄や奈古庄 があった。桑田、伝法寺、赤幡、奈古等の地名は今日も築城郡内の集落名に現存し、広幡は広末や 水原、越路の小字に残る。 ------------------------------ 地図 『宇佐大鏡』関連の地域<昭和初年の五万分の一地図・『大日本近世史料・小倉藩人畜改帳』 所収より> ------------------------------- 城井浦の四至 今日城井(木井)はその地名が築城郡(たとえば城井郷、城井川)にも、仲津郡 (たとえば木井馬場)にも残る。この『宇佐大鏡』中の「城井浦」の境界は「四至」、つまり四方 の表示で示されている。その東は「屋岡」、南は「高座」、西は「仲西郷高屋浦上道」、北は「加 女淵」だった。 このうち高座、高屋はいまも集落の名に残っている。そこでそれ以外の二つの地名について『明 治十五年字小名調』によって仲津郡内の字名を検索した。すると、「加女淵」については内垣に 「亀渕」があり、井手の名前になっている。内垣は今日の豊津町と犀川町の境界に近い村で、くわ えて亀淵は城井との境である。仲津郡にあった城井浦の北限にふさわしく、「加女淵」すなわち 「亀渕」と考えたい。今も猫石と呼ばれる大岩を始め、巨岩が多い。昔から淵があったのだろう。 残念ながら「屋岡」らしき地名は見つからないが、この三点によって北西南が囲まれる範囲は、ほ ぼ今日の木井馬場近辺、横瀬を含む一帯に該当するといえる。 仲東郷について『宇佐大鏡』が仲津郡と明記していないことからすると、中世にはこの地域の一 部に築城郡が及んでいた可能性も考えられなくはないし、後述のようにそのように主張する勢力も あったように思われる。しかし四至復原や彼らの主張からすれば、城井浦は仲津郡内に収まってい たと考えたい。仲東郷にはいくつかの郷があったが、そのひとつに城井浦(城井郷ともある)があ り、その城井浦の字に横瀬浦があった。城井浦の南限を高座とすれば、その内部に横瀬があったと いう関係もきわめて適合的だ。 さてこの史料からは平安期の城井郷および一帯の状況が分かる。多少煩雑ではあるものの、貴重 な史料なので、以下に見ておきたい。 一 伝法寺領(今日の城井馬場も含むと考えられる地域)の沿革 まず伝法寺領についてみる。というのは中世の伝法寺には今の城井馬場地区も含まれていたことが 考えられるからだ。伝法寺の領有をめぐっては次のような二通りの主張があった。 (1)宇佐(公通系)側の主張 伝法寺は宇佐宮祝大神宮方の所領であった。大神は姓でオオガ、宮方は名前であろう。承徳二年 (1098)それを養子神寛に譲り、その神寛が天永元年(1110)宇佐宮の仮名常見御領に売 却した。明白な神領である。 (2)対抗する勢力の動向 A摂関家と園城寺 宇佐大宮司公基が死去した際、惟宗高実が文書を探し出してきて、それが宇治禅定殿下に伺候し ていた別所阿闍梨房の手に渡った。彼は文書(公験)を押取って、それを宇治僧正御房に寄進した。 そしてただ伝法寺の本領を押領するばかりではなく、四至の内だといって、桑田・大野両郷の名田、 さらに城井・幡野・三箇社(広幡、橘、赤幡社)まで、加納にしてしまった。 以上が『大鏡』の記述の最初の部分である。さてここに登場する人物それぞれは、いったい誰な のだろうか。宇治殿でもっとも有名なのは藤原頼通、宇治僧正といえばその六男、三井寺(園城寺) 長吏覚円(1031〜98)だ。天台座主、法勝寺別当にもなっている。しかし宇佐大宮司公基の 死去は久安四年(1148)だった(『兵範記』仁平三年<1153>十月十二日条)。かれらで は時代が半世紀ほど古すぎる。 宇治禅定殿下 「宇治禅定殿下」は頼通の曾孫、関白藤原忠実(1078〜1162)に比定でき る。