五味文彦「歴史の語り部としての地名」    『東京人』
「旅に出た時、そこに変わった地名がある
と、その土地の独自の歴史がぼんやりと
見えてくるような経験がある.
 都会の住所表示は味気無いものが多い
が、バスに乗ってゆくとバス停に興味
深い名がついているのを目にすることが
ある。どうしてこんな地名があるのかと
思い、それと周囲の風景とを結びつけて
考えること
 地名は、そこに暮らす人々の生活が深く
かかわっていたからであろう。地名は
土地に刻まれた歴史そのものである。 
 そのために地名から歴史を読み取る努
力は歴史学・民俗学・地理学などの多く
の分野で行われてきており、考古学にお
いても重要性が認識されつつある。
 そうした状況にあって、著者は中世の
荘園の研究を専門としていて、早くから
地名の聞き取り調査や、文献からの読み
取り調査を精力的に行ってきており、本
書はその成果の一つである。
 著者の方法は、現地に足を運び、そこ
に住む人々からの聞き取り調査を行い、
その土地に関わる生活を記録するもので
あり、どちちかといえば、民俗学の手法
に近いものがある。
 しかし民俗学では歴史性がどうしても
希薄になるが、著者はむしろ歴史性を強
調して、地名を歴史史料として位置づけ、
そこから地域の歴史を考えてゆく。
 こうした地名研究が絶大な効果をもた
らすのは、文献のない地域の歴史をも描
くことができる点にある。
 古文書などの文献が残っている地域
は、その文献を使って歴史を考えること
ができるが、圧倒的に多くの地域にはそ
れは残されていない。江戸時代になれば、
多くの地域で文書が村の行政のために作
成され、今日に残されることになるが、
中世においては現地に残る文書は少な
く、中央の荘園領主や武士の手に残され
た文書から考えざるをえない。
 そのためほとんどの地域においては、
中世以前の記録文献がないのが現状であ
る。そこで著者は地名から中世以前の歴
史を叙述しようと目指した。  
 文献が残る地域における地名との関わり
から、土地の利用や支配のあり方が地名に
刻まれていることを探り当て、その関係を
通じて地名のみから土地の利用の
仕方を考察し、これまで歴史の知られて 
いない地域の歴史を叙述するというもの
である。
 本書はそうした地名を利用した地域の
歴史を考えるための手引きの性格
をもっている。地名の解釈はどう行えばよいか、
地名はどのように付けられるか、何を伝え
るか、いつ頃のものかなど
地名の解釈学や史料学を提示した後、実際の地名
を歩く方法や歴史地図の読解の方法を示
し、最終的に歴史叙述をどうするかを語
っている。
 大学の研究室で歴史をこねくりまわし
て考えるのではなく、実践的な歴史の調査
の重要性を常に説いてきた著者の意欲
に満ちた書である。そこには単に歴史学
の問題に限定されない、新たな学問の可
能性を内何蔵しているといえよう。
 しかるにそうした方法にとつて、今
大きな問題が生じてきている。 一つは土
地の現状が大きく変わり、土地への記憶
が薄れつつあるという問題である。農山
漁村を生活の場として地名をよく知って
いた「古老」が失われ、過疎化も深刻
な影響をあたえている。
 この問題に対処するには一人の力では
無理である。多くの同志を募り、地名の
調査と保存を行う必要があり、それに向
(以下略)

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