北野 誠   城 真由美
  
 
 
 私達が言った袴野区には、5つの小部落があり、それぞれに公民館長がいて、
 授業で自分達が担当する地区の公民館長を紹介された。しかし、その公民館
 長さん達は、10数年前移り住んできた人でJRバスの運転手や公務員等、農
 業以外の仕事に従事していた人達だったので、昔から農業を営んでいた区長
 の橋口さんを私達に紹介してくれた。こう言う訳で袴野区を調べる6人は、
 皆橋口区長のお宅を訪ねることになった次第である。8時45分に九州大学
 六本松校舎に集合した。9時にバスで出発。高速に乗り一路佐賀を目指した。
 途中西多久インターに立ち寄り小休憩。それから間もなくバスは武雄市に着
 き、学生達は順々にバスを降りていった。遂に、私達が降りる袴野停留所に
 つき私達6人は降りた。外は、雨がしとしと降っていた。橋口区長のお宅に
 は、午後から伺う予定だったので、雨宿りのために停留所の前にあったRICと
 いうスーパーに立ち寄った。12時頃昼食をとるため隣にあった食堂に入っ
 た。そこで私達は、焼き飯と焼きうどんを注文した。おじいさんとおばあさ
 んが2人でほそぼそと営んでいた。味は、いまいち。辛かった。食事を終え
 12時半頃になったので、住宅地図を見て橋口さん宅を探した。RICのお姉さ
 んに橋口さん宅を尋ねると、ともちゃんのじいちゃんかなと言われたが、と
 もちゃんと言う人物を知る由もなかったが、お姉さんは、親切に教えてくれ
 た。途中、消防団の前を通りかかると、消防団の人たちがバーベキューをし
 ていた。食べていかんね、と言われたが、先ほど食べたばかりだったので断
 った。田んぼの中の道を登って行くと、ぽつぽつとあり、家の表札を見なが
 ら歩いていったが、行き過ぎた。後ろを振り返ると橋口さんの奥さんが、ピ
 ンクの傘をさして手を振っていた。私達も手を振りかえした。やっと橋口さ
 ん宅に到着した橋口さんは背広を着ていて、奥さんもおめかしをして、迎え
 てくれた。仏壇のある部屋に通され、橋口さんは私達が書いた3通の手紙を
 持っていて、私達の名前を確認された。そうこうしているうちに奥さんが、
 お茶といちごを持ってきてくだっさた。私達の質問に答える形で、橋口さん
 は以下の事を教えてくれた。
 
 田の発展
  化学肥料が入る前は、肥料は草や堆肥を使っており、1反あたり5〜6俵
 の米がとれた。それに対して、化学肥料導入後は、1反あたり8俵になった。
 
 水について
  昔は、生活用水は、井戸水や山の湧き水を使っていたが、平成2年ににわぎ
 ダムがつくられ、上水道が整備された。農業用水は樫山溜池を、昔から使って
 いて水が不足するときは、貴船神社で雨乞いをした。その資料を橋口さんから
 いただいた。5年前の干ばつもにわぎダムのおかげで、水不足になることはな
 っかた。橋口さんは、にわぎダムにとても感謝してる様子で、ありがたい、あ
 りがたい、とおっしゃっていた。ダムができる前は、ちょいちょい水争いがあ
 ったが、水当番が水を管理していた。
 
 貴船神社の縁起
 元享元年(1321年)の夏肥前の国(佐賀県杵島郡)一帯は、数十日も続く
 空前の大干ばつで、水田にはひびがはいり畑には、かげろうが上って居て作物
 と云う作物は打ちしおれて、枯死寸前の状態である農民達は空を見上げて嘆息
 をするばかりで人力ではどうにもならいそこで農民達は潮汲みをして雨乞いの
 祈願をしてあらゆる祈祷をしたが天気は続くばかりであった、そんな時、武雄
 神社の下宮の祭神蒐明神が夢枕に現れて、このままででは、いまだ旱ばつが続
 きます、早く山城の国、愛宕郡の貴船神社の神霊を懇請して雨乞いの祈願をし
 なさい、そうすれば雨が降って万物は蘇生するでしょうと告げた、そこで領主
 の光明神のお告げに従って貴船神社の分霊奉杞し、雨乞いの御祈願をした所、
 一天にわかにかき曇り大粒の雨が土砂降りとなって降って来て旱ばつは解消さ
 れたと記してあります。
 
