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博多湾明治海図 

         写真キャプション・明治三七年の博多海図、那珂川河口に報午砲(正午を知らせる大砲・ ドン)・荒戸(西公園)沖合に地の瀬、間の瀬、中の瀬などの暗礁があった。いまそこが防 波堤になっている。全般に水深は二尋前後と浅い。                 毎日新聞2006/2/17(無断転載はお断りします) 博多の海を海図に読む                        服部英雄  地図をみることはおもしろいが、海図を読むこともまた楽しい。通勤に使っているJR 筑肥線から今津湾が見える。沖には遠く玄海島、近くには能古島。この広い海のまっただ 中に、人が立つことのできる場所がある。雲瀬という瀬である。瀬、つまり水面下に隠れ る暗礁で、海図によれば、最低水面下の水深は〇、八メートル。今津漁協で聞いてみた。 「波が白く立つ。時化のときが特に危ない。春の大潮なら立てる。ほんとうの引き潮には 頭が出る」という。立ってみたい気がする。  海図にはその横に四百メートル離れてもう一つ、常空庵瀬という瀬の名前も書かれてお り、こちらは水深一、八メートル。瀬の呼び名は港々によって、つまり漁協ごとにちがっ ている。今津では「常空庵---ジョウコバンのこっちゃろな」といわれた。瀬は航海者にと っては障害である。危険地点として海図に書き込まれた。反面、瀬は魚が集まる絶好の漁 場であった。海の生活者なら周知していなければならない。  雲瀬は沖合一キロ強である。和船の時代、長垂山から山見(遠望)をすると、目の特別 によい人ならば、雲瀬周囲に、黒く魚の群れが見えた。山から両手の旗で合図する。「押さ えれ!控えれ!拡げれ!縮めれ!」旗を見て網を引く船が左右に動いた。電探(魚群探知 機)導入以前の話である。  目に見えぬ水面下に関する知識。海の生活者たちは、少年時代から海に出ることによっ て少しずつ覚えた。経験者と同行し、一人前になるまでに熟知した。経験知であろう。  こうした瀬を書き上げた地図は、海図の登場までは存在しなかった。しかしまれに文字 表記されることがあった。「天正四年」(一五七六)の年紀が書かれ、寛文九年(一六六九) に写されたという箱崎・奈多両浦の相論文書がある(『福岡県史・近世史料・浦方文書』)。 そこに内海(博多湾と今津湾)の瀬が多数書かれている。 その一部分、能古島から今津にかけてをみると、 野古嶋前ニハ 亀瀬 つの瀬 くも瀬 さうし(*象瀬) かちめ瀬 瀬戸あい 今津前ニハ め瀬 今瀬  とあった。くも瀬は登場しているが、常空庵瀬はない。近世初頭にその名がなかったとす れば、後の命名となろうか。新地名「常空庵」瀬は、なにか難破事件を思わせるような地 名だ。  湾内最大の箱崎浦は「筥崎(はこざき)宮の神慮」により二季祭神役に鯛やミカキ、生 海鼠(なまなまこ)、八朔に荒巻、八月十五日に海老、蛸、カザミほか四季折々に海のもの の献上を勤めてきていると主張している。天正相論文書では、神威に加え、こうした瀬を 多数知ることが、他に異なる優越性、内海の「潮の満ち干を限り進退(支配)する」根拠 であると主張された。  経験知・非文字知がはじめて文字化された。しかし瀬の名前を知るだけでは真の実用知 識とはいえない。当時正確な地図も海図もない。広い海のまっただ中で、瀬の位置を正し く認識する必要があった。それは陸上の地点二箇所以上と、船との見通し位置から、瀬の 場所を確定する方法である。これもまた山見といった。それら山見の詳細は文字化されず、 あくまで経験知・非文字知のままだった。漁民であればだれでも知る知識を、文字化し記 録する必要は特にはなかった。  博多湾最古の近代海図は明治三七(一九〇四)年のものである。水深単位は尋(fathoms) で記されていた。日本の一尋(ひとひろ)も、西欧の1ファゾムもともに一,八メートル で、世界共通であった。明治段階では博多港周辺にも、まだまだ瀬が多かった。地の瀬・ 間の瀬・中の瀬が書かれている。  瀬は暗礁だから、危険な反面、天然の防波堤でもあった。次に作られた昭和 四(一九二九)年の海図では、地の瀬・間の瀬らを結んで、瀬の直上に博多港の防波堤が 築かれている。なるほどと納得する。暗礁の危険は回避され、強固な防波堤がに築かれた。 港湾内の浚渫(しゅんせつ)も開始されている。  博多湾等深線を読んでみる。博多湾内は意外に浅く、さきの間の瀬あたりでは二尋程度 の水深しかない。能古(のこの)島東方つまり博多湾の過半は水深三尋(五、四メートル) 程度であった。加藤清正の軍船は三五〇人を乗せ、船艙深は五、九メートルだったという。 三尋では不足する。大陸貿易船のものだという碇石は、博多湾の入口にある志賀島や、同 じく湾口の唐泊沖合からもいくつかが出土している。停泊中に何らかの理由で落下した。 『老松堂日本行録』の朝鮮通信使宋希_がそうしたように、船は志賀島に碇泊したままで、 それより博多へは小艇に乗り換えて往復することも多かった。島の重要性がわかる。蒙古 襲来時の元軍停泊地は伊万里湾の入口にあった鷹島であって、ただちに上陸はしなかった。 豊臣秀吉は博多ではなく、深い呼子の海を朝鮮への出撃基地に選んだ。そうしたことも想 起される。ちなみに現在の掘削された博多湾人工航路の水深は一四メートルである。


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