/ 歩き、見、触れる歴史学レポーート 松木剛宏 渡部純二 ・コヤマジ小山路テンコダニ(アンコ谷)サラヤ(皿屋)イデダニ(井出谷) ヤマゾエく山副)スエヒロく末広)カンノモト(観の元)ナカタく中田) ロクタンダ(六反田)オイマツ(老松)オツダ(乙田)ヒロタ(広田)ナガタ(永田 タカミ(高見)フチノオく渕ノ尾)マツノモトく松ノ元)ハツタンダ(八反田) ガンミョウヤマく元明チョウコンダニ(長コン谷)テカテンツウ フチドノパル淵殿原 しこ名の由来 八反田、六反田ほ田の耕地面積が直接、名称に影響している。 アンコ谷、長コン谷は人名から発生したものである。 老松、松ノ元ほ松の木に関連がある地に付けられている。 高見は少々高い位置にあるため、単に見晴らしが良かったのか、 もしくは物見的な役目を担っていたのか、判断のつかないところ でほあるがおそらくは前者であるだろう。 カンノモトは「観音様のおわしますところ」という意味である。 皿屋は秀吉の朝鮮征伐に端を発している。征伐の際に捕らえた 陶工の技術者達を、帰還の際に強制的に日本へ連れ帰りた。 その技術者達がこの地に住まわされたことから、この地がそう 呼ばれるようになったのである。 大山路における陶工の歴史は古く、1600年代から小山路の 窯 で数多くの陶器が作成されていた。 水利について 基本的には人力で干ばっ等の異常気象に対抗するわけだが、昭和 14年、42年の大干ばっのときは、村人がバケツなどを使って ため池から自分の田畑まで水を運んでいたようだ。しかし、 干ば更に厳しくなってくると村の中でも貧富の差により自分の 田畑に水を入れられるかどうか差が出るようになった。 夜間の時間使用について 夜間に自由に動き回れる者はいない。なぜならば夕なべ(副業) に人手を取られてしまうからである。縄を結うことが最も基本 中の基本となっていたようである。また、現金収入のために、 わらじを武雄市の中央あたりまで持っていき売っていたとのこ と。 当時、障子に今のような紙を使用する替わりに、こうぞ(木の皮) をはいで、川にさらして紙のようなものを作っていた。 このようにして作った紙は、米の保存等にも用いられていた。 どのようにしていたかというと、かめの中に米を保存するときに かめの内側にこうぞをはりめぐらせ、その中へ入れる。 俵に入れるときも虫よけの効果があるらしく、しぶ柿の汁を塗っ て使用したりする。にんにくの切れ端を入れることも防虫に効果 を発揮する。 牛馬の飼育 当時はどの家庭で飼育していたのだが、その飼料は毎朝ご飯前 に自分の田なり、畑なりから刈り取って用意していた。そのとき に自分の田畑と他人の山などが接していた場合は、日表三間、日 裏五間と言われている部分の車を相手の土地ではあるけれども、 暗黙の了解として刈ることができた。 魚 魚といえば、塩クジラ、塩サバを物々交換で手に入れていたよう だ。川でとれる魚は、スモークしたりして長期保存にも耐えられ るように加工した。 燃料問題 基本的には、牛馬とかわらない扱いとなる。半年、もしくは一年 をサイクルとして木を切り出してくる。個人所有、山師の場合は 木を買う。牛馬の餌について付け加えるが、墓地などの清掃によ ってでる草、ため池の周辺などは競りのやり方で購入者を決める。 祭事 川の神(水神)祭り 八月一日 川の神に感謝の意を示して、水の大切さを再認識させると いう祭りであるが、現代は上水道の整備は行き届いている ため伝統の保持はなかなか難しいところである。 なます祭り 十二月十一日 享禄三年、島原の有馬仙岩の大軍を後藤純明が背水の陣で 打ち破勺たのち、追撃していくともはや敵の姿は無くなっ ていた。そこで、農民達ほ急いで大根のなますを用意して 鬼へごで箸を作った。これが起源となりている。 社日くシヤニチ)二月 ぜんざいやもちを作り、作物等の収穫を祝う祭り。 一年の始まりとしての意味も含んでいるために、その年の 抱負なども語り合う。 大山路のみなさん 中山雅弘 61歳 三川文一 吉岡さん 53さい 中尾政次(区長)81歳