彼は宇治入道殿と呼ばれている。禅定殿下ともあるし(『兵範記』、ほか応保二年<1162 >十一月 日・高野山文書)、仁平二年(1152)五月十六日の春日神社文書では端裏書ながら 「宇治禅定殿下御下文」とある。五味文彦『院政期の研究』(一四九〜五一頁)によれば、忠実は 天養元年(1144)から久安五年(1149)まで、つまり如上の事件の直前ないし最中には、 大宰府の知行主であった。そしてその間の大宰大弐は彼の家司源憲俊だった。この期間中に在地関 係者が忠実の勢力と接触することはおおいにあり得たし、彼らの意識をも変えていっただろう。 宇治僧正 宇治僧正については、従来の研究でも比定がされていないが、覚円の後継者が想定され る。該当する人物に久安五年(1149)に宇治大僧都、以後宇治法印といわれ、保元元年(11 56)九月二十五日に権僧正になった覚忠がいる(『兵範記』)。『系図纂要』の注記には「号千 手院また長谷 宇治僧正」と記されている。系図では関白忠通の子、つまり忠実の孫になっている。 園城寺長吏になったのは早く、仁平三年(1153)三月である。『宇佐大鏡』に登場する宇治僧 正とは時代的にも人脈的にも彼がふさわしい。 覚忠は、『尊卑分脈』や『系図纂要』などでは、関白忠通(1097〜1164)の子で、九条 兼実(1149〜1207)や慈円(1155〜1225)の弟となっている。ところが治承元年 (1177)に六十歳で入滅となっているから、1119年か20年<元永二〜三年>の生まれと なる。長子基実(1143〜66)や基房(1145〜1230)と較べても格段に年長である。 むしろ忠実の子頼長(1120〜56)に年は似通っている。 多賀宗隼『玉葉索引』(四四九頁)は「三井寺の法印覚忠はいうまでもなく、兼実の異母兄であ る」とする。「園城寺伝記」(『大日本仏教全書』)も「法性寺殿(忠通)息、覚忠」とする。 「寺門伝記補録」(同上)二二四頁は、覚忠のもっとも詳しい伝記だが、やはり忠通の子となって いる(*なお覚忠の経歴についてはこの本の一三六頁,四三六頁などにも記事がある)。 こうした忠実との世代の較差が、著者の場合には、宇治僧正イコール覚忠とする判断をいくぶん 躊躇させた。たしかに1119年頃忠通は成人しており、子がいても不自然ではない。しかし摂政 家の第一子が出家するだろうか。女子は1121年に皇嘉門院聖子が生まれている。大治元年(1 126)には男子が生まれたが夭折した。しかし覚忠は大治の幼児よりも七年も以前に生まれてい る。大治元年四月の幼児誕生の記事(『中右記』)にも、既に男子がいたなどとは書かれていない。 むしろ男子誕生が待ち望まれていた状況が綴られている。天治二年(1125)の『中右記目録』 四月二十三日条に「大殿(忠実)若君、成摂政殿(=忠通)御子給」という記事がある。頼長が異 母兄の忠通の子(養子)となったことを指すといわれている。忠通の嗣子となった基実が誕生(1 143)したのは、彼が四六歳の時のこと。この養子の話は忠通二八歳、男子がなかった頃におき た。 * 旧稿では覚忠が忠実子である可能性を考えた。しかし覚忠母が摂関家当主の母にふさわしくないと か、あるいは覚忠自身が摂関家当主にふさわしくないと考えられた、などの事情があったのかもしれ ない。成人すれば親子関係は外見からも明確になる。覚忠は史料の記述通り、忠通子であるとし、 訂正したい。 以上の考察により、『宇佐大鏡』が叙述された時代に「宇治禅定殿下」は忠通、「宇治僧正」は その子の覚忠となる。一連の事件が起きた久安四年(1148)には覚忠はいまだ僧都だったが、 このとき三〇歳前後、忠通との関係から将来はまちがいなく約束されていた。 