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原城の戦いと島原・天草の乱を考え直す

                丸山雍成編『日本近世の地域社会論』85-137頁所収 服部英雄 目次 序 その1---発掘調査の結果から 序 その2 原城像の再検討、たとえば籠城者は一人を除いて全員死んだのか

(A)籠城の前提      その1 彼らが籠城したのは石垣も取り去られた古城だったのか (B) その2 原城の備蓄米 (C)海は退路を断ったのか その1 原城の構造と有明海 (D)  その2 海上は封鎖されたのか (E) その3 「裏切り者」山田右衛門作の立場 (F)展望はあったのか ---一揆の思惑(おもわく)と松平信綱の恐れたもの---- (G)幕府が恐れたもの・ポルトガルの排斥と鎖国の完成 -----------------------------------------------------------------------------  キリシタン大名有馬晴信が築いた原の城。キリスト教宣教師はこの城を訪れ、セミナリ オを開いた。島原半島先端の原城は東シナ海を通じて中国、そしてヨーロッパにつながっ ていた。つづく島原・天草の乱。この城に籠ったキリシタンには日本という国の国境はな かった。国境を越える要素がきわめて濃厚だった島原の乱は、なぜ国内的事件としてのみ 語られ続けたのか。再検討してみたい。 ----------------------------------------------------------------------------- 序 その1---発掘調査の結果から  平成四年度(一九九二)、南有馬町教育委員会によって開始された原城の発掘調査では、 この城の悲劇をまざまざとよみがえらせる衝撃的な発見が相次いた。おびただしい数のク ルス、すなわち十字架。あるいはロザリオの珠。あるいはメダイ(メダイオン・メダル)。 メダイは錆び付いてただの鉄の塊になっていたが、長崎大学でX線撮影を行ったところ、 様々な絵や文字が浮かびあがった。絵は聖母であったり、天使が聖体を礼拝している像で ある。イエズス会の設立者イグナチオ・デ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルの像も含ま れていた。  メダイに書かれた文字は古典のポルトガル語(ラテン語)で、VとU、IとJが区別さ れていない。 LOVVADO SEIA O SANCTISSIMO SACRAMENTO ロウヴァード・セージャ・オ・サンチィッシモ・サクラメント<いとも尊き聖体の秘蹟は ほめ尊まれ給え>  有名な天草四郎の旗に書かれた文字と同じである。すなわち一揆軍より原城の落城当日 に鍋島大膳が分捕ったという血染めの旗(本渡市立天草切支丹館蔵、重要文化財聖体秘蹟 図指物)にも記された文字である。かつて昭和二六年に原城から金製の十字架が出土した ことがある(大阪南蛮文化館所蔵)。旗といい、豪華なクルス、メダイといい、原城には 屈指の一大祭壇があった。  クルスのなかにはキリストに矢が刺さった状態を象徴したものもあった。疑いようもな い殉教者の遺品だ。籠城した人たちが、やがて来る自分の運命をキリスト受難に重ねてい たことは疑いない。  これらキリシタンの遺物は発掘されたときには、いずれも近くに頭蓋骨があった。首に ロザリオや十字架をかけたまま殺されて、無造作に投げ捨てられたものだろう。遺物は皆 その遺体のものだと考えられる。メダイの中には歯の近くにあって、死ぬときに口の中に くわえていたのではないかと推測されているものもある。キリシタン達はクルスをかけて おれば、あるいはメダイを口の中に入れておれば、どのような状態で殺されようとも、天 国(パライゾ)に行くことができる。そう信じていたに違いない。  