 米の保存について
 昔は、米を和紙に入れてかますの中に入れもみ蔵にかくまっていた。その後、
 ブリキの缶に入れるようになった。現在は、農協の紙袋に入れて保存している。
 米を農協に出す前の時代は、産業組合という農協の前身のようなところに出し
 ていた。産業組合ができる前は、米なかがい(米商人)に出していた。次年度
 の作付けに必要な種籾は、つぼに入れて保存している。ねずみ対策は、特にし
 ていない。
 
 村の動物について
  各家に牛が1〜2頭いて、雄も雌もいたが、その多くは雄だった。肥育牛を
 飼う農家も昔はけっこうあったが、今では村で2軒になった。
 
 過去の戦争について
  戦国時代ヤフサと城谷の間で、豪族同士の争いがあった。その時しろがあっ
 たところが城谷という地名がついた。
 
 家について
  袴野区には合計106戸の家があり、そのうち百木は29戸の家がある。
 
 食について
  昔、村では犬を食用として食べていた。主食は主に麦で、白米は正月など特
 別な日のみ食べていた。昭和45年頃にパン食が入ってきた。
 
 村の祭
  地図上の菅原道真の天満宮は、百木部落の氏神様を祀ってある。
 菅原道真の命日である7月24日の夜百木村では祭りが開かれる。
  正月には山にあるコクンゾウという場所で、村人全員で初日の出を見る。
 今年はきれいだったとの弁。
  昭和63年に橋口さんたちは天皇に献上米をした。米を献上する役を務める者は
 早乙女さんと呼ばれ、独身女性でなくてはならず、村の中から独身女性を
 集めるのに苦労したそうである。13人の早乙女さんが献上に行くときの写真と
 感謝状がお座敷に飾ってあり自慢げに語っていた。仏壇の近くの高い位置に
 天皇と皇后の写真が飾ってあったのが」印象的である。
 
 山について
 現在山は個人が所有しているものがほとんどで、昔の官山は、明治時代に
 払い下げられ区の山となっている。
 
 昔の若者について
  男は青年クラブにいって泊まって朝帰っていた。青年クラブでは年に一回
 相撲大会が開かれていた。一方女性は布団作りやむしろ織りをしていた。
 若者たちは夕御飯の後集会所に集まっていた。恋愛について尋ねると、おばあさんは
 照れて笑いながら「そりゃ、青年クラブで知りおうとったんじゃなかろうかねぇ」と
 教えてくれた。しかし、恋愛の自由はあまりなく、親が決めた縁談が多く、
 親戚同士で結婚することもしばしばあったそうである。ちなみに橋口夫妻は
 お見合い結婚であるらしい。お二人はとても仲良のよい様子で私たちが
 最後にお二人の写真を撮らせていただきたいというとうれしそうに
 「わしらはなかのいい方やからねぇ」といってとてもいい笑顔で並んで写真に
 写ってくれた。
 
 
 村のこれから〜今後の日本農業への展望〜
  昔はせいぜい足踏み機械ぐらいしかなく、田植えをするのに家族全員で十日も
 かかるほどであったが近年機械は大型化し老人だけでも農業ができるように
 なってきている。このため農業は老夫婦にまかせ、若者は町へ働きに出るという形を
 とる農家が増えてきている。橋口さんの家庭もこの形をとっているそうである。
 橋口さんは息子夫婦とその子供たちと一緒に暮らしており農業は主に橋口さんたちが
 やっており息子夫婦は勤めに行っている。
  農業人口が少なくなっており、自分が耕作しない田は他人に委託する人がますます
 増えているが、引き受けてくれる人が減少しているのが現状である。
 「今は農業の曲がり角だ。」と熱心に語っていた。それを解決するために橋口さんは
 農協を法人化して、農協職員が統括して運営していくべきだとおっしゃっていた。
 しかし、まだ結論は出ていない。
 
 百木  しこ名
     イチンタニ (一谷)    
     ナカミチ
     アマクサヤマ (天草山)
     ウメノキダニ
     カンノンダニ
     アメイケ
     
 訪ねた村の名前
  百木
 
 聞き取りした方の名前
  橋口 幸雄さん 昭和5年生(70歳)
     奥 さん 昭和6年生(69歳)
 


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