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犬追物を演出した「河原の者」たち・犬の馬場という地名から              服部英雄  2005/7/8毎日新聞・夕刊学芸・福岡より

 わたしの勤務地である福岡市の六本松から西に向かうと、まもなく弓馬場という 交差点がある。一帯は昭和46年まで弓馬場町という町名で、インノババといい、 犬馬場とも書いた。犬の馬場とは変わった地名だが、犬追物が行われた犬の馬場が あったことに因む。犬追物は中世の武士がたしなんだ武術の一つで、流鏑馬・笠懸 とならぶ馬上での弓術(騎射)である。動く犬を標的にした。流鏑馬・笠懸は疾走 する馬上から固定された的(的板、笠)を射る。犬追物の方は、土俵の中心から逃 げ出す犬を周りで待機する十二騎の武士が射る。土俵には五〇センチほどの太い綱 があり、飛び越える一瞬にスピードが落ちる。そこをねらう。この段階までは馬は 走らない。ここで失敗すると、逃した三騎が犬を追いかける。標的の犬も追う馬も 疾走する。見るものには面白かったが、たいていは当たらず、しばしば武士は落馬 した。鎌倉時代の博多、鎮西探題の屋敷近くにも犬の馬場があったと、『博多日記』 は記述する。地方でも室町時代の有力武士がいた地域には、この地名が多く残る。 たとえば福岡県内には一四ヶ所もの地名が残る。馬場は館の正面か、郊外の荒れ地 が多かった。  犬追物には大量の犬が必要とされる。少ない場合でも一五〇匹は必要だった。大 規模な犬追物では千匹を使うこともあった。犬を集めよ、もし集められなければ三 百五十貫(今の金額にして5000万円以上)を代わりに出せと、細川勝元(室町 幕府管領)が命令した記録がある。こんなにたくさんの犬をどうやって集めたのだ ろうか。多くの犬は「河原の者」が集めた。河原の者は差別され賤視された集団で ある。「洛中洛外図屏風」には京都の町で、河原の者が飼い犬らしき犬を捕獲してい るシーンが描かれている。エサにつられて尾を振る犬は、次の瞬間、彼の手で捕獲 され、後ろの人物が持つ大きな袋に入れられた。絵の犬の運命は分からないが、犬 追物用の犬はその日まで、飼育された。  ダイナミックな犬追物はしばしば屏風絵など絵画の題材になった。そうした犬追 物絵に河原の者が登場する。犬一匹にかれらの一人一人が付いた。馬場外にいて、 犬を引き渡した。受け取って馬場に引き入れる。それもまた別の河原の者の仕事だ った。土俵の中心にいる「犬放ち」や、土俵まで犬を引き入れる人物また馬場の四 隅で待機するものもいた。競技が始まって、土俵外に出た騎馬武者のあとを伴走す るものもいる(写真参照)。かれらはみな河原の者であった。手に持つものは竹の先 に輪っかが付いたもので、竹杖という。「洛中洛外図」の「犬取り」もこの竹杖を持 っていた。かれらは犬追物競技での黒子(プロンプター)でもあった。先に見たよう に土俵から逃げられると、犬を射ることは極端にむずかしくなった。敏速に進行しな いと、競技は終了しない。一匹を射るのに一分程度だったらしい。逃げ回る犬は河原 の者が追いつめる。囲まれた犬はすくんで動かなくなる。そこを武士に射させた。か げで競技の進行もした。  準備には巨額が必要だった。今でいえばスポーツ競技開催、たとえば国体開催のよ うなものである。しかし見物には万の数の人が訪れた。かれらからは見物料(桟敷料) をとることができる。準備費用は簡単に回収できた。  競技終了もまた、河原の者のしごとだった。矢には鏑がつけてあって矢じりははず されていたが、それでも犬は傷ついた。足がちぎれる例もあった。そうした犬はどう なったか。傷を負った千匹もの犬を飼い続けることはできない。処分された。  犬追物は狩(ハンティング)である。狩では獲物は食べられる。犬は中国、韓国・ 朝鮮では食用だ。日本でも鎌倉や城下町での発掘調査で、調理された犬の骨が多数 出土する。犬追物に参加した武士(犬衆)は、犬を「調斎」し「喫」した。明応二 年(1493)の『蔭凉軒日録』という記録は犬追物の犬を食べたと明記している。 傷ついた数百匹の犬は、少しずつ食料になった。河原の者は、犬追物の準備から終 了まですべてに関わった。そのことに莫大な謝礼も支払われている。  差別意識はなぜ生じたのか。肉食に対する差別はたしかにある。だが武士も肉食 をしていた。武士はつねに河原の者の助けを借りていた。犬追物だけではなく、あ らゆる軍事行動に河原の者が参加していたし、それが不可欠だった。武士には河原 の者に対する差別意識は、あったかもしれないが、少なかった。もっとも差別を強 調し、賤視したのは特定宗派の僧侶である。彼らが残した文章を読むと、殺生をす る「河原の者」(「屠者」)への差別意識を濃厚に感じる。おそらく中世という時代に は、あらゆる階層に共通して差別意識があったわけではなく、特定の思想に基づく 人たちが差別意識を強調し、煽っていたのではないかと考える。

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