服部英雄のホームページ

凝縮されたバリ島3昼夜−−04/8/22−26の野帳から

 はじめてバリ島を訪問した日から一年半が経過した。多忙な日々の中で記憶 は薄れつつある。走り書きの野帳(備忘録)は、自身でも難読であるけれど、 求められたので記憶と野帳をもとに、あの濃厚に凝縮された四日間を回想した い。 22日ガルーダインドネシア航空881便  福岡空港から朝一便で成田へ。ぎりぎりだったが、なんとか最後尾の右窓席 が確保できた。11時発。潮岬を右に本州を離れ、島づたいに行く。空港のあ る島2つを確認。見覚えのある島ではない。港湾整備は進んでいないが、耕地 形状は規格的である。大東島?であろうか。やがて台風影響の範囲内にはいっ たらしく、視界は効かなくなる。ブルネイ上空、推定コタキナバルあたりで視 界が開けた。熱帯森林、川は蛇行し、その周りは太陽に反射している。湿地帯 なのだろう。潟湖を形成して海に出ており、日本のような人為開削はないよう だ。大規模な伐採地も見える。やがてカリマンタンの平野部へ。水路はあくま で直線的で計画性のあるものだ。その周りで煙が上がり、やがて空まで届く数 十の煙がみえた。飛行機からも視認できる煙は焼畑と考えていいのだろうか。 焼畑は国策で禁止がふつうというのだが。壮観なアジア的景観におどろく。  夕方17時過ぎ、デンパサール着。空港でポーターがやってきて、みなの荷 物を運び始める。自分はリュックだから断わることができたが、Tさんはいわ れるまま一〇〇〇円を出した。ほんとうの相場は1000ルピアで、向こうも 指でそう示しているのだが、両替前でわからないことに目をつけた商売だ。5 0円でよかったことになる。空港から車で東海岸チャンディ・ダサへむかう。 通訳ガイドはスシラーさん。すし・ラーメンとおぼえてほしい、とのこと。日 本訪問歴はないが日本人と接する日々だから日本通である。夜チャンディ・ダ サ(CANDIDASA)到着。東海岸のリゾート地である。  余語先生から両替をしてもらう。50,000ルピア9枚、10,000ル ピア7枚1000ルピア17枚。これで3日間、ほぼ足りた(1万円を両替し たと思う。1円は20ルピア強。)。あとは最終日にわずかを両替した程度。遅 めの食事、ビールはビンタンVINTAN、レストランで蛙を食べた。貧民階層の ものという余語先生の説明。全体に辛い。爆弾テロ(*2002年、これが初 回、その後2005年にもあった)以来、日本人の客は減っていて、この宿や レストランは我々少人数ながらも、団体のおかげで潤っているはずとのこと。 23日(月)。  朝、庭から海を見に行ったらセーリングしろと現地人がセールス。沖にみえ る小島まで、1時間半とか。女性がひとり乗って帰ってきて、彼氏が迎えに出 ていた。ガイドが釣ったらしい魚をサービスで見せている。  玄関に暦があった。スシラーさんから実物を見ながら説明をうける。  1年210日。7曜日、5曜日、3曜日がある。5曜日、3曜日は文字で書 き込む。今日が何曜日かはバリの人にはだれもわからない。田植えや農作業に 都合のよい日。建物を建てていい日、基礎をしてはいけない日などがあって、 文字で書き込まれている。葬式に悪い日があるけれど、その日は組合を作るこ と、会議をすることはよい(日本の友引に似る)。  あとでわかったが、決められた以外の日(田植えに適切な日以外)も作業は していい。たとえば今回8月23日が田植えに最適の日で、24日はよくない 日だった(*スバック博物館では田植えによい日は太陽暦の5,7,8,9, 16,20,22,23,30。苗(種まきか)は6,14,18,30がよ いとの説明、太陽暦は「いまの若い人」が使う)。  実際には24日も25日も農作業が行われ田植えもなされていた。ただ開始 することが適切かどうか。その日に少し着手して、あとは続けていけばいい。  この日8月23日が一年の節目、210日に当たる日であった。 *視察資料によれば、太陰暦であるサカ暦とバリの伝統暦ウク暦(バウコン暦 とも)の2種があって、後者の7周期と、5周期を組み合わせて35日がツン ペック(1月)、それが6廻って210日となる。210日は太陽暦ではない から、太陽暦の毎年決まった日とは一致しない。