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         伊良原の歴史と地名・地誌

  福岡県教育委員会『伊良原--県営伊良原ダムで水没する福岡県京都郡犀川町伊良原地
  区における民俗文化財調査-----』<福岡県文化財報告書143集>      177〜262頁

                                    服部英雄


伊良原歴史編(中)

C 「彦山流記」の世界  さてこうした宗教的世界を彦山の側から叙述したのが「彦山流記」(前掲『彦山編年史料』所収) である。この史料には「建保元年癸酉七月八日」の紀年がある。干支は正しいのだが、建保元年の 改元は建暦三年(1213)十二月六日である。つまり建保元年七月八日という日は日本史上は存 在しない。そのことは既に先学によって指摘され、問題にされている。さらの『添田町史』は今熊 野石窟が石仏の刻銘によって嘉禎年間に造立されているはずなのに、それ以前の建暦に既にこの石 窟のことが記されていることにも疑問をさしはさむ。「彦山流記」が、建保元年よりは後の時代の 作成であることは明らかである。したがってまずこの「彦山流記」の真の作成年代を確定する作業 が必要になってくる。このような改元前に使用された年号を未来年号といった。未来年号は比較的 近接した時期に、過去を回想して遡った日付で書かれた場合と、逆に後代にそうした改元の日付に 無知なために使用された場合、つまり偽文書である場合がある。宗教的世界では、日本においては 高野山の作成した「弘法大師御手印縁起」、あるいはヨーロッパにおいては偽イシドルス法令集 (コンスタンチィヌス帝寄進状)など、著名な偽文書がある。高野山の場合は本来の寺領荘園以外 の地域をも含む、広大な地域を高野山領と主張するために作成されたもので、偽作でありながら絶 大なる効力を発揮し、高野山はこれをもとに所領所有の正当化を主張し、集積しようとした。 「彦山流記」の場合は、それらと違って所領に関わる記述はない。彦山修験の霊場や、各僧の事 績、奇瑞などが主たる内容である。彦山の宗教的権威を裏付けるため、ある時期に作成され、建保 という鎌倉初期の時代に仮託したものと見るべきであろう。内容は彦山内での伝承・記録が主で、 とりわけての創作は少ないと考えたい。  この「彦山流記」の内容については、既に川添、広渡両先生による前掲書を始め、先学による大 部の研究がある。したがって詳細な考察はここでは略すことが可能だろう。伊良原に関しては、蔵 持山窟(第二窟)の縁起が詳しい。静*聖人の建立になり、彼に関する空鉢伝説などが語られてい る。また鷹窟(第十一窟)は岩屋河内の鷹窟権現である。  「彦山流記」で語られるのは彦山の宗教的世界である。世俗的世界は語られていない。だから蔵 持山、鷹窟権現の山麓にあった伊良原の各村々が、どのように彦山と関わっていたのかは、直接に は語られていない。  なお蔵持山関係の遺品に金銅十一面観音懸仏があり、「宝治元年<1247>四月 日 草部國 宗」とある。昭和五八年に福岡県指定有形文化財(工芸)に指定された(『犀川町誌』一〇〇五頁)。 安藤守「蔵持山神社『懸仏』発見について」(『郷土史さいがわ』)に詳しい報告があるように、 廃仏毀釈時に山外に移され、昭和三二年まで高座の谷守家に、ついで昭和五五年までに同じく高座 の高田家に伝存していたもので、そののち蔵持山に再奉納された。  ほかに山内遺品に永享八年(1436)および宝徳元年(1449)、また無銘の鰐口三点があ り、平成一〇年末の段階で、福岡県指定有形文化財の指定を申請中である(詳細は本報告書の錦織 亮介先生の報告をみよ)。また『太宰管内志』あるいは『福岡県地理全誌』に上座郡岩屋権現(宝 珠山村)の鰐口につぎのような銘のあることが記されている。  「奉施入蔵持山北山殿 願主金剛仏子智乗敬白   宝徳二年三月吉日 藤原頼安 」 蔵持山より移動したものである。  また蔵持山の遺跡については『郷土誌さいがわ』(蔵持山特集その1)に詳しい。山内には多数 の中世の石造遺品があるが、残念ながら紀年銘のあるものは、今のところ見つかっていないという。


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