(無断転載を禁ず) 歴史地理学会報告(第40回歴史地理学会大会;於佐賀大学)要旨集より 佐賀平野の歴史地名地図の作成 服部英雄 佐賀県では明治20年代の改正丈量の際、小字を一本松とか、二本黒木、三本 谷といった機械的な数値地名に置き換えた。それまでの地名は、私称地名となっ たが、農民達は使い続けて「しこ名」と呼んでいた。この地名を収集する必要が あることは、松尾禎作、米倉二郎といった先学が、半世紀以上も前から主張して いたことなのだが、佐賀平野があまりに広すぎるため、その後調査しようとした 人は実際にはいなかった。報告者は四年前に福岡に着任して以来、学生の協力を 得つつ、懸案だった佐賀平野のしこ名調査に取り組んでいる。経験者ではなく、 初心者が行う調査ゆえ、不備も多いが、現地が圃場整備で失われた以上、もはや 猶予された時間はない。 三年がかりの調査である程度の見通しもたったので、地図を公刊する作業を進 めている(仮題「二〇〇〇人が七〇〇の村で聞き取った二〇〇〇〇のしこ名--佐 賀平野の歴史地名地図」)。今回はこの作業の結果を報告した。条里坪名でいえ ば、従来の報告のおよそ二倍が収集できたこと、中世地名では用作地名や名地名 によって、村の景観の復原が可能となることなどを報告した。あわせてアオ灌漑 (淡水灌漑と書く、干満作用によって遡ってくる真水を利用する灌漑・潮汐灌漑、 アオのことをシオともよぶ)の歴史を考えた。筑後川に近接する一帯には条里地 割と坪名が顕著に残るが、そこは地域である。同じくアオ灌漑で中世文書・光浄 寺文書も残る三根町では、鎌倉末〜南北朝期の文書に記される耕地地名が多く検 出され、そしてアオを取り入れるホリを意味する汐入れ(ふつうシイレと発音) の語も史料に登場している。こうしたことから、アオ灌漑は古代中世には定着し ていたと考えた。アオは筑後川の水をなめて塩分の有無を確認する近世干拓地で の情景が絵になるため、マスコミなどには最下流(大詫間など)のものが多くと りあげられ、アオの代表のように扱われている。しかし干拓地は歴史も新しく、 むしろアオの例外である。三根町のように下流部でもある程度まで遡れば、アオ に塩分が混じることは絶対にない。アオは大自然のもたらす定期便であり、古い 時代より利用されていた。ただし揚水技術は未発達だったから、微高地は水田化 されない。一面に水田化された今日の筑後川下流域の田園景観とは異なり、古代 ・中世には畑などの土地利用も多く見られた。