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鎌倉街道安房越え踏査記

『岳人』605、11月号154-157頁

                     服部英雄

 今年の本誌1〜2月号にわたしは「二つのザラ峠ー天正十二年、佐々成政は本 当に厳冬期の針ノ木峠を越えたのか」と題するレポートを発表した。その論旨は 佐々成政が踏破したザラ峠とは、立山ー黒部ー針ノ木越えではなく、同じくザラ (ザレ)と呼ばれていた鎌倉街道安房越えではないかというものだった。長く信 じられてきた通説に疑問を投げかける内容ではあったが、おかげさまでそれなり の反響をいただくことができた。6月19日の『信濃毎日新聞』は「ザラ峠『実 際は安房越え』と新説ーー大町では反発の声」という見出しで、私見とそれを批 判する意見の双方を紹介した。記者の岩間基樹氏は私見を支持する意見もかなり あるという手紙をくれた。賛否両論はあろうが、これを機会に議論が深まれば、 問題提起したものとしてはありがたい。  さてこのレポートを発表した時点では、実はわたしはまだ鎌倉街道安房越えを 歩いてはいなかった。6月2日、鎌倉街道の発見者である白骨温泉・丸永旅館の 服部祐雄氏のご同行を得て、わたしは念願のこの道を踏査することができた。古 道の保存状態はかなり良好で、道型は予想以上に明瞭だった。そして踏査の結果、 先の報告に一部不正確な点があったことも分かった。そこでその訂正も兼ねて、 従来ほとんど知られていなかったこの埋もれた古道を紹介することにしたい。  この安房峠は今日の自動車の通る安房峠とは異なる。現在の車道は大正池の出 現による上高地の観光地化が進むに伴い、平湯温泉と上高地を結ぶ道として開か れたものだ。旧来の峠は古絵図・地誌に信濃峠あるいは大峠として見えるもので、 標高2051・6メートルの峠である(標高は営林署作成の5000分の1図に よる)。安房山(標高2219・4メートル)とその南の2162・4メートル (国土地理院図では2165メートル)の山との中間鞍部である。この点前稿で ザラは十石山から下った最初の鞍部で、2162メートル山の南と書いたのは、 聞取りの際の誤りで、正しくはその北の安房山にもっとも近い峠である。つつし んでお詫びし訂正する。以下この道を探査する場合のポイントをあげておく。 1 安房平・出水沢を国道より10分ほど、営林署の切り開きに従って行った地 点で、最初に出会う左の枝沢に入る。 2 この沢を5分〜10分ほど登り、左の適当な尾根にやみくもに取り付く。 3 尾根の下部でフネと呼ばれる掘割り(浅い切り通し)をもつ道型に出会うは ず。緩やかな勾配の道で、けものみちのように急ではないし、狭くもない。牛馬 の通行が可能な六尺道と思われる。ただしこの道を見つけるのはなかなか大変で、 加えて我々はすぐにこの道を見失った。一旦少しくだる部分もあるようだ。 4 道が見つからなければ、ケモノミチをたどって尾根まで登るしかない。尾根 上には国土地理院の地図に明確に表現されている平坦地(標高1900メートル、 旧版五万分の一図では等高線が丸くなっていた)があり、そこからは安房平やア カンタナ山、国道が見えるが、ここまで来てしまっては本当は間違い。正しい道 は尾根の南斜面につけられている。平坦地から少し東に行けば西からゆっくりと 登ってくる道型に出会うはず。 5 このあと道が2本に分かれているようにみえるところがあるが、右の高い方 を行く。左の低い方を行くと急斜面にはばまれてしまう。正しい道はゆっくりと 「ギョウドウ」をうっている(ジグザグにあがる)。 6 この道は焼岳や安房山が見える地点(標高2000メートル)まで明瞭に続 くが、ここで崩壊地に出会い途切れる。本来の道はこの崩壊地の斜面の中を行っ たはずだが、ふつうはこれより薮こぎで、大峠の南の山をからんで峠に出ること になる。 * この崩壊地一帯を飛騨・平湯側ではザラないしザレと呼んでいる。そしてこ の道をも、また峠自身をもザレと言い、あるいは鎌倉街道・鎌倉道と言っている。 ただし信州・大野川側ではこの峠を指す呼称は何も伝わっていない。大峠・信濃 峠は古地図・地誌に見える呼称。 7 大峠は一面の笹薮。歩けなくはないが、道型は分からない。かつて5万分の 1図(昭和三十四年版、四十四年版)にも記されていた乗鞍岳ー十石山から安房 峠に下る縦走路も薮の中に消滅している。