網野善彦氏の歴史学

網野善彦氏の歴史学  網野善彦氏は酒豪であった。あるとき酒の場だから、という 前置きで次のようにいった。「ぼくは虐げられた人々の側にこ そ、ほんとうに人間らしい心があると考えているんだ」。網野 さんは本当にすごいと思った。むろんこうした発言は文章化さ れてはいないだろう。虐げられた人々とは何かという問題もあ る。反証をあげる人がいるかもしれない。しかしわたしはこの 吐露された真情こそが、網野史学の原点と思う。別のときには 「敗れ去った側に、歴史としてたいせつなものがある」ともい っていた。文字資料に多くをたよる歴史学では、どうしても視 点は勝者・権力者の側になりがちで、敗者や虐げられた人々の 視点には立ちにくい。意図して弱者・敗者の視点を確保した。  遺産となった網野史学の一つの柱は非農業民研究である。水 田中心史観の克服を主張した。直接農業に従事しない漁民・山 民・商人・職人らも多数いて大きな役割を果たしている。農業 で全てを語っていては、歴史の実像が見えないことは、網野氏 の指摘の通りである。目的意識的な追跡から、従来の研究が見 落としていた多くの事象が明らかになった。また農業民を見る 目も変わったような気がする。米作りをするものでも、それは 一年の内半年たらずだった。残る半年は何をしていたのか。農 業従事者であっても男と女では役割分担があった。それぞれは 農業ばかりしていたわけではない。非農業民に視点を定めた研 究は、多様な非農業民の存在、活動を明らかにしただけではな く、研究視野の拡大、深化に多大な影響を与えた。  非農業民は、ある場合には供御人として天皇と直結し、その ことによって移動生活を保障された。しかし社会的には差別さ れる存在だった。氏は名古屋大学勤務時代に大学所蔵の真継家 文書という鋳物師関係の古文書の整理に当たられた。非農業民 は天皇に直結しようとし、天皇の側も彼らの掌握を試みた。こ こから出発した視点は、神奈川大学常民文化研究所による能登 ・時国家の調査に至るまで広がり続けた。百姓はイコール農民 ではないとくりかえし強調し、海、山に進出する百姓のイメー ジを強調した。とりわけて天皇をはじめとする権力の側が、一 見すれば周辺域にあるかのような人々を掌握しようとしていた とする視点は重要である。網野とペアをくんだ石井進の遺著 『中世のかたち』も同様に、周辺域、辺境、底辺民衆をこそ、 権力は掌握したという逆説を提示している。  氏の研究テーマは天皇制、日本とはなにか、東と西のちがい、 海、交通など多い。しかし基調はすべて民衆の視点である。永 原慶二氏は『20世紀 日本の歴史学』で、網野史学を批判し た。二人はともにマルクス主義歴史学、唯物史観から出発した。 青年時代から親交があり、網野は明らかに永原の影響下に歴史 学を志した。しかしある時期から距離のある立場を取った。永 原は網野史学を戦前の日本浪漫派の歴史観に共通すると見た。 発展史観ではないこと、すなわち進歩への懐疑も批判した。枠 組みの欠如も批判した。個人的にも網野を知り尽くした永原の 批判である。わたしはこの批判を読むとき、冒頭に紹介した網 野の述懐を思わざるをえない。虐げられたものへの共感は浪漫 主義かもしれないし、敗者・弱者への思い入れは発展史観とは 異なる歴史像を要求する。つくづく史料を分析するものも、歴 史を叙述するものも、歴史家個人・個性であると思った。だが 疎外された立場のものがはたす技能をこそ、権力の側は欲した。 かれら少数者もまた権力の一翼を担っていたことは、網野・石 井が強調したところだ。永原もまた弱者への視点を持ち得た歴 史家であり、賤視された人々と大名権力の結びつきを明らかに している。しかし視点は多数派として変革の原動力たり得た 「農民」にあった。「進歩」し続ける歴史像だった。非農業民 を注視した網野の個性が豊かな歴史像を提出したことは、永原 自身認めている。網野による歴史像が歴史学研究者のみならず、 読者大衆に広く支持されたことは、無視しようがないが、それ は徹底して弱者の側にたつ、網野の視点が生み出したものなの だ。  網野善彦の著作を検索してみたら、一九八冊もの書名が出て きた。しかし意外に思うのだが、網野史学の本格的な出発であ る『無縁・公界・楽』は五〇歳の時の著作であった。研究者と しては遅咲きの大輪だった。氏が人のしごとに差を付ける「賞」 の受賞を拒みつづけた話はよく知られている(*)。あらゆる 権威を否定した。網野善彦の葬儀はなかった。遺体も献体され て自宅には戻らなかった。徹底して科学的なもの、合理的なも ののみ追求し、強い意志を持ちつづけ、最後もそれに殉じた。 墓も作られないような気がする。墓標はなくとも、多くの著作 と継承される学問が残された。われわれひとりひとりに網野史 学は生き続ける。 * ただし多数によって執筆された『日本の中世』中央公論新社 刊、全九巻に対する毎日出版文化賞は受賞した。


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