服部英雄のホームページ

城郭と復元 歴史学の現場から(原題は「城の理解・城を調べて考える」、以下は雑誌論考と多少ちがいます)                         服部英雄

石落とし 城というものについて、ぼくらはわかっているつもりでいて、案外にわかっていない。つ くづくそう思う。福岡城南の丸に重要文化財に指定されている多聞櫓と角櫓がある。角櫓 にも多聞櫓にも石落としがある(写真1)。学生たちを案内しながら、いつものように説明 をする。「石落としは石垣を登ってくる敵兵に上から石を落とすためのものです」。だがハ ッと思う。石垣を登ってきた人間は、石垣上部まできて建物(櫓)の壁に阻まれる。そこ から先には進めない。進めず、戻れず。進退窮まる。なにもしなくとも大けがをする確率 が高い。それを承知して、石垣を登る人間など、そもそもいない。塀であったならどうか。 塀よりなかに入れば、勝利は大きく引きつけられる。しかし石垣を登るよりは、大きなハ シゴをかけて塀を越えようとしたのではないだろうか。この場合は投石装置としての石落 としは有効な意味を持たない。  石はきわめて有効な武器で、投石は効果的な戦法であった。そのことは、島原の乱での 原城の戦いに象徴的である。石のため死傷した攻城兵は多くいた。戦死した鳥取藩出身の 佐分利九之允と、負傷した息子右馬之允は、ともに投石による死傷だった。右馬之允のカ ブトには大きな石が当たり、へこんだ跡が残されている。熊本藩士として攻城軍のなかに いた、かの剣豪宮本武蔵も、スネに石が当たって歩くことができないと、手紙に書き残し ている(『城と合戦』朝日百科歴史を読みなおす15)。  石垣の上にいれば、下から放たれる弓の威力は半減し、より高い位置ならば、危険度は ゼロに近かっただろう。鉄砲も上に向けて撃っては、引力に負ける。高さがあれば安全だ った。だが身を隠す塀は、ほしかっただろう。秋月郷土博物館所蔵「島原陣図屏風」は後 世の近世画家斉藤秋圃によるものではあるが、石垣の上から投石を続ける籠城軍の姿を画 いて迫力がある。 石落としは初源的で簡素な城の場合は、確かにその名の通りに機能する、必要な装置であ った。石垣上に堅牢な建物が建つようになれば、上から石を落とすことは実際の戦法には なくなっていたが、そうした施設自体がなくなることはなかった。  石落としは外側をみる一種の窓として存続したと考えられる。塀であっても、櫓建物で あっても、真下をみることのできるのぞき窓としての石落としは必要だった。姫路城西の 丸では塀の石落としも長局の石落としも、石落としの落とし穴の幅が異様に狭かった。大 きな石は落とせそうになかった。かわりに側面に左右をみることのできる小さな銃眼が設 置されていた(写真2)。 弓狭間と鉄砲狭間 名称・形態は当初からの「石落とし」が継承される。機能は変化していた。一部には側面 俯撃にも対応する窓(銃眼)などの追加機能が付加された。  城を構成する要素で、必要不可欠にして最低限のものは、高さ、急斜面(石塁、土塁)、 その上に建つ塀、そして武具庫、兵糧庫、井戸(水の手、城外でも可)、そして門であろう。 塀は身を隠す防衛機能を持つが、同時に射撃が可能な攻撃装置でなければならなかった。 塀には狭間(さま)と呼ばれる小窓が作られる。狭間には大きくいって二種類あって、弓 狭間(ゆみはざま、矢狭間、箭眼)と鉄砲狭間(銃眼、銃丸、筒狭間)である。前者はた てに細長い長方形である。後者には四角なもの、三角のもの、丸いものと様々なものがあ る。これによって、身を隠しながら、近づく敵兵を攻撃することができた。  四角、三角、丸とさまざまな銃眼があるのはなぜだろう。仮に上下左右一〇センチを得 るために、四角であれば100平方センチの窓が必要である。円ならば半径5×5×π= 78,5平方センチである。