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2010年・春:国東峯入り

大聖寺五輪塔群 2月9日  歯医者に行こうと思って自転車で江の口川に出たら、クロツラヘラサギが5 羽ほどいて、えさをついばんでいた。ちかぢか浚渫工事を行うそうだから、 鳥たちも困ることだろう。 3月14日   昨夜は小池裕子・矢田修教授の最終講義。大学からバスでシーホークにいっ た。二日酔いを覚ましがてら、歩いてみると、春の気配。 元岡中学横の畑 でおしごと中のおばあさんと会話。植えている花木は、ゴテチャというそうだ。 「わたしも知らなかったけど、もらった何本かがきれいだったから増やした。 学校にあわせるわけじゃないけど、いつも運動会のときにきれいな花が咲きま す」、とのこと。楽しみにしよう。調べてみたらゴテチャは外来種で 日本語で はないらしい。よこでカササギ(カチガラス)が枝をくわえていったん屋根の 上へ、そこから電柱の上に飛んでいった。ツガイだった。 3月18日 竹田入り。熊本では花が三分咲き。荻駅近くでも一分咲き。 3月19日 岡城では一本だけ満開に近いサクラがあった。 覚左衛門屋敷は春の日射しには 心地よかった。夏はたいへんかも知れない。 3月20日 一心行のサクラまで迂回してもらった。阿蘇谷でもちらほら。すぐ上の道路の 桜は一分咲き。期待を抱かせたが一心行桜自体は全然。つぼみなのに、中に入 るのに一人300円も取るから驚いた。 じっと観察すれば一枝に一輪ぐらいは 咲いていた。全体で五輪くらい。開花ま近という所。   山鹿市(旧菊鹿町)に向かった。 史跡隈部館跡シンポジウムの終了後、北永野 の方にお話を 聞く。 小字にはなく報告書にも記載のない地名として以下が聞き取れた。 東谷 いちき谷 おうぎ(扇)谷:扇のように広がっている ひやみず谷(ここにもカナクソのずっとるです) いけんさこだん(池ノ迫谷、社の下)  てしごだん(砥石があった。鍛冶屋がいて鉄砲も扱った。社の東) 西谷 ごろうまるだん おおだ * 上永野 石阪誠幸さん 中満寅道さん(ともに昭和八年から) 3月22日 アンドレアゲルマー先生来日(教員採用プレゼンのため)。鏑木さんたちと福 岡城で歓迎花見。眠らずに時差ぼけを解消するという口実。 3月26日 笹山公園にて花見。前原駅から見ても斜面が幻想的に美しい。風が強かったが、 奇跡的に風がやんだ。 3月29日 下平へ。みこころ教会、護国神社、香嵐渓、勘八峡平戸橋。花は堪能できた。 (夜 母米寿で妹と丸はち) 3月30日から 国東六郷満山峯入り 宇佐御許山:開白護摩・西馬城に桜のきれ いな寺があった。 3月31日 熊野胎蔵寺・磨崖仏にて開白護摩 一日目智恩寺あたりから雨降る。十王岩屋ま でで挫折。 一〇年前もいっしょだった人と挨拶。   峯入りに 六郷満山 花づくし 岩飛びでは満山行者以外の女性行者が捻挫したと聞いた。 4月1日 長安寺から下る。以前は山道だったが今は舗装道路。 びっこん(びくに)は後 方から見る。川中不動は雨のため黄色・青のカラフルなカッパを着ている行者 が多かった。 無明橋の岩場は、前回(10年前)には行者が下ってくるところ が見られたが、今回は前進を強いられる。前々回大先達(前回行者)の無動寺 の和尚も今回は寺で待機。無動寺は若和尚が峯入りに参加していた。藤重さん のお寺らしい。   法螺三唱 読経荘厳 峯の春 応暦寺にて大般若。 ここよりカンガ越え。舗装道の峠越えは長い。清浄光寺遙 拝所手前でお接待。そこから山道へ。大藤岩屋手前でいったん林道に出る。岩 屋を経て峠。下る途中、 伐採で道が消えていた。ミツマタの美しいところ。 大 不動岩屋は行者の姿がよく見えた。一〇年越しの懸案がかない、今回の目的の一 つは果たせた。ただ10年間で木が繁茂していて印象はちがっていた。 また読 経は内向き、ホラ貝が外側、岩峯に向かって吹かれた。『峠の歴史学』のここの 記述は一部正誤表にのせる必要がある。 枕の岩屋や仁聞供養塔の周辺は最大の 霊地であって、静寂であるべきなのに、一般行者が六根清浄と唱和していて場 違いな印象を受けた。 五辻岩屋では一般行者が交錯し、岩場をなかなか降りら れない人もいて、休憩小屋のあたりで、6時半。岩戸寺に着いたときは真っ暗 だった。到着後の読経はすばらしかったと思う。 