なお博物館で受けた説明では 太陽暦はスーリャカレンダーという。  日本でいえば元旦に相当し、また盆送りにも該当する祝祭日である。そのた め各地でいろいろな祭りが行われていた。二度と体験できないような凝縮され た時を過ごすことができたのは、この日を選んでくれた海老澤隊長のおかげで ある。  まずジャスリ村(地図のJasi kauh はジャスリ南、Jasi Kalerはジャスリ北ら しい)に向かう。村にはクルクルという木鐸があって、塔のような高い位置に ある。日本の鐘のような役割をする。スバックのクルクルは午後5時に撞かれ て翌朝の集合を知らせる。用途によって音がちがうらしく、下手に叩くと罰金 を取られる。  土器作りのおばさんの家に行く。おばあさん、80歳ぐらい。210日一年の 80歳ではなく、365日一年・ウェスタンカレンダーでの80歳とのこと。年齢 はどうしてわかるのか。日本の兵隊がきたとき何歳、アグン山が噴火したとき (1963)何歳という具合。長女は40いくつのはず。  スシラー氏は、自分は46歳といっていた。バリカレンダーのどの日かは覚 えている。ウェスタンカレンダーでは日付は変わる。曜日は見ないとわからな い。むかしのおじいさんはバリ文字がうまい。ロンタル文章のしたにウェスタ ンカレンダーを書き込んでいた。生年月日がわかった。  ロンタルの葉っぱ(椰子の葉)がない。もっと年よりはわからない。  学校ではバリ文字を教えない。インドネシア文字。バリ語は話すことはでき ても書けない。バリ文字は滅びていくだろう(スシラー氏は読めるが、たどた どしかった)。  土器の土は近くのものを買う。焼くのは近くの場所。土はあまり高温には耐 えられない。磁器も陶器も両方は焼けない土。ここでは粘土を丸くして立てる。 それが特色。ふつう日本でも巻き上げていく。口縁部など薄くなるところを補 強していく。  ろくろ台は膝で回す。土を叩く。おばあちゃんのだんなは早く死んだ。財産 は必ず男が継承する。しかし男の子がいなかった。男が家にいなくて、かつこ どもの女が未婚ならば保留の扱いになる。それで長女は、結婚せず。次女は3 人ほど子供がいる。長女が死ぬまで保留の扱いは継承される。それであの家に は男がいない。  スリリットさん、おばあさんが二人の子供が−−(*以下の−−は野帳にメ モできなかった部分)。カーストの一番下の階層では男と女の双子が生まれる とよくない。1ヶ月42日−−。王様の場合は男と女の双子が生まれるととて もいいこと。この家は双子の神様−−。チャチューさんとチャチィーさんは従 姉妹。苗字はない。  黒い砂糖を使った粽風のお菓子ドドルがおいしかった。椰子砂糖、ココナツ ミルクで作る。ビュカン、ビュラデャーはバナナの種類。ジャンブーは果物。 エナックはおいしい。  家の前、十字路などにお供えが置いてあった。お祈りのあとは踏んでもよい。  あちこちにシリという葉っぱがある。ショウガのようなニッカのような香料。 これに珊瑚礁を砕いた石灰パモロ、そしてビンロウジュの実を混ぜる。ガンビ ル・グアッピルン。タバコの代わり・かみタバコ。噛むと口の中が赤くなる。 おなかが痛いとき、妊娠のとき食べる。  僧侶に二種類ある。プタンタは高僧、世襲が多い。バリに二百人。バラモン 階級。サンスクリットの経典も読める。生き字引。並べもの、食材料(供物か) 全部指示する。全ての人がいうことを聞く。終身で交替はない。プマンク、条 件はない。影芝居師、階層が二番目、そこから出る。スードラン(平民)、そ こから出る。家系による。村の堂守のプマンクもいる。継承は1子孫、2選挙、 3トラスト(神のお告げ)、勉強は4段階ある。1,2,3−−、4は神に誓 うだけ。  ブラックマジック、ほとんどの人はわかっていないし、わかってはいけない。 そのことはいいたくない。口にしてはいけない。  ホワイトマジシャン(バリアン)、それは薬草で調合、精神状態のカウンセ リング、治療術と霊媒者は分離する傾向にある。乖離性、別人格になる。  依頼人、口利き者がいる。ヒーラー、死んだ人がしゃべる。そのお礼は足り ない儀式を行う。クライアント、清めの儀式が足りなかったとかいう。あのと きあれをしなかったから、雨漏りでもお祈りが足りなかったといって、やり直 す。