別所阿闍梨房 「別所阿闍梨房」に該当する可能性のある人物には三井寺(園城寺)および法勝寺 入寺僧、別所阿闍梨静慶がいる(『後二条師通記』寛治七年<1093>十二月八日条、『中右記』 大治四年<1129>七月十日条、長承元年<1132>三月十三日条)。三井寺僧として覚忠とも 接点がある。園城寺に拠点を持ちつつ、在地にも関連を持つ人物だった。先に彦山と延暦寺の関係 を見た。延暦寺に近いにも関わらず時に激しく対立する三井寺。そうした宗教的世界が、はるかな 豊前の地においても展開されようとしていた。 宇治僧上房領との交換の意味 さて先に築城郡内ばかりか、仲津郡にまで及んで宇治僧上房(=覚 忠)領が設定されたことをみた。さすがにその時には桑田郷の内御供田三十九町と、および本数五 十町の内の代(=代わり)として小山田浦を一円不輸として宇佐宮領に寄進したという。だが、も ともと桑田神領は本数二百六十二町六反四十代ある。御供田を除いてもなお半不輸領として二百二 十三町六反四十代ある(史料上「百六十三町」になっているのは写し誤り)。それなのに「僧正御 房」=覚忠の威勢を背景に押妨し、さらに築城郡仲東郷の二郡内の宇佐宮領までも、打ち入れてし まった。そういって宇佐宮側は憤っている。 こうした主張の背景には宇治僧上房領の成立時に、一円不輸領(全部の年貢が宇佐宮分となる領、 面積は狭かった)と、半不輸・神領(一部の年貢が宇佐宮分となる領、面積は広かった)との交換 があって、のちになってから宇佐宮側がそれを不満としたことがあるのではなかろうか。そのよう に推定できる。なおこうした背景には、宇佐宮内部にも公通系と公経系の両系統の大宮司家の対立 があったことが指摘されている((工藤敬一『荘園公領制の成立と内乱』)。 阿蘇社領伝法寺----覚忠と阿蘇社の対立 四年後の仁平二年(1152)になって六勝寺の一つ成 勝寺(保延五年<1139>崇徳天皇建立)の荘園として伝法寺が立券された。本家は八条院であ るが、近年に相博(交換)によって阿蘇社領になった、と『大鏡』は大宮司公順の譲状を引きつつ 述べている。相博前の伝法寺領家職(ないしは預所)は久安以来の覚忠だっただろう。相博前には 阿蘇社は伝法寺が自領であるとの主張を展開したと思われる。 この延長上の事件として、『玉葉』承安五年(1175)四月十五日条に覚忠と阿蘇社が登場す る。 「阿蘇社、自去年為祈神領被押取、前大僧正(=覚忠)新立庄事、坐山崎辺云々、而一日比、依院 宣、被追下社司等、猶致訴訟、法皇怒、責追之、社司等給検非違使云々、件社、八条女院知行給、 定房(卿)領所也、而依此間事、奪彼社、給前大僧正云々、未曾有々々々」 『玉葉』中での「前大僧正」は覚忠である。阿蘇社側がその神領につき、院に覚忠の行為を訴え ていた。この時は法皇の怒りをかった阿蘇社側が覚忠に敗訴した。阿蘇社と覚忠(=寺門派、摂関 家)との関係は親密ではなく、逆に対立関係にあった。 彦山・伊良原と阿蘇信仰 阿蘇社自体は宇佐宮・彦山と関係が深かった。そのことは先にも若干引 用した木練上人と阿蘇社に関わる「彦山流記」の記述から推測できる。また伊良原でも下高木神社 (大行事社)のうち、正保四年(1647)再刻の僧形男神座像の背部陰刻銘には 「森之宮白山大行事者彦山七口之一也、貞応元年<1222>三月十四日輿阿蘇大明神同時於荒良 鬼山遷座」(銘文は今回の錦織亮介先生の調査によった) また緒方寅夫氏の調査(「下伊良原高木神社棟板記録」『郷土誌さいがわ』一、昭五六)によれば 「阿蘇大明神寶殿一宇 寛文三年 癸卯年」 と棟板にある。彦山と山麓の大行事社の信仰の中には阿蘇社と一体となった部分もかなりあった。 城井浦を阿蘇社が支配すれば、現地機関として彦山が果たす役割は大きかったのではないか。