それまでも原城の跡では骨噛み地蔵の近くからはたくさん骨が出るとは聞いていたが、 しかし発掘を始めた途端に、こうしたキリシタン達の最後の悲惨な状況が再現されたこと は少なからぬ驚き、ショックだった。  しかし原城の調査はこうした殉教者の像とはまた異なる像をも提出した。遺骨のまわり にあった十字架には、鉛の弾丸を溶かして作った急ごしらえのものも多かった。十字架は ふつうはたて横の交点より下が長い。はり穴はそのように付ける。ところが逆に下が短く なるようにはり穴がついているものもあった。よほどに慌てて作ったらしい。このクルス を首にかけたものたちは、入城した段階では、まだ自身のクルスを持ってはいなかった。  ここに原城籠城者について二様の像ができた。一つは死をも恐れず、神に召されること を至上とした人々。殉教者である。もう一つは即製の信者たち。キリシタンには「転び」 から「立ち帰った」ものたち、つまり一旦棄教したのちに、再度キリシタンに復活した者 が多いという。彼らは籠城後、即製のクルスを入手したのであろう。 序 その2 原城像の再検討、たとえば籠城者は一人を除いて全員死んだのか  寛永十四年十月(一六三七年一一月)から翌十五年二月(一六三八年四月)に及んだ 「島原・天草の乱」(以下「島原の乱」とする)。この乱、そして原城の戦いに関しては、 誇張や俗説、虚像が意外に多いように思う。島原の乱は勝利者たる為政者の側に立って解 釈され、記録されてきた。為政者にとっては一揆は徹底的に弾圧されるべき対象である。 再発を防ぐ宣伝材料にしなければならない。多少の誇張はあっても、島原の乱はくりかえ してはならぬ悲劇であることを認識させる必要がある。反逆者としてのキリシタンの悲惨 な末路。それが強調される。  記録者の多くは藩自身か、参戦した藩の侍たちだ。自藩の手柄は誇大に宣伝し、他藩の 仕事は過小に評価する。細川と黒田、黒田と鍋島、立花と松倉のように、各藩相互は乱の 以前から、または乱の過程で反目し、同士討ちをしかねないほどに仲が悪かった。客観的 な記述は望めない。  いっぽう後世の人間は一般的にこの事件を美化する傾向にある。神のために命を捨てる こと。殉教は賛美されやすい。そして意外な感じもするが、逆にカソリック教会関係はこ の乱を指導者パードレを欠く誤った闘争として否定する。教会は天草四郎ほかこの乱の犠 牲者を殉教者には認定していない。島原の乱の評価は立場によってさまざまで複雑だ。  悲劇的でドラマチックなこの事件を素材として、のちにはいろいろな物語が作成された。 乱を見る立場がそれぞれに異なり、虚像が作られやすい背景、要素はたくさんあった。さ て  「二万三千人の老若男女は三カ月の籠城戦ののちに、返忠の山田右衛門作ただ一人を除 いて全員が殺戮された」。  これは原城の所在する南有馬町が発行した出版物、また『国史大辞典』「島原の乱」の 項に共通する文章である(いずれも中村質氏執筆)。とらわれのキリシタン「ドアルテ・ コレアの手記」、平戸オランダ商館長クーケパッケルの日記など当時のたしかな複数の史 料・記述に依拠してのもので、おおかたの見方・定説でもある。しかし本当にその通りな のだろうか。これらは伝聞記事である。伝えきく間にはオーバーな表現になると考えるの が普通だろう。特にコレアの場合は獄中記だ。  最終段階で、攻撃軍は「皆殺しをせよ」「皆殺しにしてもよい」と命令されていた。そ うした史料は多い。 「きりしたん悉なてきりニ申付候つる」(三月十四日細川忠利書状) 「あなたこなたより出候きりしたん御ころし候由承候」(三月廾三日細川忠利書状)<以 上は細川家の記録・文書集である「部分御旧記」<ルビぶわけごきゅうき>・『熊本県史 料・近世編三』四二頁,四四頁>)  しかしここまでに至る前段階がある。籠城軍との交渉のため、天草四郎の近親者を城内 に送り込んだことがある。そのとき幕府方はそのものに次のように言わせた(『一揆籠城 之刻々日記』<林銑吉『島原半島史』昭和二九年刊・以下『半島史』と略す、三七七頁> あるいは「部分御旧記」<前掲三〇二頁>など)。 