そのときはていねいにする。  昼食は道に面した店で、箸を使わず手で食べた。魚は池からすくって焼く。 だからおいしい。けっきょくここの魚が一番うまかった。手で食べるのはむず かしい。しっかり握らないとぽろぽろ落ちる。平将門を思い出した。日本でも 箸を使わない文化は長かったのだろう。 祝祭儀礼クニンガン  バサンアラス村Basangalasの祝祭儀礼クニンガンをみる。盆送りに該当する 行事である。寺に行き、最初に海老沢隊長が村長にあいさつし、お布施も渡し た。寺の外側の庭で美しく着飾った少女たちの踊りルジャン。観衆がすくない のがふしぎなくらい美しかった。踊り手は15歳以上で、結婚前の女性、いっ てみれば処女に限る。みたところ3分の2が、10歳ぐらいの少女だった。見 学している少女もいた。何かの事情で参加できなかったのか。あるいは他の村 から見学にきていたのか。  家の創始者が23人、ひとり病気を治して貰って入った家が一軒、計24軒。 娘を出せない家は罰金を払わなければならない。  美しいが単調な踊りがずーっとくりかえし続く。最後の一回だけが手の形が 変わる踊り(レゴンか)になった。長かった踊りがおわったら、少女たちはど っとなった。いかにもやれやれという感じ。そこは子供だなぁと思った。全員 寺の内部の前庭に入って読経が行われた。   見学者の中に仲間はずれのような老人が一人いて気になった。乞食・ホーム レスもいることはいる。余り物を分けてやる。施しをうける。しかしこの老人 はそうではないとのこと。  踊りの途中で村の中を見学する。クニンガンのお寺からまっすぐの道がある。 この道で悪口をいうと、なにか悪霊がでてくるというような話だった。水田の 向こうの丘に冥界の寺プラダレムPuradaremが遠望できたが行かなかった。埋 め墓があるとのこと。葬式は最大の祭り、骨は灰にし、海に流すとき儀式がい る。 水の取り入れ口があって、テラオンガン(トンネル)があった。その上流には 沐浴場Mandiがある。帰りにバスが通りかかったら、数人の女性がさっと物陰 に隠れた。悪いことをしたような気になった。  このあとウブドに戻る。途中祭を見るために必要なサリー(スカート)を求 めに立ち寄る。海老沢さんだけが買った。あとタイ料理の豪華な店で夕食。ふ つうならここで終わり。しかしこの日は夜からが新たな始まりだった。 タンバハーン村でみたチャロナラン・ランダの舞   ランダの舞を見ることは当初予定表にはなかった。一行を誘ってくださった 余語先生に感謝したい。新年を迎える日・210日だったことが幸運だった。  目的地は、バングリーBangli県タンバハーン村(メモによる。翌日地図で確 認したかったが載っていないということだった)。ホテルに入ってチェックイ ンしたあと、バスで中継地へ。そこまではよかったがその先はバスの入る道は ない。余語先生の助手であるニョマンの運転する車に乗り換える。後部予備タ イヤを積んでいるせまい一人がけの席に高橋さんと二人で入る。5人乗りのジ ープ一台に10人ぐらい乗った。むろん舗装などのない急坂で、車は揺れるし 大変だった。それでも30分ほどで到着。既に劇は始まってどっと笑い声がす る。ひどい下ネタ話だそうだ。  チャロナランで魔女ランダRangdaの舞を演ずるのは日本人出家僧・川手鷹 彦。  着いてまずスカートを巻く。小屋の裏の方に花札賭博をするグループもいる。 寺院の前の広場、仮設のテントのようなものに、はだか電灯、蛍光灯。蛍光灯 はつけたり、消したりと操作される。その前では楽器が演奏される。寺院の中 にある控えのコーナーで川手さんと挨拶。 * 川手鷹彦氏はバリの演劇や治療教育関連の著作が多い。インターネットの サイト検索でも容易にその経歴がわかる。また余語先生とも親密である。  この祭は寺院の誕生日。寺院は冥界の寺プラダレムといわれるが、プラダレ ムというのは深い、深淵なという意味。  村にはランダの面が伝えられていたが、長く踊り手がいなかった。210日 に加えて、創立記念日オダラン?である。今年はとくに寺院の新築を行ったば かりの記念すべき祭の日、誕生日。生涯一度あるかないかの特別の祭りである。 村人はすでに20日間も祭りをしており、最後の高揚した儀式の3日目に当た る。