北永野  調査日:2000.1.9






0調査者
 前田幸永 
 柴岩智也 



O聞き取りをした人
 田代信弘(大正13年生まれ)




○しこ名
   小字・道祖ノ元‥・ドウソンモト
   小字・道分川‥・ドウフンゴウ
   小字・谷口鶴・‥カワンナカ
   小字・内樋渡‥・ヒワタシ
   小字・砥石・・・テイシンヒラ
   小字・榎ノ下‥・エノキンシタ
   小字・引地ノ前‥・ヒキヂンマエ
   小字・土井ノ内‥・デーノウチ
   小字・山祭‥・ヤンマツリ
   谷‥・ヤダケンタニ
      ヤンマツリンタニ
      シジュウクエンタニ
      スガムタンクニ
   井堰‥・キタイデ(北井手)
 
 
※谷口鶴をカワンナカと呼ぶ以外は小字名をそのまま、もしくは小字名がなまったもの
 でよんでいる。(小字名がしこ名になったのか、しこ名が小字名になったのかはわ
 からないが)

    ○村の水利
  六角川の上流に北永野の人たちが通称「北井手(キタイデ)」とよんでいる井堰が
 ある。この井堰は北永野だけで使用しているものだ。北井手から引かれた水路は中野、
 相園を通って一度、六角川の井堰に集められ、さらに馬正ノ元にある井堰を通っている。
 この3つの井堰を開け閉めすることによって各田んぼに必要な水の量を調節している。
  この地域では昭和31年と平成2年に大きな被害をもたらした水害がおきたそうだ。
 干ばつでは昭和42年の干ばつが特にひどかったそうで、これ以降、各田んぼに直接六
 角川から水を取り込む小型のポンプが普及したそうだ。また平成2、3年頃の開場整備
 と同時に庭木ダムから直接配管して現在はそれで水不足に対応している。




○村の耕地
  北永野で昔米がよくとれたところは、カワンナカに代表される六角川の下流にある地
 域である。馬正ノ元、稗田、小林のあたりはあまり米がとれなかった地域だったそうだ。
 そのような差が生まれていた理由としては水田に利用できる水の量があげられる。次に
 化学肥料を使う前にどんな肥料を使っていたかというと、北永野では、主にホシカや生
 いわしが使われていたそうだ。他に使われていた肥料としては、山の草を刈ってきて、
 それを田んぼにすきこんでいたものがあげられる。そういう作業をする時には牛を使っ
 ていたらしい。次にこの地域で裏作として作られていた作物として、麦、菜種、大豆が
 あったそうだ。そして篤いたことに、大豆とレンゲは収穫せずにそのまま田んぼにすき
 こんで肥料にしていたらしい。そうなると生活に必要な大豆はどうなるのだろうか?と
 いう疑問がうまれたのでそのことを聞いてみると、大豆はあぜ道に必要な量だけまいて
 いたという答えがかえって釆た。そのあぜ道で作っていた大豆で自家製の醤油や味噌を
 作っていたらしい。


○村の発達
  北永野に電気が来たのは大正12年、プロパンガスが来たのは昭和35・36年頃、水
 道は平成5年頃に来たそうだ。プロパンガスが来る前はほとんど薪を利用して生活し
 ていたらしい。山は全部が入り会い山で、薪は自分たちで山からとってきていたそうだ。
 また専門に薪を売る山師とよばれる人もいたそうだ。薪以外には炭を利用していたらし
 いが、炭はこたつの時だけ使っていたそうだ。炭は自分達のちゃんとした炭尭で作っ
 ていたのか?と聞いてみた。すると、炭窯はなく、自分達で田んばに穴を掘ってそこ
 で木を燃やしてその上に土や籾殻をのせてつくっていた。その炭を売ることはなく、
 自分達で使うためだけに作っていた。カシ、ナラ、クヌギの木で作った炭はいいもの
 が出来たようだ。なお、焚き付け用の薪としては柴が一番だった。


   ○米の保存
  米を農協にだす前は武雄市街の業者にだしていたそうだ。田代さんも大人たちが荷
 車で米を運んでいくのを見たのを覚えているそうだ。地主、小作人の関係はあったら
 しい。青田売りがあったかどうかは分からない。米の保存は個人でしていた。その保
 存方法として、まず精米した米を紙袋に入れ、さらにそれらを紙袋に入れて保存して
 いた。種籾も個人で保存していたらしい。種籾は、袋に入れてその上に籾穀をかぶせ
 てその袋を包むようにしていたらしい。これはなんでなのか?と聞いてみると、ネズ
 ミに大切な種籾を食べられないようにするためだという答えがかえって来た。食事の
 時の米と麦の割合は1:1ぐらいだったそうだ。しかしこれは家々によって違ってい
 たようだ。




○村の動物
  馬は高価なため数頭しか飼われておらず、ほとんどは牛が飼われていた。各家に1
 頭づついて、そのほとんどが雌牛だった。それは雌牛が子牛を産むとその子牛を売っ
 て収入にできたからだそうだ。今では牛や馬を飼っているところはなく全部機械でお
 こなっている。
  また魚や塩は商人が売りに来ていた。魚はイワシ、塩サバなどが主だった。また六
 角川で川魚を釣っていたそうだ。タニシをえさにしてフナやウナギ、コイ、エビ、ツ
 ガニなどをとっていた。特にえびなどは昔はたくさんとれたらしい。




○村の若者
  昔の子どもは魚釣りをして遊んでいた。秋には山にキノコや木の実、アケビなどの
 果物などを採りにいったそうだ。
  青年は青年団で集まって寝泊まりし話をしたり読書会を開いたりした。また年寄り
 から村のさまざまなルールを習うこともあったそうで、そのルールはとても厳しかっ
 たそうだ。
J

 ○村の祭り
 1月7日  鬼火焚き‥・ホケンギョとも言う。これは子供クラブ主健で、火にあたる
           ことによって一年を健康に暮らせるといわれている。使わな
            くなったお守りなどを火で焼く。餅も焼く。
1月15日大般若経・・・これは北永野の人だけの祭。
6月下旬 田祈祷・・・豊作を祈願する
7月9日八幡神社の祇園・・・主健は中通古賀。もともとは青年主健の祭りだが、
       青年が少なくなったことが影

7月25日権現様の祭り…下古賀主健の祭り。
9月1日龍王さんの行事
9月下旬風願成就・・・収穫を終えて神様にお礼をするという趣旨
11月14日おひまち
11月30日神待ち・・・出雲大社に集まっている神々をまた迎えようという行軋
 昔は青年が中心となって運営していたが今では若者の数がへってそうもいかなくな
 つたと嘆くように話されてた。




○村の農業について・‥
 最後に今の農業の移り変わり様について尋ねた。昔は70軒ほどあった農家も今で
 は20軒ほどまで減ってしまい、また残っているそのほとんどが専業から兼業にかわ
 つてしまったそうだ・今では大型の機械がはいって昔では考えられない程たくさん米
 を作らなければならなくなったという。これから農業がどうなっていくかについては
 田代さん自身もまったく先の見通しが立たないそうだ。それは米の価格がむかしより
 下がったことや、豊作でたくさん獲れても減反の対象となることなどのためである。
 また後継者問題も深刻である今の若者はなかなか農業を継ぎたがらないと嘆かれてい
 た。


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