(無断転載禁) 『日本歴史』633(2月号)108-111頁より 海老澤衷『荘園公領制と中世村落』 服部英雄 現在早稲田大学に籍を置かれる海老澤衷氏は、かつて大分県教育委員会に勤務 され、数十年にわたる事業となった国東半島荘園調査の基礎を作られた。氏が本 誌の文化財レポート欄に執筆された「豊後国田染荘の復原調査」は、まさしくそ の発端となった史学史に残る作品だった(『日本歴史』三九三、一九八一)。中 世の状況がいまにこんなにも残る荘園がある。そこに示された小崎地区の景観に みな驚いた。行政によるはじめての荘園調査に取り組もうとしていた人々に、大 きな感動と勇気を与えた。それまでの田染庄は一部研究者にこそは知られていた が、必ずしも全国区に知名度のある荘園とはいえなかった。その田染庄もいまは 学界共有のものとなり、日本の代表的な荘園になった。 その海老澤氏がこれまでの研究成果をまとめ、学界に問うた研究書。それが本 書である。タイトルの『荘園公領制と中世村落』は制度としての前者の「荘園公 領制」と、実態としての後者の「中世村落」の両者を追求したものという。以下 に目次を示すが、主として第一部が前者の問題意識に対応し、第二部が後者に対 応している。第三部は氏が実践してきた荘園(公領)の現地調査や保存問題・博 物館展示に関する論考である。 序章 中世土地制度と村落景観をつなぐもの 第一部 荘園公領制の地域的展開 第一章 荘園公領制の地域偏差----南九州三カ国に展開する島津庄を例として 第二章 日向国における別符の歴史的意義 第三章 「島津庄内薩摩方地頭守護職」と薩摩国の荘園公領制 第四章 豊後国の荘園公領制と国衙領 第五章 豊後国大田文の伝写過程と現存写本---「豊後国図田帳考証」の再検討 補論1 荘園公領制における海----若狭の場合 第二部 荘園公領制下の開発と名の変遷 第六章 豊後国田染庄の復原----開発と名の変遷 第七章 田染宇佐氏の系譜について---鎌倉・南北朝時代 第八章 宇佐栄忠と豊後国田染庄 第九章 中世における荘園景観と名体制 補論2 富貴寺の歴史的環境 第三部 中世村落の復原と保存に向けて 第十章 広域水田遺跡調査の方法 第十一章 中世村落の復原(田原別符の復原調査) 第十二章 中世村落の復原と保存-----和泉国日根庄の場合 第十三章 近世絵図による中世居住空間の復原---くにさきのムラを対象として 第十四章 棚田と水源---豊後国大野庄の場合 第十五章 地域における荘園の復原研究と歴史博物館 補論3 書評/服部英雄『景観にさぐる中世--変貌する村の姿と荘園史研究』 本書の眼目の一つは国東半島に所在した田染庄や田原別符などの、徹底した現 地の観察と、それを踏まえた中世的景観の復原であろう。ここでは紙幅の都合も あり、そこを扱った第二部を検討したい。現地調査に当たって、氏は独自の方法 や分析視点をもって、斬新に新事実を発掘していく。 たとえば氏の関心に名の復原がある。名の復原に当たり、著者はA型復原とB 型復原があることをまず示す。A型は名の遺称から名田を推定する方法。B型は 文書の名田分布を示す地名から復原していく方法。むろんB型の方が確実性は高 いが、史料的制約がある。著者は田染庄ではB型を、田原別符ではA型を採用す るが、備後国大田庄におけるA型復原への批判を意識して、A型復原の有効性が 付与される条件を確認して、その精度を確保している。 また名の動態変化を強く意識し、分析している。二一三頁に示された田染庄の 名の変遷表は意表を突くものだ。荘園制という制度のなかにあって、これほどに も名が消長し、入れ替わっているとは、いままであまり意識されていなかっただ ろう。名を固定的にとらえてはいけない。地理的分布の観点から、あるいは伝領 史的観点から。著者によって分析された名からはアメーバーのような印象を与え られる。名は一部が寄進され別名になって分割されていく。鎌倉期には糸永名の 一部と認識されていた重安名は、その後重安・末次名として、まったく独自の動 きを見せ、大宮司直轄領宮成を派生する。その性格は大きく変わる。こうした独 自の視点にたって諸事実を明らかにした点が本書の大きな功績である。 ところで鎌倉期の相論において、重安名の帰属が争われたとき、糸永名側の地 頭は糸永名の領有を示す文書のみを提出し、重安名文書は提出しなかった。彼ら には重安名が糸永名の一部であることは自明のつもりだった。このことからは近 江国菅浦と大浦の相論において、大浦が菅浦は大浦の一名であると主張していた ことが連想されよう。相論にならない限り、一方の史料のみからでは全く分から ない事実。名のレベルでは、そうした二重支配のような様相もかなりあったので はなかろうか。そうした事実を変遷表に加えうるならば、どのような表になるの だろうか。 