「城内より落ちてきたものが若干名いるが、命を助けられただけでなく、金銀まで与えら れ、今年は既に耕作に復帰している。上様<将軍家光>の直々の仰せによって、キリシタ ンは処刑するが、<せんちょ>(ゼンチョgentio:未信者)で無理無理に切支丹をすすめ られたものは、調査吟味のうえ助けることになっている。それが天下の御政道である。」  攻城方はゼンチョの解放を要求した。これに対して一揆方は「落ち申すことは自由にし ている」と答えた。幕府にとっては原城にいるものが、皆キリシタンでは都合が悪かった。 無理矢理引き込まれたものが多数いる。そのことを実際に証明し、宣伝しなくてはならな い。だから落人は自分はキリシタンではないといいさえすれば、助命された。  原城に籠城者した者には (1)戦闘員たる男子 (2)非戦闘員の女子や子供 (3)「落人」、逃亡者、投降者(縁故をたよって攻城軍に降参したもの) がある。(3)が非キリシタンの表明を条件に助命されたことはみたとおり。久留米藩士 の記録「原陣温故録」(『半島史』二三七頁)をみると、松平右衛門佐(黒田忠之)のと ころにきた「落人」で松倉長門に「御預」になった(天草)四郎の小姓の名前が十二人分 列記してある。彼らがそののちどうなったのかは分からない。しかし二歳から二十歳まで の者ばかりであり、子どもの多くは助けられたのではないか。「落申候」とあるから、何 らかの伝(つて)を便りに、黒田の陣に来たのであろう。彼らは天草四郎の小姓という特 異性故に、その名前が記録された。  こうした者はほかにもたくさんいた。キリシタンも人の親。わが子、家族は助けたいと 思うだろう。大人でも心底逃げたいと思うこともあったはず。鍋島家や黒田家、寺沢家を たよって、脱出に成功した者については記録がある(『一揆籠城之刻々日記』<『半島史』 三七五頁、三八六頁、三八七頁>)。落人でスパイになって城内を放火せよと命じられ、 金をもらって再び原城に送り込まれたものもいる(『オランダ商館日記』一六三八年三月 四日条、『黒田家譜』二ー五八頁)。『綿考輯録』では一月後半以降頻繁に落人記事があ る。ほかにも記録に残らぬ逃亡者はすこぶる多かった。  松平信綱の家臣長谷川源右衛門の留書『一揆籠城之刻々日記』(『半島史』三九七頁、 また山田右衛門作口書の一本なども同じ)では全体の人数を、当初は「城中男女惣合三万 七千人」、そして「惣責之時は弐万三千」としている。だから長谷川は、落城までの間に 逃げたものは全体の三分の一程いると認識していた。  (1)はたしかに異常なまでに多く殺された。大虐殺だった。(2)についても、最終 段階の一揆方と攻城軍の間の矢文の応酬で、「女子でも助けることはできない」と、幕府 上使は言っている。「キリシタンは助命できない」というのが一貫した方針だった。  しかし『一揆籠城之刻々日記』では、籠城者の数を二万三千としながら、「一揆の首掛 置数壱萬八百六拾九、此外男女焼死候ものとも五、六千も可有之候か」と記述している。 単純な引き算では、落城のおりでも何千人もが生きて原城を出たことになる。  「原陣温故録」では、先の記事に続けて有馬玄蕃頭配下の者があげた首級の数を記す。    「首数千百 内八十女首」 男の首数が圧倒的に多く、女首はわずかだ。周知のように籠城軍には女性が多かった。延 岡藩士による「有馬五郎左衛門筆記」(『半島史』一六〇頁以下)には「籠城の男女四万 七千人のうち武士が一万、そのほか(は)女子童部十五より内、六十以上の者共(非戦闘 員だった)」とある。先の史料からは女子はほとんど首を取られなかったことが分かる。 殺されても首を取られなかったとか、のちに殺されたとかいうことは考えられるが、無抵 抗の「おんなわらべ」は生捕られ、キリシタンではないとさえいえば、殺されなかったと もいえる。  根拠がある。「原ノ城陳立法度」(*ルビじんだてはっと)(『綿考輯録』忠利代<中 >五ー三一一頁)だ。 