最後の厄払いである。ふだん川手氏は自分専用のランダ面を使うが、村長 から、村に伝わる面をかぶって欲しいと要望された。ランダの面は自分の面で も事前につけることはない。面は顔に合わないと目が見えない。その点が心配。 見えなくとも踊れるとは思うが(結果として実際に見えなかったが、踊りにく くはなかったとのこと)。*以上が川手氏談  村にある伝統的な面を着けると、村人がふだん見ている面が動き、声を出し て人格を持つことになる。トランスを引き起こしやすくなる。面自体に獣性が ある。  村人が行う劇(喜劇、素人劇、前座)と、一座が行う劇は分かれている。喜 劇はこれから起こることの伏線にもなっている。  今回は川手氏がランダを舞うことで、とりわけ前評判が高い。かれのカリス マ性はたとえば対抗するバリの男がいた。同じ日にそれぞれが別の場所でラン ダを演じた。一日中スコールの日だった。その男の演じている間は大雨ばかり。 大失敗。川手さんが演じた方は月の影がさした。たちまち評判になった。村人 は新聞をみない。みなクチコミで拡がる。  人間国宝クラスのデワアジI dewa Made Rai /dewa agiさんも寺にいた。川手 氏はデワアジの後継者である。バリは4人まで奥さんを持つことが許されてい る。デワアジは奥さんが4人、子供が10人いる。4人の妻のうち2人はすで に死亡し、1人は離婚した。正当な妻は最も高いカーストの出身だったが、同 じカーストの妻もいる。その間に生まれた娘は義理の妹になっている(正妻を はばかってかと思ったが理由は不明)。カーストを超えた結婚はある(プダン ダム−−)。 *カーストを超えた結婚はむかしは禁止、自由ではなかった。今は自由、しか し男が上で、女が下だとよく問題が起きる(本人同士で)。女が上で男が下だ とまず親が許さないことが多い。  ランダはデワアジ家でなければ演じられない。長兄がおり、川手さんは次兄 として養子になっている。デワアジは日本の海軍に軍属としていたこともあり、 たまにアカハダカのような日本語を発することもある。かれの才能は老年にな って発揮された。60代、最後の弟子が川手氏である。デワアジもトランスに なりやすく、大男になって、大股で市場まで出ていってしまい、みなから早く 寺に戻れと懇願されたことがある。  デワアジに子供が多いため、後継者争いもあった。いわば一族内の葛藤であ る。長兄は才能に恵まれたが、横やりが入って舞手にならなかった。その子の バユウは才能もあり、カリスマ性もあるが、まだ10代。日本人の彼はその成 長までのロングリリーフという見方が一部でなされている。バユウはこの日、 ランダの手下・子分であるラルンを演じる手はずであったが、急遽交代し、結 果的に別人が演じた。川手氏は主に日本(沖縄)で生活するからその面で反発 もあるが、勉強熱心で認められている。  川手氏は、あらかじめトランスが出ると予想して一座に警備役・護衛役を配 している。出ないかもしれないが−−といいつつ 。  チャロナランはわざわざ部外者にみせない。見せるようなものは霊が入って いるか、どうかわからない。(異なるもの、異次元のものをもちこんで)村の 人に何か災いがあるといけないから、とても気を遣う。胸を刺されるシーンは 事前の雰囲気で危険が予想されればやらない。胸板(プロテクター・Mesh)を はめていてふつうはそこをさされる。しかし興奮する(トランス状態になる) とほんとうに板の場所をはずしてさしてくる。自分(川手)も脇腹をかすられ 傷を負ったことがある。そのときはわからなかったが。 −−今日は特別な日だからビデオは撮った方がいいかもしれない(川手氏発言、 余語氏が撮影担当、三脚などはじめから準備していた。前から協力をいわれて いたと思う)。写真は撮らないことにしようと余語氏の指示があった。沖縄・ 新城島での秘儀アカマター撮影では死者が出た。緊張する。  チャルナラン(チャロナランCalon arang)の行われる地方は限られている。 行われる地方はバングリー、ギャナル、バドン、タバナンなど。クルンクルン Klungkungにはない。カルンガスムKarangasem、まったくない。  われわれが会場に入ったときはすでに人が一杯。