さて名を動態的にとらえることが可能ならば、荘園公領、庄、保、郷、浦いず れも動態史的にとらえることが可能ではなかろうか。下地中分、分割、庄境の変 化など、庄領も公領も分布・伝領・支配に消長があった。しかし一方ではこれら の固定的性格も指摘されている。戦国期に到るまで、多くの庄郷は性格は変えな がらも、維持される。そうした両側面があった。名にも両側面があるのではない か。再度、先の表を見れば、一三世紀から一六世紀まで、三〇〇年にわたり継続 された名も多く、むしろこちらが主流という印象もある。動態的で変化しやすい はずの名が、実際にはかくも長く維持される。それはなぜか。その見通しも聞い てみたい。先の文化財レポートは、景観の一断面をとらえて単純明快だった。そ れを発展的に解消させた本書の考察では、田染庄の各名の動態的で複雑な様相は 明らかになったものの、逆に断面でとらえ明確だった印象は鮮明さを欠いた。名 の変遷表では、中世初期以来の名はたしかに人名(仮名)に由来するものだが、 後期のものは地名に由来しており、名の本質からは離れていよう。著者は「集落 名」と規定しているが、変遷表内の「名」は種々だとすると、同一には論じられ ない。 つぎにA型復原の吟味の上に分析された田原別符に関して。弘安二年(一三七 九)に地頭田原氏が利行名用水を打ち止め、永弘氏がこれを訴えている。この利 行名用水を著者は左岸下流用水である「大井手」とする。しかし四一〇頁の図を 見ると、利行名に密接な関係があるとされる古城得遺跡の一帯は右岸上流用水で ある今井手の灌漑域になっている。一般にわれわれが知る中世の用水相論は、庄 境などで、水利権付与の代替え条件などをめぐって、上流側が余水の配分を打ち 切った場合に起きる(丹波国宮田庄と大山庄、播磨国久保木村と大部庄など)。 利行名の大半を灌漑していた大井手そのものを止めることは、事実上不可能で、 ここでは上流にある今井手こそが、該当井堰だとみたい。今井手の余水を右岸下 流域に所在する利行名(一部)に流さなかったことから、相論になったのだろう。 さて氏の論考は多岐にわたっているので、限られた紙幅での言及は不可能だ。 叙述のスタイルに付いての感想のみを指摘しておく。一四一頁および一九六頁、 また二〇二頁で国衙領分布におけるハブアンドスポーク構造が強調されているが、 イメージの説明が不十分で、とくに前半では毛井村・佐賀関・国東郷がハブ、後 半では国衙がハブとある。前者が豊後、後者は若狭の事例で構造が異なるという ことのようだが、知識のないものには混乱を与える。国衙領の分布の模式図が国 ごとに全く異なっていたのならば、それはなぜで、また他の諸国はどちらの図式 に属するのか。問いたいし、記述されるべきであろう。また本書の核である田原 別符の復原が、六章の田染庄の復原のなかで、あるいは第三部一一章で他庄とも 関連させて扱われているが、第二部のなかで田染庄とならんだ独立した章にすべ きではなかったか。同様に「寄郡」のよみが「よせごおり」(工藤敬一説)なの か、「よりごおり」なのかについて、六一、六七、七一頁と、および一一五頁で 検討されるが、ほぼ決定的な材料である建武元年の「よりこをり」が、一番最後 になって登場する。読者には肩すかしであり、一カ所でまとめて論議してほしい。 成稿時の問題意識の違いを尊重されたことは理解できるが、読者からすれば一冊 の著書として、再構成、整理してもらった方が理解がえやすい。 また荘園調査を各調査主体ごとに分類した記述のなかで、鵤庄は調査団、大山 庄や大部庄調査は大学による調査と分類されている。この場合、苦労して予算を 獲得し、事前の準備、成果のとりまとめ、公刊までの作業を担った太子町や西紀 ・丹南町、小野市の各教育委員会スタッフの役割はどう評価されることになるの だろうか。全くの言及がないことに疑問を感じる。荘園故地の現地で生活する彼 らの努力がなければ、調査団・大学が調査を行うことはなかった。科学研究費を うけた早稲田大学による鞆渕庄調査などと、こうした行政による調査とは別だと 思う。 さて第三部の核心をなす荘園景観の保存問題については、本書刊行後も含めた 最近の動向がドラマティックである。地元地区住民全員が署名した圃場整備実施 の要望書・陳情書が出され、毎年毎年、明日にも壊されるのではないかと気をも んでいた田染庄小崎地区の景観が保存され、(国指定)史跡の指定が目指される ことになった。本書とほぼ時を同じくして、石井進『中世の村を歩く』(朝日新 聞社)、飯沼賢司「環境歴史学の登場」(『ヒトと環境と文化遺産』山川出版社、 所収)も刊行されたので、あわせての一読を願う。全国初の荘園水田オーナー制 度のもと、第一回の記念すべき田植えに参加された著者らのよろこび。本書の主 張はここにひとまず完結した。 (二〇〇〇年二月・校倉書房刊・全五四四頁)