一 女並(*併から人弁をとる)忰共ノ分ハ随分殺シ不申様ニいたし、捕可申事 同様の規定は長崎目付の掟書(『有馬記録』<『半島史』二七八頁)にもある。  今度きりしたん候砌、女並びに子供出合ひ候とも、てきたい候はぬものは、か まひ申 され間敷者也 女子と子供は殺さないという軍律が、幕府上使によって定められ、長崎目付や諸大名から 兵士に通達されていた。先述の矢文における女子の助命交渉についても「こまか成儀、一 円さた無御座候」と異なるニュアンスを伝える史料もある(『綿考輯録』光尚代七ー一三 四頁)。  天草四郎の首を取ったことに関して、「四郎と分かっていれば生捕りにすべきだった」 という発言がある(三月一日付細川忠利書状、「部分御旧記」前掲二一頁ほか一九頁)。 事前の打ち合わせでも「四郎を生捕ニ被成候様ニ、併御手間なと入申候は御無用之由」 (上使戸田左門のことば、同二〇五頁)とあり、四郎に似た十五六の男子は生捕りにせよ と指示されていた(同二一五頁)。  実際細川家では多くを生捕りにした。記録にも「城中の者生捕多御坐候」と明白だ(同 二九二頁、『綿考輯録』六ー一三四頁)。黒田家や鍋島家の首数を細川方で記録した「き りしたん首目録」もあり、それには首級の数とは別に生捕人数が記されている(同二六六 頁)。落城の日、二月二十八日には早くも生捕りされたキリシタンの尋問が始まっている。  「(上使への使いの復命)松平伊豆様・戸田左門様江、  いけとりのきりしたんそれへ被進候間、かのもの口を御聞可被成之由、被仰進 候、則 きりしたん参申候(下略)」(同二二二頁) 信綱も直々にキリシタンから話を聞きたかった。問答無用で殺したわけではない。  もっとも捕虜も直ちに殺してしまったとする史料もある。江戸中期以前に成立した「島 原記」(『改定史籍集覧』二六ー三〇五頁)は、生捕りにした落人も廾九日に原城の焼跡 で「皆々」「一々」処刑したと書いている。しかしその前の記事で「原城の落人の内、小 浜村の村守才助、三江村(三会村)の金作、有江村の甚吉の三名が、小浜村の代官襲撃、 三江村の兵粮強奪の首謀者として、島原で竹鋸の刑にあった」と記している。すると無条 件・即時の成敗ではなくて、落人の人定(認定)つまり何村の誰なのかを確定し、そして 罪状の確定が行われた、つまり尋問・査問が行われたことになる。幕府としても、こうし たことが二度と起きないように、実情を正確に把握しておきたい気持ちは当然あっただろ う。落城翌日の一斉成敗は、そうしたことに必要な時間を見込んでいない。落人でのち処 刑されたものが多数いたことは当然で、そうでなければ攻城軍の犠牲者が浮かばれまい。 だが翌日の大量処刑というのは、前後の状況に照らすと不自然だ。  「有馬籠城之者一族宗門御吟味之事」と題する一件書類がある(「部分御旧記」二七一 頁)。原城に籠城した者も含め、キリシタンの嫌疑がある者一人ひとりについて吟味した ものだ。やはり罪状の軽重を確定しようとしている。彼ら彼女らの運命を決めたのは、キ リシタンであるか否かにあった。籠城した者の処分については、この史料では島原の松倉 家に送られたことまでしか分からない。しかし籠城したという件だけで、即、断罪され成 敗されたわけではない。  一揆を裏切った山田右衛門作は生かされてキリシタン目明かしになった。毒を制するに は毒が必要だ。キリシタンの内情に詳しく、ほしい情報をたくさん持つものたち。今後の キリシタン摘発に使えるものなら使いたい。まだまだ終わってはいない。キリシタンは各 地にたくさん潜伏している。  ジェノサイドの最中、自害する者も多数いた(同二九二頁)。切ってくれといわんばか りに、みずから首をさしのべる者もいた(同一六〇頁)。そうしたなかで捕虜になったも のがいる。捕虜もキリシタンであることを否定しない限りは結局は殺される。だがそこで 生捕りになったものたちは、その時点でキリシタンとしての殉教や自殺ではない、別の道 を選んだことになる。殉教した仲間や家族とは異なる選択をしてしまった。