古 代末の所領の阿蘇社領化は宇佐宮内の人間また彦山には歓迎すべき行為であり、そこに相博の意味 があった。 伊良原には他にも肥後との関わりを語る伝承がある(たとえば釜の河内の「疲猪」が肥後の「か ま」の国からきたなど)。地理的にいえば筑後川流域の南限が阿蘇外輪山、北限が彦山であり、両 者は案外に近くて交流があった。 伊良原にも浸透した阿蘇信仰。それにはこうした隣接地域の歴史的背景、すなわち城井浦までを 阿蘇社が支配していたという歴史的事実があった。 さて『大鏡』ではつづいて城井浦についての沿革が叙述され、宇佐側の主張が展開される。 二 城井浦の沿革 以下は『大鏡』の記述がきわめて煩雑なので、年表に従って記述する。 ------------------------------------------------------------------------ <城井浦をめぐる平安後期の年表> 1058〜 仲東郡城井浦は豊前国追捕使、すなわち在庁官人早部安恒の私領だった。そして宇佐宮の佃人、 二人が耕作し、そこからの収穫米を宇佐宮に年貢として収めていた。そのことは(安恒から提出さ れた)天喜六年(1058)の請文で決定されていた。それは帥大納言(藤原経輔*註1)の任期 の時のことである。ところがその安恒が、府使(大宰府使)を殺害するという事件を起こして逃走 (「逃脱」)してしまった。 1064〜 そこで康平七年(1064、それは宇佐では惣検校公則の時代だったが)、宇佐宮の貫首漆嶋清 経を派遣して城井浦を点定(占有)した。そこで安恒の弟の権掾貞恒が、その年の四月八日に収穫 米を宇佐宮に納めるという請文を提出したので、城井浦を預からせることにした。そうしたところ に安恒は度々の赦によって許され、もとのように領知していたのだが、死去してしまった。そこを 弟の貞恒が公験(相伝を証明する文書)を捜し出して、押領した。 1084〜 貞恒はその死去に際して、つまり永保四年(1084)五月二日のことだが、その公験を太子 (娘、おおいこ)に譲渡し、太子が領知することになった。 1094〜96 嘉保年中になって(1094〜96)、安恒の太子と、貞恒の太子が争うことになり、大納言帥 殿(大納言源経信)の御廰において裁決がなされた。裁決の結果、このときは「元来安恒領である」 ということから、安恒太子の領であることが認められた。そして太子の責任によって、宇佐宮への 納入がなされることになったので、太子の預かるところ(太子が預所となる宇佐宮領)になった。 1099〜1104 康和年中(1099〜1104)になって、全く思いがけないことに安楽寺が城井浦を押領しよ うとしてきた。このときも国司に書類を帖送して、次のように宇佐宮は主張した。つまり城井浦の 山については宇佐宮の宮柱を出した山であり、以来三十三カ年に一度の遷宮、六年に一度の装束御 輿料の杣山と定まっている。田畠については安恒の負物(借金)の代(代わり)として宇佐宮が点 定(占有)したものだ、と。この宇佐宮の主張が認められて、府裁(大宰府の裁定)によって、安 楽寺の主張は退けられた。 1107 嘉承二年(1107)十一月 日に安恒太子が一男(不知山永正*誤記があるか)、二男(藤原 助行)の連署を提出し、安恒の負物の代として、相伝の文書を神領に渡した。 1109 こうした動きはあったが、そもそもの本公験(根本の支配文書)は依然安恒が娘の太子に渡した ままで、敵方の手にあった。そこで宇佐宮は将来のことを考え、天仁二年(1109)四月二日に、 見直(現価)を太子に与えて、その一男(膳弘実)から買得した。以上をふまえて詳細な実情を記 し、宰府(大宰府)に牒を進め、安堵の府下文を得ることができた。 