4月2日 大聖寺五輪塔では個々の五輪塔への錫杖による回向が行われなかった。唯一在 家の家に立ち寄る。一〇年前車いすに座って出迎えられた先代はその年の秋に 98 歳でなくなられたそうである。 文殊仙寺から清滝観音までの裏山道は山 桜が満開で行者の隊列の背景として、とても美しかった。 文殊仙寺から成仏寺 まで荷物を送ってくださった消防団の方に感謝したい。 峯入り感想  今回千燈寺にておこなわれた虫封じでの大先達の笑顔が印象的だった。 前回 に比べると虫封じに参加した子どもが多かった。この谷の子どもは少なく、3人 ということだったから、近隣から駆けつけた家族が多かった。虫封じは二度に 分けて行われた。どうやら大先達のお孫さん(大越家の姪御さんか)もおられ たらしい。  文殊仙寺・仙の岩屋で行を務めた一行が戻ってくる。走って戻ってきたお孫 さんが「おじいちゃん、一番最後だよ」と興奮していた。戻ってきた大 先達のうれしそうな表情がとてもよかった。子煩悩というのか、孫煩悩という のか。行での緊張がいっしゅん解かれた。  随喜行者の数が前回に比べて二倍ほども多かった。だから今回は規制が厳し かった。無明橋は事故があったようで、あがることも禁止されたらしい。こうず いの踊り、行者の鎖場下り、また枕の岩屋、五辻岩屋など前回はよく見ることが できた読経などの光景が見られず、しかたのないこととはいえ、いささか残念。 ホラ貝や錫杖・太鼓と般若心経の響きはすばらしかったが、戻って録音を聞き 直したら音が割れていた。それでも大先達のよく通る声が録音できており、満 足できた。岩戸寺の般若心経が特にありがたい。  熊野胎蔵寺・磨崖仏開白護摩  大不動岩屋  文殊仙寺からの山道と山ざくら 4月5日 久山会議のあと、演習林へ。みごとな山桜があって落花盛ん。堪能できた。お くの桜並木が名所のようだが、テグス病もちらほら。花を植えた時期がわかる からソメイヨシノの寿命も測れる。さくらの全部が長生きするわけではなく、 半分ぐらいは途中で枯れていくようだ。井上先生を訪ねたら定年ということだ った。ここには六本松にあったようなワシントンヤシがある。  九大粕屋演習林 花ふぶき 4月6日 高田さんが来学、今山へ。花吹雪がみごと。のみ過ぎた。 4月14日 さいのかみ湧水(生物多様性ゾーン)へ。字履形に孤高の山桜一本。 4月18日大宰府国分調査。 調査後大牟田・港倶楽部で本田佳奈さん歓迎会。渡邊・石橋・藤本・貴田参加 昼の大宰府国分では萩尾俊実(昭和11)さんから。 あの山は「みのう」(大宰府旧蹟図の火の尾、国分・坂本境の山)という、むかしは 牛のえさの草の野だった。水城との境の尾は見晴らしがいい。毘沙門山は「上の みのお」、大谷には中尾。陸(ろく)なところ、そこから大谷が枝分かれ。新池の奥は さくらがたん。ほんだん(大宰府旧蹟図の東谷を本谷)、おいわんたに(大宰府旧蹟図 の大岩谷、西谷)、じゅる谷(旧蹟図にもジル谷) 宇美町の炭焼きから来ていたおふくろ、実家のばあちゃんから 「国分の大谷は四十八谷、じゃ(蛇)の住むげな」 といわれた。大宰府旧蹟図の谷の名前はわからないが、そういう谷をいうんだ ろう。 西ノ池の水は上から自然に入る。新池と尺じょう池は大谷川の水を横から取る。 新池は国分で一番大きい。サクラがたんからくるけれど、上流面積が少ない。 塔の元井堰(上ノ池と新池の水)、陣の井堰(西ノ池の水) 旱魃には上のみのお、けいさし井戸、峠の境、門跡の上、わらで龍を作ってか ついで井戸をさらう。話を聞いただけ。 水城・伊藤進さん (大宰府旧蹟図の)かさね池は(水城)大谷川から。上の堤と下の堤、それで 重ね池。鐘が浦池、塚口池、堀切池。満水になったら大野城30%、太宰府市 70%、なりやかた池というのが菰池のことでしょう。鷺が浦池はサッカウラ (先が浦)池、今も団地の中にある。 丸山は今は団地。水城堤防、もっこでかろうて、山から持ってきてここでおろし た。水城台、そこの谷、むかしは何っていいおったですがね。 大宰府旧蹟図北図(太宰府市史環境編より。赤いまるで囲んだ地名は現在の小字。 火の尾と大谷の間に多数の谷地名が書かれているが、いまでは中尾以外には確認できない。 炭焼きが盛んだった頃には生活上必要な地名ばかりだった。 4月24日 奈良阪調査。奈良近郊にあのような田園地帯が残っている。