信州側の下り口も不明瞭。適当に薮の 薄いところを下り、沢の手前の平坦地について下がっていくと、道標のような形 の石が木に立てかけてある。このあたりからは明瞭。 8 倉洞沢の上部右股を越える。道型は明瞭だが対岸は倒木があってやや分かり にくい。 9 小沢を越える。 10 道が二本に分かれる。右はフネの中をいく。ただしどちらもすぐに合流する。 11 倉洞の本流を渡る。徒渉は容易。障子が瀬の横道と呼ばれる平坦な道に入 る。ただし初めは登り。横道は明瞭だがオオカメノキが雪の圧力で道を横におお っていて、歩きづらい。 12 横道は大木の中を行く。道の古さを感じさせる。一カ所斜面の崩壊したと ころを通る。信州側で道型が崩れているのはこの一カ所だけである。 13 急な支尾根を下る。途中フネの明瞭なところがある。ここよりわずかでス ーパー林道に出る。穂高展望地点の説明板のあるところより50メートルほど白 骨側にあたる。ここより送電線巡視路が急に下っているが、鎌倉街道はそれとは 別にジグザグにゆっくり下っていく。 <参考タイム>われわれは朝7時半に安房平を出て12時に大峠、4時にスーパ ー林道着だった。もっとはやく道型を発見できれば、時間の大幅な短縮が可能だ ろう。国道の出水沢出合いから現安房峠側に少しいった最初の急な沢を登れば、 大峠自体には早い。  ウェストンは明治25年と26年の二度、平湯から安房峠を越えている(『日 本アルプス・登山と探検』平凡社ライブラリーおよび岩波文庫)。前の年は平湯 を朝6時に出て、白骨を経て正午に檜峠に到着、翌年は朝5時に平湯を出て、9 時に白骨温泉の湯川に着いている。平湯ー白骨間の所用時間は4時間だった。ウ ェストンは平湯から上高地に行くのにわざわざ島々宿まで出て徳本峠を越えてい る。何十倍もの、ものすごい遠回りをしているように思う。そのことは平湯と上 高地を結ぶ道、つまり今日の安房峠が当時はまだ整備されていなかったことを語 ってはいないか。ウェストンの辿った道こそ大峠・鎌倉街道であろう。  ウェストンは平湯から橋場(島々の近く)に到る25マイル(40キロ)の道 は中部日本でもっとも優れた眺望であると絶賛した。少し不思議な気もするほど の過分のほめかただ。だが彼の叙述に登場する穂高の展望、梓川の渓谷美。ウェ ストンが賞賛するだけのものは確かにあったと思う。天気が悪かったこともあり、 わたしはこの道から穂高をみることはできなかった。しかしスーパー林道より下 の尾根では穂高から焼岳の美しい景観が展開されるという。ただしウェストンの 見た後半部、梓川渓流の本流や名勝親子滝、巌倉(がんくら)が失われているこ とはいうまでもない。  越中と信濃を結ぶ幹線ルート鎌倉街道。天正十二年(1584)の佐々成政に よるザラ越えの二十年ほど前、永禄二年(1559)あるいは同七年、武田信玄 の軍勢はしばしばこの峠を越えて飛騨入りした。ザラ越えの十六年後、慶長五年 (1600)関ヶ原の戦いには東軍の金森可重が西軍となった叔父金森掃門介や 三木残党を攻撃するため、信濃からこの峠を越えて平湯に入った。それらのこと については古文書にも古記録にも史実として記されている(『南安曇郡誌』、 『安曇村誌』、『飛騨編年史要』)。鎌倉街道は信飛越間の戦国軍道でもあった。 佐々成政の通った道はこの鎌倉街道であり、峠はザラ・信濃峠(大峠)だったと わたしは考える。しかし仮にそのことを除いても、この道は鎌倉街道と呼ばれた 鎌倉に通じる中世の幹線道路であり、戦国期にも多くの武将が越え、またアルプ ス開拓期にはウェストンたちが通った道である。私たちはこの優れた歴史の道の 復活・関係当局による整備を期待する。  なおこの道についての詳細は『歴史読本』1997年9月号にも「佐々成政 『ザラ越え』の新事実ーー北アルプス山中の謎の道『鎌倉街道』を行く」として 報告したし、同行くださった服部祐雄氏の「埋もれていた古道の発見」(『過ぎ し日々の記録』1995年刊・所収)にも詳しいので参照願いたい。 補注:大正元年の陸軍陸地測量部・5万分の1図には既に現在の安房峠が記され、 大峠の方には道の記号はない。したがってウェストンの歩いた道については現安 房峠の可能性もあり、両方について再検討したい(98/10/21)。


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