地名の歴史学(初版本)・正誤および補訂

**以下は再版後は訂正されています。

二三頁五行  後述二〇六頁→後述一九九頁図、二〇五頁
三七頁写真キャプション三行目 深サ弐間→深サ十二間
四八頁二行 カツカラ(加唐)島→カッカラ(加唐)島
六一頁一一行 北東に流れ→北西に流れ
六四頁本文二行 紙背文書の書かれた年号→紙背文書に書かれた年号
六五頁五行、一四行 七〇頁八行『大和条里復原図』→『大和国条里復原図』
六六頁上 大和国乙木庄絵図→(絵図の下が北)*注記を加える
六七頁    乙木庄地名地図→南脇田(小字なので、細明朝体)
九九頁五行 聞取り調査→聞取調査
一一六頁九行 ある程度意識→ある程度、意識
一二二頁一〇行 論考「博多」→論考「今津・姪の浜」
一二四頁一三行 関門、聖俗の境界の意味→関門の意味
一二八頁八行 寛天寺→寛元寺
一三六頁八行 肥後国々分宿仁→肥後国々分宿仁(*仁は小文字)
一四三頁一二行 或不(二)寄出家(一)  →或不(二)寄出家・侍・百姓等(一)
一五七頁一一行 受けた。→受けた(一六〇頁、一六一頁図版参照)
一六〇頁図版(下図天地逆)→別図に差し替える
一六七頁図版四条、五条、社(ポイント上げる)
一七五頁三行 一所斗度呂木小狩倉→小狩倉(ポイント落とす)
一七七頁六行以下一〇行まで→ポイントをあげる
一七八頁一行 狩猟の時期ではなく→狩猟期だけではなく
一八五頁八行 崩ヶ尾(くずがお)→崩尾(くずれお)
一八六頁五行 矢岳事業所では→ 矢岳事業所管内では
一八八頁四行の終わりに挿入     寛元の中分状(史料1)にみえる下二田尾(小字仁田尾)
がこの間に残っていることも気にかかった。
二〇〇頁二行 天文八年(一五三九)--念八(二八)→(一五三九)--(二八)は傍注に
二〇一頁四行・五行 「明徳五年(一三九四)」--「応永四年(一三九七)」
         → 「明徳五年」(一三九四)--「応永四年」(一三九七)
二〇二頁一〇行 銭塘よりも古い時代の干拓であるのが内田の特色である。
    →銭塘よりも古い時代の干拓地名が内田に残るといえる。
二一〇頁図版  今新開村(□で囲んで中道の北に)
二三八頁二行
群馬県では---まるで逆になったそうである。
→
群馬県では住居表示の結果、前橋市、伊勢崎市、館林市に新たに大手町ができた。
伊勢崎市には曲輪町ができ、前橋市ではそれまでの曲輪町が消え、まるで逆にな
った。
二四〇頁一行 一〇月一七日→一〇月二七日

(初版から3版を通しての正誤
五三頁図版 ベベノヒラ→ヘベノヒラ
一三七頁一四〜一六行  削除

補注
『武功夜話』に富加、八百津などの新地名が登場する矛盾は『偽書の日本史』(歴史民俗学15,1999)の8,10,21,75頁に指摘されている。

第四章のうち干拓に関わる部分では先行研究、磯永和貴「有明海の干拓」『肥後・熊本の地域研究』(平成4、大明堂)を参照した。

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