林の中に山桜が残 っていた。民主党の戸別補償の影響だろうか。田に作業する若い人が目立つ。 小字(『奈良阪町史』地図)以外の検出地名 さいめんたに(字道幸坊・どうくぼにある二つの谷のうち東側の谷) さむし ろ谷(さむしょ谷、武蔵谷の近く) ひめこ谷(菖蒲谷の内刑務所の北の谷) はりま谷(位置未詳、大谷の方だという) いろは坂(湯の尻から中ノ垣内に出る二つの坂の内東側) 湯の尻坂(同西側 の坂) ぐれぐれざか(奥の垣内から養老ヶ峰・元明陵にでる坂) なかなか場所がわからなかった「さいめんたに」は意外に若い方が知っていた (辰巳直大さん)。 5月2日(日) 連休で大学周りには食べ物屋がない。行きがけに元岡小前のお寿司屋(玄海) にはいる。 以下はそこでのお話。 川(瑞梅寺川)にはセイゴやコイがいる。むかしはサングラスをかけたおじさ んが橋の上から投網。大きなセイゴを二匹もとった。 コイはふだん真水域を行ったりきたり。引き潮になれば下にいる。満ち潮にな ればあがってくる。堰はのぼれない。だんだん塩水が濃くなるから流れの下にか たまっている。産卵の時期にはのぼる。コイは風呂桶に井戸の水をすこしずつ 流して、二日も三日も生かしておかないと食べられない。下の方にはウナギの筒 がある。だれもとらないからもらってくる。ボラも五〇センチくらいのだったら いる。今津橋のあたりは多い。この川の漁業権はシラウオぐらいしかない。む かしはシラウオがいたが今はいない。いまは復活したかも知れないが、堤防工 事中でしばらくだめ。ゲリラ豪雨ではなく台風で何度もこの川の堤防は切れて いる。むかしはオンキュウ、ほんとに小さいのから、形がわかるようなものま で、いっぱいいた。今でもいるのではないか。むかしからオンキュウといって きた。漁師は網にかかるからいやがる。逃がせばまた網にかかる。見えないあ たりに捨てていた。 瓜尾貝塚 こどものときほうきを持ってヤジリをさがした。よく出てきた。古墳があった ことは子どもの時から知っていた。 5月3日 (月) 井原山洗谷。花びらが落ちているので見上げると山桜。滝登りの途中、滝の反対 右岸側に岩を割って根をはるサクラがあった。サクラは見られたがミツバツツ ジがほとんどつぼみばかりだったので、一同がっかり。昨年同じ日には満開だ った。水無にはニリンソウは多く、楽園。下って、キトク橋にて小さな川虫を 捕って釣り。2度ほど魚のあたりがあったがつれなかった。子どものエノハか。 5月6日 (木) 学生を引率して柑子岳登山。この山はナルコユリ(鳴子百合)がとてもおおい。 気になった雨も何とか保った。雲は垂れ込めていたが、ぎゃくに遠望は効いて 遠くの島がくっきりとみえた。山を下りたらまだボタン桜が残っていた。路上 にみあげる長い藤のふさがみごと。野いちごもおいしかった。学生は前と間が 空いてしまっても全く急がない。まちがえやすい曲がり角にたって、誘導して いたら、前をいったグループの方が道をまちがえたようだ。毎年整備されている ようだが、道標の数は少ない。TAの貴田君は登りで落伍者に同行して、さっさ と下山してしまったようだ。一人での引率はかなりムリがある。 次回は今回の下り道(村上登山道)を上りに取ることにする。 5月22日 (土) ゴテチャが咲き始めている。元岡も麦秋である。 土曜日は少しだけ落ち着く。今週は文化庁出張もあったけれど、坪井卒寿論集 の再投稿、図書館へのレポジトリ依頼、某誌への投稿など懸案を少しずつ消化。 明日も出張(長崎)だから今日中には科研実績報告を作成しなければならない。 昼、外に出るとホトトギスが鳴いていた。里では珍しい。 卯の花の匂う垣根に ホトトギス 早も来・鳴きて 忍び音もらす 夏は来ぬ    (佐佐木信綱) 忍び音は四月頃に聞くホトトギスの初音(はつね)。 「しのびねを出せ目籠のうちの鶯」(田植草紙) これはうぐいす。 ホトトギスもカッコウと同様に托卵する。コモンルームの窓を開けると北側の 山からウグイスの声が聞こえる。生命を懸けての両者のバトルは、のどかな鳴 き声からは想像もできない。 卯の花はソウトメ(早乙女)、田植え花とよばれると毎日新聞コラムにあった。 卯の花は梅雨の前兆。昼から雨になった。 夜になると、かえるがうるさい。

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