1123 保安四年(1123)五月二十一日に、城井浦からの地子は宮司公順の沙汰として、最勝御八講 に宛てることとして寄進された。このようにして五月二十五日からの御八講には供料米が納入され て、欠かせない所領となっていた。 1148 ところが述べたように、久安四年(1148)の宇佐大宮司公基の死去を契機に、伝法寺本領が、 まったく何の根拠もなく、宇治僧正の領になり、本来の宇佐宮領三百丁あまりが四至の内だとされ てしまった。それはその地の地頭大蔵種人とその子供の種遠が権威や武力に頼って押領したものだ から、宇佐宮の本家である高陽院(藤原忠実女子・鳥羽院皇后)に事情を述べて、訴えた。 1151〜54 そこで鳥羽院の沙汰として、仁平年中(1151〜54)に種人やその与力人の濫妨を停止する よう、鳥羽院庁下文が出された。ところが種人らが承引しない。そこで雑掌や神官が関連の文書を 添えて訴えたところ、両者が対決したうえで道理によって正否を決めよといわれた。ところが種遠 は文書は鎮西にあると嘘をいうので京都では対決できない。それでは大宰府で対決せよということ になって、九州に戻ったが、今度は文書は京都にあるなどという。そんなやかやで謀計によって、 未だに押領を続けている。 仲東郷内幡野浦 1121 この時あわせて伝法寺領に組み入れられてしまった幡野浦は、もちろん伝領を異にする。ここは 葛井宗任の相伝の私領であり、大宮司公順の時、見直(現価)を与えて、保安二年(1121)七 月二十六日に買得した。それを仮名多米稲光という所領に立てて領知してきた。今後の証拠とする ために、宰府の下文も賜ってある。その後はずっと宇佐宮領として揺らぎはなかったが、伝法寺加 納に打ち入れられ、種人、種遠に濫妨されている(註2) 赤幡社 1121 赤幡社は元来府領(大宰府領)である。源帥卿(権中納言源重資)の御任の時、(宇佐宮の)御 宝前に於いて千手陀羅尼を勤修するため、その料として保安二年(1121)三月八日、三箇社 (赤幡社、橘社、広幡社)が寄進された。赤幡社はそのひとつである。だから広幡、橘の両社はい まも神領として勤めをはたしている。城井、幡野、横瀬、揃って(=「并」)この三箇所は仲東郷 の内である。 年表註 1この時期の大宰帥は中納言であった藤原経輔である。すなわちかれは康平元年(1058)四月 二十五日の着任で、七月三十日に権官となり、康平六年(1063)二月二十七日までその任にあ った(『公卿補任』)。帥の在任中は中納言だったが、経輔はまもなく康平八年(1065)十二 月八日に権大納言になった。以後彼は帥であった大納言という意味で、「帥大納言」と呼ばれるよ うになる。『宇佐大鏡』での「帥大納言」とは後の呼称だから経輔でよかろう(『後二条師通記』 永長元年(1096)一月二十八日条)。田中篤子「大宰府・大宰大弐補任表」(『史論』26・27)。 2四宮八幡社の棟札(『犀川町史』九一八頁)に「嘉承元年葛井宗任再建」とあって、幡野浦を喜 多良に比定する見解もある(木村達美氏ご教示)。稲光の付く仮名は田川郡にも虫生稲光がある。 ------------------------------------------------------------------------ 城井浦をめぐる所領争いの意味 年表からおおよそ汲み取れるように、城井浦の所領争いの根底には早部安恒(あるいは早部は日 下部、草部か)と弟貞恒、そしてその子らに続く兄弟、従姉妹の骨肉の争いがあった。 安恒は天喜六年(1058)以降に「府使」(大宰府使)を殺害した。もともと安恒は反大宰府 的な立場にあったのだろう。