三角ならば底辺10×上下10÷2だから、50平方センチ ですむ。あける穴は小さければ小さいほど、防衛には有利だろう。機能を確保した上での 安全度で比較するならば、△→○→□の順位となろうか(図版3)。建築技法の難易度・堅 牢性の問題もある。四角・三角は枠組みを作りやすそうだ。壁の薄い部分は弱そうでもあ る。  弓狭間が細長い形状になるのは、なぜだろう。弓矢は放物線を画いて飛ぶからだと考え た。弓の射撃方向(矢先の目標)が標的よりも上方にあるから、上も空けておく必要があ るのだろう。 ところで長方形であれば弓狭間であるという常識はどこからくるのだろうか。 たとえば古写真(写真4は名古屋城清洲櫓続塀、写真5は赤穂城本丸門続塀)をみれば、 連続する鉄砲狭間3にたいし1と、一定の間隔で配置される長方形の狭間は、やはり弓に ふさわしいものである。火縄に依拠する鉄砲は、即時の対応や悪天時の対応では、弓より も劣る場合があったと考えられるから、両方を併置する必要があった。弓狭間が鉄砲狭間 よりも高い位置に置かれていることは、弓が並弓(標準弓)で7尺3寸あり、高さはどう してもその半分(3尺6寸、108センチ)の高さが必要であることからも、首肯できる。 出光博物館蔵「大坂夏の陣図屏風」(写真6)でも丸い銃眼からは鉄砲の先が、長方形の狭 間からは矢の先が出ている。文献のうえでも「武用弁略」にはその通り、○△は鉄砲狭間 で、□(*長方形)は矢狭間と明記してあるし、「築城記」や「海国兵談」にもある(『古 事類苑』兵事部・所収)。大類伸・鳥羽正雄『日本城郭史』も同様の見解だ。それぞれが鉄 砲狭間、弓狭間(矢狭間)であることは、常識といえる。 しかし全国各地の復原された城郭建物にはさまざまな狭間が切られているが、上記のよう な原則・常識に従うものは稀である(写真7、福山城の場合、低すぎて矢は打てない。写 真8は甲府城、全国にまったく類例のない新型の狭間である。だれが考えついたのか?) 銃眼を装飾としか考えない設計者・業者の無知によるもので、でたらめだと思っていたし、 じっさいにもそうであろう。 狙撃の要  ところが常識以外の存在が案外に多数ある。姫路城は塀から天守に至るまで、無数に狭 間があるので、狭間を考えるには絶好である。しかし考えれば考えるほどわからなくなる。 三角の鉄砲狭間には二種類ほどのタイプのものがあって、ひとつはみょうに細長い(西の 丸入り口周辺に多い)。のぞいてみるときわめて視野が狭い。ほとんど十分な視野は得られ ないし、狭すぎてのぞき込むほどのスペースもない。ただ突っ込んで当てずっぽうに射撃 するのだろうか。三角の銃眼はよほどうまく作らないと使い勝手が悪そうだった(写真9)。  長方形の狭間は弓狭間で3尺以上の高さが必要と思っていたが、姫路城にはそれより低 いものもある。三国濠周辺のもの(写真10)のほか、西の丸化粧櫓にも1尺ほどの高さ しかないものがあった(写真11)。これでは長方形をしていても、弓狭間とはいえない。 わざわざ○や△にしていた細心さからはほど遠いけれど、これも銃眼であったとみるほか ない。写真12のように上方には打てないように下方にのみ木枠で固定したものさえもあ った。上には撃てない。  姫路城には狭間のない塀がある。太鼓櫓南方土塀は重要文化財だが、かなり長い距離に わたって、狭間がない。太鼓櫓北方土塀は延長35、0メートル、銃眼16所だが、太鼓 櫓南方土塀は延長92,3メートル、銃眼13所である(重文指定時の官報・昭和36年 3月23日)。南方土塀には全く狭間のない箇所があるので、このように少ないのである。 その理由を考えたが、中根家絵図(姫路城図)を見たら、そこは、元来は塀の構造ではな く、別建物があったことがわかった。塀になったのは、その前身建物がこわされた後の時 代のことである。