それでも新たにむしろが用 意され、前の方に座らせてくれた。演技場を狭めかねなかったこの人の輪は、 じっさいにはじりじりと、あるいは急に大きく後退した。  最初の他愛もないような笑いを取る話はこれから起きる高潮の前触れだ。 チャロナランCalon arangは国王に娘を嫁がせるべきあくせく策動するがうま くいかない。国王を恨んで黒魔術で疫病ペストを流行らせる。パフ(未亡人) チャロナランを倒さねばならない。チャロナランは死ぬが浄化できず、悪魔に なってよみがえる。  ペストが流行る場面では、実際に村人が死者と棺を担いで入場、棺に入った 人は沐浴してから棺に入った。祭りは三日目で最終日だった。村人はすでに陶 酔状態にあった。  ランダ(チャロナランが変身した魔女)は事前に面を着けずに階段状の神殿 にあがっている。ある場面になって面を着けて降りてくる。定かに目撃しそこ ねたが、階段を下りはじめた段階で、つまり劇中に登場した段階ではやくもラ ンダに突進する人物がいた。ランダが低くうなるような声をしぼり出すと、場 内は騒然としてトランスが頻出する。われわれが見た光景は筆舌に尽くしがた いものだった。録音はできたのでいつでもその雰囲気を復原できる。ガムラン の音に鈴も混じっていた。そのリズム・テンポが急になると、騒然たる光景が くりかえされるのだった。この音も重要な誘発要素である。解説類ではランダ は飛び跳ねるような仕草をくりかえすというのだが、そういう劇らしい劇には ならなかった。かなりの混乱・錯乱状態であった。 1 最初に飛びかかった人がいて、そのあとも飛びかかる人が出た。襲われる ランダはこの間低い声を上げ続ける。トランス状態の人には白い布で静めるだ け。 2 奇妙な形、麻痺したような歩き方で引きつったように、歩く人。 3 気付けに酒(ア−−ン)を呑まされるが、ぷーっとものすごい勢いで霧状 に吹き出す人。その男がこちらに近づいてきたので、みなあわてて退いた。 4 自警団のユニフォームを着た男が夢中で土煙を上げ、素手で穴を掘りだし て止めない。土がたちまち深く掘られていった。たぶんモグラか何かに戻って いる。 5 小鳥をぶら下げてトランスを誘発する。その小鳥(ひよこ)に飛びかかる。 これもキツネかネコかの動物霊になっているのだろう。 6 10人以上がトランス状態になった。ガード役・対処役もいたが自警団が もっともひどくトランスするくらいだから、冷静な人はいなかった。 7 僧侶が気付けに水を飲ませて歩いていた。    騒ぎが収まってまた寺に戻る。しずめがなされる。気を失って担ぎ込まれた 川手氏が意識を取り戻す。そのなかでデワアジの説教が続く。みなで経文をと なえる。最後に川手さんがバリ語で挨拶。どっと湧いたが、笑いをとるのは新 年らしく迎えるため。  最後に川手さんの家に行って立ち寄ってお話を聞いてホテルに帰った。何時 になっていたのかは記憶がない。  トランスはバリのコンテキストのなかでは科学的で、合理的である。社会の 安定に貢献している。劇場では訪問者も見られている。われわれには啓示的な ことである。トランスにあう人は物静かな人で、日常的には抑制されている。 トランスは解放的爆発である。バリに犯罪は少ない。ミュージシャンも同じ。 専門化することによって救済がなされる仕組み(以上余語先生によるか)。  警察は信用できないから自警団が見回る。泥棒が入ったら自警団の恥。昼も 見ていないようで、見ている。犯罪者は村八分に会い、田の水がもらえない。 死を意味する。刑務所にいるのはジャワ人、外国人で90%。  自警団は制服がかっこよいとあこがれられる。若者、青年団に近いが、村ご とによってちがう。自警団に入る資格などは多様性がある。バリの歴史の中で 領土の取り合いがあった。村を守る必要から伝統的なものである。 24日(火)*翌日のスバック博物館見学の話題も併せ記す  バリの水瓶・水のタンクといわれるバツールBatur湖。その湖畔、といって も直面しているわけではなかったが、最大の寺院Pura Baturに行く。ここは 観光地だから、バスが着くとこどもたちがよってきて、物売りをする。昼食後、 湧き水の豊かなPura GunungKawi プラグヌングカウィ寺院も訪ね、それよりテ ガラランのRice terracesを見学した。