一方貞恒は権掾(すなわち国司の三等官)であって、在庁官人だった が、『大鏡』の別の箇所によると、府(大宰府)*杖でもあり、その妻は府の貫首、道信の孫で、 早世した貫首道時の大子(おおいこ、娘)だった。*杖とは大宰帥、または大弐などに、朝廷から 与えられた警衛官である。帥には八人、大弐には四人が与えられた。その兄安恒と異なり、貞恒は 大宰府直属の官に補任されており、親大宰府的立場が明確である。嘉保年中(1094〜96)両 者の争いは大納言帥殿の御廰において裁決された。帥としての立場で裁決されたのなら、城井郷は 大宰府領になっていたか。そうであれば貞恒の押領とはイコール大宰府領としての設定をいおう。 あるいは帥は単なる調停者か。 これらは九州中央での政治的な動きが豊前国仲東郷の在地にも反映されたものである。 藤原宗忠の日記『中右記』の寛治八年(1094)五月五日条以降に、 「但安楽寺弥勒寺彦山闘乱之輩-----」 と彦山衆徒と大宰府安楽寺の闘乱の記事が出てくる(以下による)。注目したいのは「弥勒寺彦山」 「宇佐宮黄金正体并彦山」のように、彦山が宇佐宮(弥勒寺)と一体であるかのような記述がなさ れていることである。『中右記』は京都で書かれたものだから、多少の誤認もあるやもしれないが、 実は彦山と宇佐宮の親密な関係については、彦山中興開山とされるのが宇佐宮の法蓮であること (『人聞菩薩朝記』仁平二年<1152>)、彦山地主神北山殿も宇佐八幡と同体の豊比*命を祭 神とすることなどにも明らかである(前掲書66頁)。九州では大宰府の支配を嫌うものは中央志 向となる。。中央に直結している宇佐宮と結びつきやすかった。もともと国家の庇護を受ける宇佐 宮の社領は、大宰府の府領の得分の内から宇佐分として割き与えられた。しかしこうした対立のな かでは大宰府は安楽寺領化を進めるから、宇佐宮も自前の社領を要求する。宇佐、彦山は反大宰府、 反安楽寺になりがちだった。康和年中(1099〜1104)に安楽寺が城井浦を押領しようとし た。これも大宰府領から安楽寺領への流れの一つだった。 板井種遠 ところで久安四年(1148)以降、地頭大蔵種人とその子供の種遠が登場する。この 大蔵種遠は板井種遠である。種遠は豊前国在庁税所職であるが(正和元年十二月二十七日・到津文 書)、一方では大宰府府官大蔵氏の出自であり、大宰府側に立つ。すなわち反宇佐宮の立場が明確 だ。仁平年中(1151〜54)の行動に見るように、彼は京都にいることが多く、中央志向だっ た。摂関家との結びつきからすると、摂関家大番舎人だったか。自身は平家方人原田種直の姪を妻 とした。しかしのちには宇佐宮の平氏接近により反宇佐の立場を翻した。その娘は宇佐公通の子公 綱の妻になっている(『元暦文治記』)。だがこの段階では種遠と宇佐宮の間には相当な隔たり、 対立関係があったようだ。 橘社について なお広幡社は奈古庄に押領され、赤幡社は桑田庄に押領されており、それぞれの隣接地域だった (冒頭引用箇所)。また桑田郷の四至は東は赤幡社、南は伝法寺堺というものだった。三箇社のう ち二社は築城郡内で、赤幡は今日の築城郡赤幡である。 一方、橘社については四至の記載がある。それによれば「東は高山嵩、南は幡野渡瀬、西は高山 嵩、北は逆清水堺」である。『大鏡』が強調するように幡野は仲東郷、つまり仲津郡であった。こ の記述から橘社が、犀川町上高屋に現存する橘神社であるとした先の判断にまちがいのなかったこ とが確認できる。高屋自体は見たように城井浦の西限に「仲西郷高屋浦上道」とあって仲西郷であ る。橘社の四至のうち、逆清水は未確認だが、東西が山、南が幡野への渡瀬だったということから、 おおよその範囲が推定できる。 『宇佐大鏡』にみる祓川流域 幡野浦は橘社の四至記載からすれば、橘社以南になる。