『地名の歴史学』 服部英雄 角川叢書の一冊として、六月末に『地名の歴史学』を上梓する。つい数日前ま でファクスで地図の最終校正のやりとりをしていた。いまは全力を出しきった疲 労感が残っているが、時間がたつにつれ、はたして読者がこの本の記述にどれほ ど興味・関心を持って下さるのかを考える。 本書でわたしがいちばん書きたかったこと。一言でいえば、それは自らの足で、 地名を調査し、収集し、研究する楽しさである。 わたしの学問上の本籍は歴史学である。しかし歴史学を研究する時間のうち、 かなりの部分を地名研究に割いている。いくつかある課題のうち、大きく手間取 っているものがある。佐賀県におけるしこ名調査である。佐賀県では明治の地租 改正にあわせて、従来の小字名を機械的な新小字に改変した。たとえていえば、 それまで三の坪とか四の坪といっていたところが、一本松になった。大町とか、 深田といっていたところが、二本松になった。役場は新地名(新字名)だけを使 うようになり、それまでの地名は私的な通称になった。これをしこ名といって、 いまも住民が使っている。というか、使っていた。いまは圃場整備などで、地名 が付いていた耕地自体が変容してしまった。これからは使われることはないし、 忘れ去られるばかりであろう。 それで勤務校の学生たちと一緒に、七年前から佐賀の農村に入って聞取調査を 続行してきている。マスプロ授業だから学生の人数は多い。二人一組で、各自治 会(ないし農区)、つまり江戸時代の村ごと、明治以降の大字ごとに、古老を訪 ねて聞き取りを進めている。ざっとではあるが、いままで県内の旧三根郡、養父 郡、神埼郡、佐賀郡、小城郡、杵島郡、東松浦郡の八郡分の調査が終わった。残 るは藤津郡、基山郡の二郡である。市町村でいえば五市三一町五村(計41)が 終わり、未調査は二市六町(計8)となった。だいぶ先が見えてきた。既調査区 のうち、有明海に面する佐賀平野部だけでも、まず調査結果の報告を刊行したい と努力している。地名の収集量は、かけた時間とエネルギー、そして熱意に比例 する。不十分かもしれないが、それでも相当な数の小字以外の通称地名が集まっ てきた。みなの努力で、消えるはずだった地名を記録することができた。 地名愛好者は多いと思うが、一つの県の全部の村の古老たちからの聞き取りを 行って、地名を収集する。そんなことを試みた人は寡聞にして聞かない。そうい う意味では、わたしはよほどに地名に「はまって」しまった人間なのだろう。自 分がやらなければ誰も調査してくれまい。ほっておけば多くの未記録地名が消え てしまう。ただし義務感だけではない。時間さえあれば、毎日でもいいほどに調 査は楽しい。同じように佐賀県以外の日本の各地で、地名収集の作業を行ってき た。海でも、山でも、里でも。その時の経験や、楽しさを、ぜひとも読者に伝え たかった。そして地名を、歴史資料として、科学的に学問的に操作していけば、 いかに多くの情報が得られるのか。そのことも読者に伝えたかった。 地名の旅を続ければ、わからなかった地名の意味も次第に分かってくる。一つ の地名を順次尋ね歩くと、まるで歴史地図を見ているかのように、過去の世界が 見えてくる。地名には年紀(記された年代)がないが、年紀を持つ歴史資料(古 文書や古地図)と対比することによって、その時間帯にまで遡ることができる。 そういう事例が多い。そのことを応用すれば、年代を記した歴史資料・文献資料 が残っていない地域でも、地名地図という歴史地図を読みとることができ、また 地名という歴史資料自身によって、歴史叙述も可能となる。文献は必ずしもどこ の村にもあるわけではない。しかし地名はどこにでもある。 地名研究の金字塔は柳田国男『地名の研究』で、角川文庫の一冊だった。鏡味 完二『日本の地名』は角川新書だった。『地名の歴史学』という本を、みたび角 川叢書として問うことができる。地名から多くの歴史を解きあかした柳田は広い 意味での歴史学者であった。しかしこの著書以降、アカデミズム歴史学の主流は、 なぜか地名への関心をなくしたかのようだ。地名の歴史資料としての位置づけ、 価値は揺らぐことがない。本書は地名地図を歴史地図として読み解く方法を示し、 そのことにより、地名の価値・重要性を再確認する。