おそらくそれは近代にも近いような、城が城ではなくなった時代のもの であろう。世界遺産への登録の際に作成した推薦書にTaikomon-Yagura Nanpo-dobei:Date  of Construction,1601-1609 となっているから、土塀はなべて慶長頃の建物と認識されて いるのかもしれないが、誤りである。狭間のない塀は新しい。熊本城の長塀には狭間がな い。熊本城に普遍的である土塀のような厚みもない。よほどに新しい時代のものではなか ろうか。 姫路城の狭間には、大別して木枠を持つものと、塗り籠めのものがあり、後者にも機能的 なものと形骸化したものがある。これらはそれぞれの塀が、一様に慶長期の遺物ではなく、 いくつかの段階によって異なる時期に建設されたことを語る。塗り籠めの狭間は西の丸に 多く、千姫化粧料による建設という伝承に対応しよう。塀は創建当初ではない。 狭間の完成は江戸城や大坂城にみる石狭間であるといわれる(写真13)。切り込み矧ぎの 石垣上部に刻まれた銃眼は、ほぼ完全に壁に隠される。大坂城の場合、切石積みにしかな く、野面の石垣にはないのは、技法の差異にも関連しよう。 大坂城陣図(『戦国合戦図屏風絵集成』)での真田丸の防衛をみると、塀の狭間からの銃撃 のみでは不十分で、さらに塀上部からの射撃が可能なように桟敷をくんでいることがわか る(写真14)。狭間は安全を確保する代償に、一斉大量の狙撃を不可能にしていた。だが 古写真を見ると二段構えの狭間は案外に多い(写真15・大坂城)。写真16は福岡城上の 橋門であるが、石垣に接する直上の狭間(A)の上段に規模の大きな狭間(B)がある。 その右端のコーナー部にはふしぎな空間(C)があり、対する右側にもある。萩城天守の 狭間も普通のものよりは相当に大きい(写真16)。これらは実物が確認されないとされる 大筒狭間(大砲狭間)かもしれない。 二段構えの銃眼のほうは実は現物が残っている。写真17は国宝姫路城大天守である。無 数の銃眼はまさしく要塞そのもので、みるものを威圧する。南面一層の銃眼は二段であっ て、下段に10、上段に10の銃眼がある。二層以上にもある。大破風の上にもあるし、 最上層まで銃眼が確認できる。いってみれば六段構えの銃眼群ともいえる。大天守は北面 天守曲輪中庭(小天守方向)に向けても銃眼がある。最後になって、眼下に迫る敵に射撃 を続ける侍たちは、いかなる気持ちになっただろうか。 城の整備というが、本来の機能が消滅して140年。城が持っていた機能・意味はわから なくなっている。銃眼一つをとってみても、城の復原整備に携わる人間はどこまで理解し ようとしているのか。無知のままに復原設計されるならば、知性を集めた城も、滑稽なピ エロとなる。 ―――――・―――――――――――――――― 要旨:城の復原整備が各地で行われているが、機能を理解しないままになされている。弓 狭間は弓の長さの半分より高くなければ、弓を射ることはできない。並弓(標準弓)7尺 3寸の半分(3尺6寸、108センチ)の高さが必要であろう。古写真(名古屋城・赤穂 城など)を見れば、その通りの配列が確認できる。しかし今日の塀の復原では、これにあ わないものがとても多い。設計に当たるコンサルタントの無知によるものが大半だ。ただ し姫路城には108センチよりも低い位置の弓狭間が、たしかにある。機能が拡散化し、 鉄砲対応になったのであろうか。少数事例とはいえ、弓を引けない「弓狭間」が存在する ことは事実である。 当時の城郭設計者は兵の生死、戦の勝敗が関わるから、軍事的な効率・有効性を徹底的に 追求した。今日の復原設計では、そうした緊張もなく、形のみを追求している。似てはい ても非なるものが作られ続ける。


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