伊良原の高座以北に仲東郷内の字として 横瀬浦があった。北部には内垣以南に同じ郷内の城井浦があった。城井、幡野、横瀬という書き上 げ順からすれば幡野は城井と横瀬の中間に位置するか。横瀬には「畑野屋敷」という小字名がある。 幡野浦を拠点とし、苗字とした一族の屋敷があったか。 高座以南、今日の伊良原中心部と、帆柱地域が何という浦に属していたのかは、史料がない。仲 津郡は仲北、仲東、仲西の三郷のみが文献上確認できる。仲南郷の存在は確認できないが、もしそ れがあれば伊良原は仲南郷に属していたのであろう。そうでなければ仲東郷だった。 以上を要約すれば、仲東郷のなかには城井浦(城井郷)、幡野浦、横瀬浦があり、いずれも当初 の領主は大宰府や豊前国の官人であった早部安恒、ないしその弟の貞恒、あるいはまた葛井宗任の 私領であった。 かれらは大宰府側に立つものと、反大宰府側に立つものがおり、それによって府領が設定された り、否定されたりする。反大宰府側に立つもの(たとえば早部安恒)は宇佐宮側に接近した。これ に呼応して大宮司公順の頃には、寄進、買得により宇佐宮領の増加が図られていた。 こうした動きは『中右記』寛治八年(1094)条に記された彦山、およびそれの背後にある宇 佐宮と、対する大宰府安楽寺との闘乱などに反映されている。一方康和年中(1099〜1104) には城井浦において、安楽寺が宇佐宮の支配を退けて寺領を設定しようとしていた。これもその反 映である。しかし藤原忠実が大宰府の知行主であったときに、豊前の有力在庁でありながら、大宰 府にも接点を持つ大蔵種人や(板井)種遠が積極的に動く。そして摂関家とも関連の深い園城寺系 の人物を仲介して、久安四年(1148)には宇治僧正覚忠の荘園が成立する。これは従来の大宰 府官人がとった動きとはまた異なる中央志向の第三の動きで、摂関家による大宰府支配、すなわち 中央の九州への急接近に対応したものであった。それは決して一枚岩ではなかった宇佐宮の分裂を 利用した動きでもあった。 さてわれわれが調査の直接の対象とする伊良原。そこでの宗教的世界では蔵持山を拠点とする彦 山勢力、そしてそれと結びつく宇佐宮と、城井浦に進出しようとする安楽寺勢力、のちには園城寺 の勢力が激しく対立した。対立の最前線でもある。世俗の世界でも城井谷を所領とした宇都宮氏と、 伊良原を所領とした彦山との緊張や融和もあった。彦山が中世に伊良原を領有していたことを記す 文書はないが、元和八年(1622)の『小倉藩人畜改帳』には上伊良原村の領主の一人として 「彦山座主」が書かれている。中世の支配を一部継承したものであろう。こうした聖俗のせめぎ合 いは山麓の伊良原の生活にもさまざまな影響を与えたことだろう。 伝法寺庄地頭宇都宮氏 今日、城井は城井川流域の築城郡と、木井馬場一帯の仲津郡を指す場合が ある。近世の史料(後述「進家文書」目録143)には「東西城井谷」と表現され、貝原益軒が元 禄七年に衣笠半助に画かせた城井谷図にも東城井谷、西城井谷と記されている。こうした二郡にま たがる「城井」の性格は、古く平安時代末期にもこうした伝法寺領の成立のような形で表れていた。 伝法寺領の成立を主張する側はおそらく、城井郷も築城郡伝法寺の内といったのであろう。それが 故に『宇佐大鏡』はくり返し、城井郷、横瀬浦、畑野浦は仲東郷の内と強調した。 伝法寺の地頭であったのが大蔵(板井)種遠だった。その種遠の所領を継承したのが宇都宮氏で ある(到津文書・正和元年鎮西裁許状、佐田文書・延慶二年鎮西下知状)。宇都宮氏の所領が築城 郡の東城井谷と、仲津郡の西城井谷であったことにはこのような二郡にまたがる「伝法寺庄地頭」 としての歴史的背景があった。