観光地で現地衣裳の人物にうかつにカ メラを向けると代金を要求される。  米は2年5作、そのあいだに1作(別作物)を挟むのがふつう。ただしこれ は現在の品種になってからで、本来のバリ米なら2年3作。太陽の日射しが強 く、一年中耕作に適している。稲刈りをする田もあれば、同じ日に田植えをす る田もあって、季節に規定される日本の農事暦(太陽暦)のようなものはない。 しかし川に水がなくなる時期がある。それは雨季とか乾季には関係なくある。 それで米を一年中作ることはできない。そのときはニンニク、ネギ、トウモロ コシを作る。田があると必ずダムがある(ダムといっていたが用水堰を指す)。 井堰、水浴び場になる。男は上、女は下。人間は夕方5時くらいに水浴びする。 牛は時間をわける(昼前らしい)。  田の広さの単位はCatuチャット。播種量が単位である。椰子の実の皮半分を 入れ物にする。むかしの計り、計量カップである。そこにアプサタabesatak、 つまり籾殻のついた米・種籾を入れ、それが3杯でアチャット(1チャット)。 籾殻付きの米をアプサタバースというし、アブサタジジィ(ジィティ)ともい う。バースbaasはインドネシア語、ジィティは---。  いちばんきれいなジィティをビニールに入れて、川か水の中に入れる(発芽 させる)。むかしは箱。苗のところを用意する。鳥がくるから藁を置いておく。 苗になれない種もある。21日(210日の10分の1)が経過すると、苗を 植える(田植え)。バリ米は苗の背が高いので半分に切る。10センチぐらい (*日本でも7月過ぎて伸びすぎた苗は折る)。  収穫のあと耕して水を流す。自分のうちに牛が一頭しかいないと、借りる。 牛を借りていいですか。牛小屋まで取りに行く。朝早くベイ(ベハ?)のなか に草を入れる。揺れないようにする。昼間は音が出る。テンガラ−(からすき) とか農具が用意してある。荷と牛。  牛は2頭を連結して連結棒にテンガラー(からすき:タンガル、センガラと 聞こえることもある)を引かせる。右専門の牛、左専門の牛がいる。位置を交 替させると危ない。1頭だけを使うことはない。水牛ならば一頭。牛を1頭で 使えば慣れていない、かわいそう。牛の牡は使わない、雌は優しい。雌を使う。 キンタマを落とすのは豚や犬だけ。おす牛にはしない(たぶんヒンズー教徒は とても牛を大切にするのだろう)。あまり叩かなければおとなしくなる。牛を 結婚させるのにいい日がある。穴を開けるのにいい日もある。竹で刺すから日 を選ぶ。土を耕す練習もいい日を探す。  耕すのは朝早い。5時半ぐらいに田んぼに行く。広さによって10時くらい まで。牛が耕す間、チャモCamok----  すみは牛が耕さない。こどもがチョンチョンと耕す。7時頃にコーヒー、サ ツマイモを持ってお母さんが来る。田んぼは下にある。子どもは上を見ている。 何で向こう見てるの。お母さんが来ると(子も、たぶん父親も)すごく喜ぶ。  スバックの寺というのは、田のなかの小屋。小屋がなければあぜ道だけ。タ バコ、コーヒー、小屋でのむ。お母さん帰る。自分だけが耕す。近所に手伝い をお願いするときは、ふだんより多い量の料理を作る。田にドジョウがいると とって、10〜15匹も取れば夕方おいしい料理。ナマズは川、用水路。ドジ ョウは捕りやすい(スバック博物館にはドジョウを捕るための漁具・もじり網 があった。日本の弥生時代にもあるとのこと、うえから逃げないように投げつ けるもののようだった)。  お経祭りには必ずお金、お米を寺に寄付する。  10〜12時。牛を洗ったり、道具を洗ったり。12時、みんなで休憩。木 の下に集まって。村ごとを話したりもする。家で食べることもある。11時ご ろ、簡単な家の仕事。寝る人もいる。疲れたら昼寝。  3〜4時、牛のエサ、もう一度田に持ってくる。牛のエサに草を刈る。木の 柔らかい葉っぱは田の肥料。椰子の木、バナナの木。牛の糞と一緒にマリカン、 土を戻して平にする(エブリを使う、田植えの前)。  水を浴びてから夕食。6時半から7時。一緒に食べる習慣はあまりない。遊 びに行く。金があればバクチをする。闘鶏、負けてばかり、金持ちになる人は いない。勝っても何もならない。負けたらサキ?になる。