しばらく時間 が経過したならば、彼ら彼女らはキリシタンであることを否定し、助命を願ったのではな いか。  このように関係する厖大な史料を読み直していくと、相反する内容のものも含めて、様 々な情報が混沌としている。結果からひとつの像だけを描くわけにはいくまい。はたして 原城に籠城した者が山田右衛門作ただ一人をのぞき、全員が死んだといえるのかどうか。 次第に疑念が募ってくる。  しかしながら乱終結後の為政者は、籠城したキリシタンは一人残らず皆殺しにしたと強 調した。実際、誇張した宣伝が必要であるという意見は、当時も既にあった。 (今回の事件は)「から・てんしゆく(唐・天竺)ヘも相聞ヘ、又は以来迄之記録にも残 り可申かと存候」 という理由で、 「一ツの首ヲ二ツにも仕度候」 というのだ(覚書、「部分御旧記」六八頁)。こうなると記録された首の数も本当に信頼 してよいのか不安になる。  軍律に 一 一揆郷人たるの間首取不申、 と定められ(同五ー四七五頁)、討捨てだった(同六ー一一一、一二三頁)。「雑人ゆへ 首を不取」(『綿考輯録』六ー七三頁)ともあり、「雑人・郷人」の首は取らなかった。 細川家では「聞へ」のため翌日に首を拾い集めている(同一三四〜六頁)。鍋島家では切 捨にしたので首がなかった。生捕りのものを出したところ上使からそちらで「生害」させ、 頭を出せといわれたのでそうした(「有馬記録」<『半島史』三〇四頁>。朝令暮改。命 令内容に混乱がある。公称では黒田家が二九八三(黒田家譜・二ー一五九頁)、細川家が 三六三二(『綿考輯録』六ー一一一頁)。合計二万余の首数とも、一万八百ともいう (「有馬記録」<『半島史』二九四頁、各藩の内訳数は「原城紀事」<『半島史』七八〇 頁>)。だがみな「聞へ」のための数字だ。真の軍功に結びつかないこんな数字を、どこ まで信頼してよいのか。発掘時の遺体の状況にも合わない。  このように原城籠城戦の実態は意外に複雑だ。さてわれわれは、殉教者たちが原城に籠 城したというイメージを強く持っていた。しかし殉教者は籠城者の一部、ないしは一面で あったのかも知れない。籠城者が多く殉教し、死んでいったことは事実だが、即製の信者 も含めてだれも逃げようとしなかったとは思われない。彼ら彼女ら即製の信者たちは、以 前には非キリシタンとして辛うじてながらも生活できていた。そうした人々が皆、殉教す ることをめざして、絶望的な籠城戦に加わったわけではなかろう。原城の発掘調査は、確 かに通説への疑問の一石を投じてくれた。  そこで本稿はあえて一揆方、とりわけ即製のクルスを持つことになった籠城者たちの立 場、あるいはまたそうした人々を含めて、一揆をリードした人の立場から、この事件を再 考したい。結末から前提や過程を推測するのは結果論である。それは避けたい。そこで次 のように問題をたてよう。 (1)一揆方はなぜ原城に立てこもったのか。 (2)原城は退却路のない絶望的な城だったのか。 (3)島原の乱をめぐる虚像と実像はなにか。 以上を解明するため、本稿では以下の手順に従って、論を進めたい。 (A)籠城の前提      その1 彼らが籠城したのは石垣も取り去られた古城だったのか (B) その2 原城の備蓄米 (C)海は退路を断ったのか その1 原城の構造と有明海 (D)  その2 海上は封鎖されたのか (E) その3 「裏切り者」山田右衛門作の立場 (F)展望はあったのか ---一揆の思惑(おもわく)と松平信綱の恐れたもの---- (G)幕府が恐れたもの・ポルトガルの排斥と鎖国の完成  くりかえすが、本稿では原城に入城した人たちの気持ちにできるだけ近づくことによっ て、島原・天草の乱を再検討する。虐殺した側からではなく、逆に虐殺された側に視点を 移し変えてみれば、どのような世界がみえ、どのように歴史像が変わるのか。そんな期待 もある。 (出版社との関係で当面、公開は一部序章のみにとどめます)


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