10万ルピア勝つと、 2万5千ルピア配る。10万負けたらーー。胴元だけが勝つ。やる人はみな負 ける。お寺の中でムチュッキ(トランプ)。いいことじゃない。金を掛ける。 私もやるけど寺ではやらない。バクチの神様もいる。夜逃げする人は町のなか にはいる。金のあるとき考えてくれ。生きているのは一回だけだから、という 人はいる。土地をいっぱい持っていて、それを売って金に換えて、車を買う。 今度車を売ってバイクを買う。つぎバイクを売って自転車を買う。つぎ自転車 を売ってラヂオを買う。つぎラヂオを売って鳥を飼う。一番、最後はリンゴを 買ってそれを子供が食べて全部なくなる。何も残らない人はいる。 (日本だと家族を売る人がいたが)バリにもいる。  水路に木枠がある。丸いのが椰子の木。Temukuトムク、切るということ。 切るTekTek.木枠に刻まれた長さは指何本。スバックの長が決める(指の太さ は個人差があるがたぶん長の指の長さで決まる)。(*形状は日本の木製の斗と、 まったく同じである)  Telabehトラパは水路、Gudeは大きい。CenikもCelikもともに小さいという 意味。Temgudeトムグデはダム、大きなトムクック、反対がトムクチェネェ。 田の上にはダム(井堰)がある。  指一本、むかしのはかり、アニヤス。アニャーリー。伝統的大工もアンニャ ーリ。足はアタンバ、一歩1 Footがアタンバ、手を拡げればアドゥプー。民 家を造るとき、メインの人の指や手の長さによって建てられていく。背は使わ ない。背で計ると寝ないといけないから。  翌日のスバック博物館で指4本が35アールという説明を受けた。水量は一 定しているという前提らしい。上流で切り込みは大きく、下流にいくほど小さ くなるという。  田植えは耕してから1日か2日おく。田植え歌はあるかと聞いたら、たまに しゃべりながら歌うことはある。楽器は使わない。田植え後2週間で、根がよ く張るようにお祭りをする(ウルンチャッツク)。  水路めぐりをしていて、上の田と下の田の中間に段差のある田があって、何 かという話になった。階段テラスでウンラックといっていた。岩なのか、上の 田が崩れないためのものか、よくわからない。  バリ米は落ちない。一度米倉に入れても落ちない。上だけ取るということだ った。稲刈りでは叩いて籾を落とす。  夕方ガムラン鑑賞。次の夜のケチャもともにすばらしかったが、ずいぶん洗 練された高度な芸術だった。 25日(水)  ウダヤナ大学訪問後、考古博物館、スバック博物館、その後ジャティルウィ の棚田見学。  考古博物館に入る時間が遅くなった。大学は午後1時で終わり、公務員は1 時半までが勤務時間とのこと。 ジャティルウィの棚田では、本来石井進先生がここに来られる予定だったと聞 いて、感無量。 26日(木)  最終日、午前中が自由行動であったからMaya Ubud Resortホテルを出て右 (東)に下り、TK.Petanu川を橋で越えPejeng Kawanの、たぶん Salaという村 まで行ってみた。タクシーを呼ぼうかと2度程声を掛けられた。寺の前を過ぎ、 村の東側にでると、広大な水田が拡がり、あちこちで田植えをしている。あま りのすばらしさに写真をとりながら、30分近くも歩き回って見ていると、さ かんに手招きをされた。その前にも同じ事があったのだが、まさか自分が呼ば れているとは思わなかった。田植えを手伝えという意味らしい。たぶん自分は 半ズボンだったと思う。はだしになって田に入った。ずっしりと多くの苗を渡 された。植え終わるのにかなり汗も出た。50分くらいはかかったような気が した。時計をさして帰るといったら、ペットボトルを指さして、のめという。 生ぬるい水をのんだあと、生水をのんで大丈夫だったかなと真剣に悩んだが、 何の異常も生じなかった。生水といっても現地の人が飲む水は問題がない。最 後に田植えにまで参加でき、この上ないアジア・原風景紀行だった。 *以上は個人的な関心からの備忘録である。聞き取りやメモの際のまちがいが 多いと思われ、公表するようなものではないが、何かの参考になればと思い記 した。

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